原文

【原文】第17帖「絵合」(全文・ルビ付き)

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 前斎宮せんさいくうの御参りのこと、中宮の御心に入れてもよほしきこえたまふ。こまかなる御とぶらひまで、とり立てたる御後見うしろみもなしとおぼしやれど、大殿おほいとのは、院に聞こし召さむことをはばかりたまひて、二条院に渡したてまつらむことをも、このたびはおぼしとまりて、ただ知らず顔にもてなしたまへれど、おほかたのことどもは、とりもちて親めききこえたまふ。

 院はいと口惜しくおぼし召せど、人ろければ、御消息せうそこなど絶えにたるを、その日になりて、えならぬ御よそひども、御くしはこ打乱うちみだりはこかうはこども、世の常ならず、くさぐさの御薫物たきものども、くぬかう、またなきさまに、百歩ひやくぶの外を多く過ぎ匂ふまで、心ことにととのへさせたまへり。大臣おとど見たまひもせむにと、かねてよりやおぼしまうけけむ、いとわざとがましかむめり。殿も渡りたまへるほどにて、かくなむと女別当によべたう御覧ぜさす。ただ、御くしはこの片つ方を見たまふに、尽きせずこまかになまめきて、めづらしきさまなり。さしくしはこ心葉こころはに、

「別れに添へし小くしをかことにてはるけき仲と神やいさめし」

 大臣おとどこれを御覧じつけておぼしめぐらすに、いとかたじけなくいとほしくて、わが御心のならひ、あやにくなる身をみて、かの下りたまひしほど、御心に思ほしけむこと、かう年経て帰りたまひて、その御心ざしをもとげたまふべきほどに、かかるたがひ目のあるをいかに思すらむ、御位を去り、もの静かにて、世をうらめしとや思すらむ、など、我になりて心動くべきふしかなとおぼし続けたまふに、いとほしく、何にかくあながちなることを思ひはじめて、心苦しく思ほし悩ますらむ、つらしとも思ひきこえしかど、またなつかしうあはれなる御心ばへを、など思ひ乱れたまひて、とばかりうちながめたまへり。

「この御返りは、いかやうにか聞こえさせたまふらむ。また、御消息せうそこもいかが」

 など聞こえたまへど、いとかたはらいたければ、御文はえ引き出でず。宮は悩ましげにおぼして、御返りいともの憂くしたまへど、

「聞こえたまはざらむも、いと情けなく、かたじけなかるべし」

 と、人々そそのかしわづらひきこゆるけはひを聞きたまひて、

「いとあるまじき御ことなり。しるしばかり聞こえさせたまへ」

 と聞こえたまふも、いと恥づかしけれど、いにしへおぼし出づるに、いとなまめき、きよらにて、いみじう泣きたまひし御さまを、そこはかとなくあはれと見たてまつりたまひし御幼心も、ただ今のこととおぼゆるに、故御息所みやすんどころの御ことなど、かきつらねあはれにおぼされて、ただかく、

「別るとて遥かに言ひし一言もかへりてものは今ぞ悲しき」

 とばかりやありけむ。御使のろく、品々に賜はす。大臣おとどは、御返りをいとゆかしうおぼせど、え聞こえたまはず。

 院の御ありさまは、女にて見たてまつらまほしきを、この御けはひも似げなからず、いとよき御あはひなめるを、内裏うちはまだいといはけなくおはしますめるに、かく引きたがへきこゆるを、人知れず、ものしとや思すらむなど、憎きことをさへおぼしやりて、胸つぶれたまへど、今日になりておぼしとどむべきことにしあらねば、事どもあるべきさまにのたまひおきて、むつましう思す修理宰相すりのさいしやうを詳しく仕うまつるべくのたまひて、内裏うちに参りたまひぬ。うけばりたる親ざまには聞こし召されじと、院をつつみきこえたまひて、御とぶらひばかりと見せたまへり。よき女房などはもとより多かる宮なれば、里がちなりしも参り集ひて、いとなく、けはひあらまほし。あはれ、おはせましかば、いかにかひありておぼしいたづかましと、昔の御心ざまおぼし出づるに、おほかたの世につけては、惜しうあたらしかりし人の御ありさまぞや、さこそえあらぬものなりけれ、よしありし方はなほすぐれて、ものの折ごとに思ひ出できこえたまふ。

 中宮も内裏うちにぞおはしましける。上はめづらしき人参りたまふと聞こし召しければ、いとうつくしう御心づかひしておはします。ほどよりはいみじうされおとなびたまへり。宮も、

「かく恥づかしき人参りたまふを、御心づかひして、見えたてまつらせたまへ」

 と聞こえたまひけり。人知れず、大人は恥づかしうやあらむとおぼしけるを、いたう夜更けて参う上りたまへり。いとつつましげにおほどかにて、ささやかにあえかなるけはひのしたまへれば、いとをかしとおぼしけり。弘徽こき殿でんには御覧じつきたれば、むつましうあはれに心やすく思ほし、これは、人ざまもいたうしめり、恥づかしげに、大臣おとどの御もてなしも、やむごとなくよそほしければ、あなづりにくくおぼされて、御宿直とのゐなどは等しくしたまへど、うちとけたる御童遊びに、昼など渡らせたまふことは、あなたがちにおはします。権中納言ごんちゆうなごんは、思ふ心ありて聞こえたまひけるに、かく参りたまひて、御女にきしろふさまにてさぶらひたまふを、方々かたがたにやすからず思すべし。

 院には、かのくしはこの御返り御覧ぜしにつけても、御心離れがたかりけり。そのころ、大臣おとどの参りたまへるに、御物語こまやかなり。ことのついでに、斎宮の下りたまひしこと、さきざきものたまひ出づれば、聞こえ出でたまひて、さ思ふ心なむありしなどは、えあらはしたまはず。大臣おとども、かかる御けしき聞き顔にはあらで、ただいかがおぼしたるとゆかしさに、とかうかの御事をのたまひ出づるに、あはれなる御けしきあさはかならず見ゆれば、いといとほしく思す。めでたしと思ほししみにける御容貌かたち、いかやうなるをかしさにかと、ゆかしう思ひきこえたまへど、さらにえ見たてまつりたまはぬを、ねたう思ほす。いと重りかにて、夢にもいはけたる御ふるまひなどのあらばこそ、おのづからほの見えたまふついでもあらめ、心にくき御けはひのみ深さまされば、見たてまつりたまふままに、いとあらまほしと思ひきこえたまへり。かく隙間なくて、二所さぶらひたまへば、兵部卿宮ひやうぶきやうのみや、すがすがともえ思ほし立たず、帝おとなびたまひなば、さりともえ思ほし捨てじとぞ、待ち過ぐしたまふ。二所の御おぼえども、とりどりに挑みたまへり。

 上は、よろづのことにすぐれて絵をきようあるものにおぼしたり。立てて好ませたまへばにや、なく描かせたまふ。斎宮の女御、いとをかしう描かせたまひければ、これに御心移りて、渡らせたまひつつ、描き通はさせたまふ。殿上の若き人々も、このことまねぶをば御心とどめてをかしきものに思ほしたれば、ましてをかしげなる人の心ばへあるさまに、まほならず描きすさび、なまめかしう添ひ臥して、とかく筆うちやすらひたまへる御さま、らうたげさに御心しみて、いとしげう渡らせたまひて、ありしよりけに御思ひまされるを、権中納言ごんちゆうなごん聞きたまひて、あくまでかどかどしく今めきたまへる御心にて、われ人に劣りなむやとおぼしはげみて、すぐれたる上手どもを召し取りて、いみじくいましめて、またなきさまなる絵どもを、なき紙どもに描き集めさせたまふ。

「物語絵こそ、心ばへ見えて、見所あるものなれ」

 とて、おもしろく心ばへある限りをりつつ描かせたまふ。例の月次つきなみの絵も、見馴れぬさまに、言の葉を書き続けて御覧ぜさせたまふ。わざとをかしうしたれば、またこなたにてもこれを御覧ずるに、心やすくも取り出でたまはず、いといたく秘めて、この御方へ持て渡らせたまふを惜しみ領じたまへば、大臣おとど聞きたまひて、

「なほ権中納言ごんちゆうなごんの御心ばへの若々しさこそ、改まりがたかめれ」

 など笑ひたまふ。

「あながちに隠して、心やすくも御覧ぜさせず、悩ましきこゆる、いとめざましや。古代の御絵どものはべる、参らせむ」

 と奏したまひて、殿に古きも新しきも絵ども入りたる御厨子みづしども開かせたまひて、女君ともろともに、今めかしきはそれそれと、りととのへさせたまふ。『長恨歌ちやうごんか』『王昭君わうせうくん』などやうなる絵は、おもしろくあはれなれど、事の忌みあるはたみはたてまつらじとりとどめたまふ。

 かの旅の御日記の箱をも取り出でさせたまひて、このついでにぞ女君にも見せたてまつりたまひける。御心深く知らで今見む人だに、すこしもの思ひ知らむ人は、涙惜しむまじくあはれなり。まいて忘れがたく、その世の夢をおぼしさます折なき御心どもには、取りかへし悲しうおぼし出でらる。今まで見せたまはざりける恨みをぞ聞こえたまひける。

「一人ゐて嘆きしよりは海士の住むかたをかくてぞ見るべかりける

おぼつかなさは、慰みなましものを」

 とのたまふ。いとあはれとおぼして、

「憂きめ見しその折よりも今日はまた過ぎにしかたにかへる涙か」

 中宮ばかりには、見せたてまつるべきものなり。かたはなるまじき一帖づつ、さすがに浦々のありさまさやかに見えたるを、りたまふついでにも、かの明石の家居ぞ、まづいかにとおぼしやらぬ時の間なき。

 かう絵ども集めらると聞きたまひて、権中納言ごんちゆうなごん、いと心を尽くして、軸、表紙、紐の飾り、いよいよととのへたまふ。弥生の十日のほどなれば、空もうららかにて、人の心ものび、ものおもしろき折なるに、内裏うちわたりも、せちどものひまなれば、ただかやうのことどもにて、御方々かたがた暮らしたまふを、同じくは、御覧じ所もまさりぬべくてたてまつらむの御心つきて、いとわざと集め参らせたまへり。こなたかなたとさまざまに多かり。物語絵はこまやかに、なつかしさまさるめるを、梅壺むめつぼの御方は、いにしへの物語、名高くゆゑある限り、弘徽こき殿でんは、そのころ世にめづらしく、をかしき限りをり描かせたまへれば、うち見る目の今めかしきはなやかさは、いとこよなくまされり。上の女房なども、よしある限り、これは、かれは、など定めあへるを、このころのことにすめり。

 中宮も参らせたまへるころにて、方々かたがた御覧じ捨てがたく思ほすことなれば、御行なひもおこたりつつ御覧ず。この人々のとりどりに論ずるを聞こし召して、左右と方分かたせたまふ。梅壺むめつぼの御方には、平典侍へいないしのすけ、侍従の内侍ないし、少将の命婦みやうぶ。右には大弐の典侍、中将の命婦みやうぶ、兵衛の命婦みやうぶを、ただ今は心にくき有職いうそくどもにて、心々にあらそふ口つきどもををかしと聞こし召して、まづ、物語の出で来はじめのおやなる『竹取のおきな』に『宇津保うつほ俊蔭としかげ』を合はせてあらそふ。

「なよ竹の世々にりにけること、をかしきふしもなけれど、かくや姫のこの世の濁りにもけがれず、はるかに思ひのぼれる契り高く、かみのことなめれば、あさはかなる女、目及ばぬならむかし」

 と言ふ。右は、かくや姫ののぼりけむくもはげに及ばぬことなれば、誰も知りがたし。この世の契りは竹の中に結びければ、下れる人のこととこそは見ゆめれ。ひとつ家の内は照らしけめど、百敷ももしきのかしこき御光には並ばずなりにけり。阿部あべのおほしが千々ちぢ黄金こがねを捨てて、火鼠の思ひ片時に消えたるも、いとあへなし。車持くらもち親王みこの、まことの蓬莱ほうらいの深き心も知りながら、いつはりて玉の枝にきずをつけたるをあやまちとなす。絵は巨勢相覧こせのあふみ、手は紀貫之きのつらゆき書けり。紙屋紙かむやがみに唐のをばいして、赤紫の表紙、たんの軸、世の常の装ひなり。俊蔭としかげは、はげしき波風におぼほれ、知らぬ国に放たれしかど、なほさして行きける方の心ざしもかなひて、つひに人の朝廷みかどにもわが国にもありがたき才のほどを広め、名を残しける古き心を言ふに、絵のさまも、唐土もろこしと日の本とを取り並べて、おもしろきことどもなほ並びなしと言ふ。白き色紙、青き表紙、黄なる玉の軸なり。絵は道風みちかぜつねのり、手は道風なれば、今めかしうをかしげに、目もかかやくまで見ゆ。また左にそのことわりなし。

 次に、『伊勢物語』に『正三位じやうざんゐ』を合はせて、また定めやらず。これも、右はおもしろくにぎははしく、内裏うちわたりよりうちはじめ、近き世のありさまを描きたるは、をかしう見所まさる。平内侍ないし

「伊勢の海の深き心をたどらずてふりにし跡と波や消つべき

世の常のあだことのひきつくろひ飾れるに圧されて、業平なりひらが名をやくたすべき」

 と、あらそひかねたり。右のすけ、

「雲の上に思ひのぼれる心にはひろの底もはるかにぞ見る」

「兵衛の大君の心高さは、げに捨てがたけれど、在五中将の名をば、えくたさじ」

 とのたまはせて、宮、

「みるめこそうらふりぬらめ年経にし伊勢をの海人の名をやぢんめむ」

 かやうの女言にて、乱りがはしくあらそふに、一巻に言の葉を尽くして、えも言ひやらず。ただ、あさはかなる若人どもは、死にかへりゆかしがれど、上のも宮のも片端をだにえ見ず、いといたう秘めさせたまふ。

 大臣おとど参りたまひて、かくとりどりにあらそひ騒ぐ心ばへども、をかしくおぼして、

「同じくは、御前にてこの勝負かちまけ定めむ」

 と、のたまひなりぬ。かかることもやと、かねておぼしければ、中にもことなるはりとどめたまへるに、かの須磨、明石の二巻は、思すところありて取り交ぜさせたまへり。中納言もその御心劣らず。このころの世には、ただかくおもしろき紙絵をととのふることを、天の下いとなみたり。

「今あらため描かむことは、本意ほいなきことなり。ただありけむ限りをこそ」

 とのたまへど、中納言は人にも見せで、わりなき窓を開けて描かせたまひけるを、院にも、かかること聞かせたまひて、梅壺むめつぼに御絵どもたてまつらせたまへり。年の内のせちどものおもしろくきようあるを、昔の上手どものとりどりに描けるに、えんの御手づからことの心書かせたまへるに、またわが御世の事も描かせたまへる巻に、かの斎宮の下りたまひし日の大極殿だいこくでんの儀式、御心にしみておぼしければ、描くべきやう詳しく仰せられて、公茂きむもちが仕うまつれるが、いといみじきをたてまつらせたまへり。えんに透きたるぢんの箱に、同じき心葉こころはのさまなど、いと今めかし。御消息せうそこはただ言葉にて、院の殿上にさぶらふ左近中将を御使にてあり。かの大極殿だいこくでんの御輿こし寄せたる所の、神々しきに、

「身こそかくしめの外なれそのかみの心のうちを忘れしもせず」

 とのみあり。聞こえたまはざらむも、いとかたじけなければ、苦しうおぼしながら、昔の御かむざしの端をいささか折りて、

「しめのうちは昔にあらぬ心地してかみのことも今ぞ恋しき」

 とて、はなだの唐の紙に包みて参らせたまふ。御使のろくなど、いとなまめかし。院の帝御覧ずるに、限りなくあはれと思すにぞ、ありし世を取り返さまほしく思ほしける。大臣おとどをもつらしと思ひきこえさせたまひけむかし。過ぎにし方の御報いにやありけむ。院の御絵は、后の宮より伝はりて、あの女御の御方にも多く参るべし。尚侍の君も、かやうの御好ましさは人にすぐれて、をかしきさまにとりなしつつ集めたまふ。

 その日と定めて、にはかなるやうなれど、をかしきさまにはかなうしなして、左右の御絵ども参らせたまふ。女房の侍にましよそはせて、北南方々かたがた別れてさぶらふ。殿上人は、後涼殿こうらうでん簀子すのこに、おのおの心寄せつつさぶらふ。左はたんの箱にはうそく、敷物には紫地の唐の錦、打敷うちしき葡萄えびぞめの唐のなり。童六人、赤色に桜襲さくらがさね汗衫かざみあこめは紅に藤襲ふぢがさねの織物なり。姿、用意など、なべてならず見ゆ。右はぢんの箱に浅香せんかう下机したづくゑ打敷うちしきは青地の高麗こまの錦、あしゆひのくみそくの心ばへなど、今めかし。童、青色に柳の汗衫かざみ山吹襲やまぶきがさねあこめ着たり。皆、御前にき立つ。上の女房、前後まへしりへさうき分けたり。

 召しありて、内大臣おとど権中納言ごんちゆうなごん、参りたまふ。その日、帥宮そちのみやも参りたまへり。いとよしありておはするうちに、絵を好みたまへば、大臣おとどの、下にすすめたまへるやうやあらむ、ことことしき召しにはあらで、殿上におはするを、仰せ言ありて御前に参りたまふ。この判つかうまつりたまふ。いみじう、げに描き尽くしたる絵どもあり。さらにえ定めやりたまはず。例の四季の絵も、いにしへの上手どものおもしろきことどもをびつつ、筆とどこほらず描きながしたるさま、たとへむかたなしと見るに、紙絵は限りありて、山水のゆたかなる心ばへをえ見せ尽くさぬものなれば、ただ筆の飾り、人の心に作り立てられて、今のあさはかなるも、昔のあと恥なく、にぎははしく、あなおもしろと見ゆる筋はまさりて、多くのあらそひども、今日は方々かたがたきようあることも多かり。

 朝餉あさがれひの御障子を開けて、中宮もおはしませば、深うしろしめしたらむと思ふに、大臣おとどもいと優におぼえたまひて、所々の判ども心もとなき折々に、時々さし答へたまひけるほど、あらまほし。定めかねて夜に入りぬ。左はなほ数一つある果てに、須磨の巻出で来たるに、中納言の御心騒ぎにけり。あなたにも心して、果ての巻は心ことにすぐれたるをり置きたまへるに、かかるいみじきものの上手の、心の限り思ひすまして静かに描きたまへるは、たとふべきかたなし。親王みこよりはじめたてまつりて、涙とどめたまはず。その世に、心苦し悲しと思ほししほどよりも、おはしけむありさま、御心におぼししことども、ただ今のやうに見え、所のさま、おぼつかなき浦々、磯の隠れなく描きあらはしたまへり。草の手に仮名の所々に書きまぜて、まほの詳しき日記にはあらず、あはれなる歌などもまじれる、たぐひゆかし。誰も異事ことこと思ほさず、さまざまの御絵のきよう、これに皆移り果てて、あはれにおもしろし。よろづ皆おしゆづりて、左勝つになりぬ。

 夜明け方近くなるほどに、ものいとあはれにおぼされて、御土器かはらけなど参るついでに、昔の御物語ども出で来て、

「いはけなきほどより、学問に心を入れてはべりしに、すこしもざえなどつきぬべくや御覧じけむ、院ののたまはせしやう、才学さいがくといふもの、世にいと重くするものなればにやあらむ、いたう進みぬる人の、命、幸ひと並びぬるは、いとかたきものになむ。品高しなたかく生まれ、さらでも人に劣るまじきほどにて、あながちにこの道な深く習ひそと、いさめさせたまひて、本才の方々かたがたのもの教へさせたまひしに、つたなきこともなく、またとり立ててこのことと心得ることもはべらざりき。絵描くことのみなむ、あやしくはかなきものから、いかにしてかは心ゆくばかり描きて見るべきと思ふ折々はべりしを、おぼえぬ山賤やまがつになりて、四方よもの海の深き心を見しに、さらに思ひ寄らぬ隈なく至られにしかど、筆のゆく限りありて、心よりはことゆかずなむ思うたまへられしを、ついでなくて御覧ぜさすべきならねば、かう好き好きしきやうなる、後の聞こえやあらむ」

 と、親王みこに申したまへば、

「何の才も、心より放ちて習ふべきわざならねど、道々にものの師あり、学び所あらむは、ことの深さ浅さは知らねど、おのづから移さむにあとありぬべし。筆取る道と碁打つこととぞ、あやしう魂のほど見ゆるを、深き労なく見ゆるおれ者も、さるべきにて、書き打つたぐひも出で来れど、家の子の中には、なほ人に抜けぬる人、何ごとをも好み得けるとぞ見えたる。院の御前にて、親王みこたち、内親王みこ、いづれかは、さまざまとりどりの才習はさせたまはざりけむ。その中にも、とり立てたる御心に入れて、伝へ受けとらせたまへるかひありて、文才もんざいをばさるものにて言はず、さらぬことの中には、琴弾かせたまふことなむ一の才にて、次には横笛、琵琶、さうの琴をなむ、次々に習ひたまへると、上もおぼしのたまはせき。世の人、しか思ひきこえさせたるを、絵はなほ筆のついでにすさびさせたまふあだこととこそ思ひたまへしか、いとかう、まさなきまで、いにしへの墨がきの上手ども、あとをくらうなしつべかめるは、かへりて、けしからぬわざなり」

 と、うち乱れて聞こえたまひて、酔ひ泣きにや、院の御こと聞こえ出でて、皆うちしほれたまひぬ。

 二十日あまりの月さし出でて、こなたはまださやかならねど、おほかたの空、をかしきほどなるに、書司ふむのつかさの御琴召し出でて、ごん権中納言ごんちゆうなごん賜はりたまふ。さはいへど、人にまさりてかき立てたまへり。親王みこさうの御琴、大臣おとど、琴、琵琶は少将の命婦みやうぶ仕うまつる。上人の中にすぐれたるを召して、拍子賜はす。いみじうおもしろし。明け果つるままに、花の色も人の御容貌かたちどももほのかに見えて、鳥のさへづるほど、心地ゆき、めでたき朝ぼらけなり。ろくどもは、中宮の御方より賜はす。親王みこは、御衣また重ねて賜はりたまふ。

 そのころのことには、この絵の定めをしたまふ。

「かの浦々の巻は、中宮にさぶらはせたまへ」

 と聞こえさせたまひければ、これが初め、また残りの巻々ゆかしがらせたまへど、

「今、次々に」

 と聞こえさせたまふ。上にも御心ゆかせたまひておぼし召したるを、うれしく見たてまつりたまふ。はかなきことにつけても、かうもてなしきこえたまへば、権中納言ごんちゆうなごんは、なほおぼえ圧さるべきにやと、心やましうおぼさるべかめり。上の御心ざしは、もとよりおぼししみにければ、なほこまやかにおぼし召したるさまを、人知れず見たてまつり知りたまひてぞ、頼もしく、さりともとおぼされける。

 さるべきせちどもにも、この御時よりと、末の人の言ひ伝ふべき例を添へむとおぼし、私ざまのかかるはかなき御遊びも、めづらしき筋にせさせたまひて、いみじき盛りの御世なり。大臣おとどぞ、なほ常なきものに世をおぼして、今すこしおとなびおはしますと見たてまつりて、なほ世を背きなむと深く思ほすべかめる。昔のためしを見聞くにも、よはひ足らで、官位高くのぼり、世に抜けぬる人の、長くえ保たぬわざなりけり、この御世には、身のほどおぼえ過ぎにたり、中ごろなきになりてぢんみたりし愁へにかはりて、今までもながらふるなり、今より後の栄えは、なほ命うしろめたし、静かに籠もりゐて、後の世のことをつとめ、かつはよはひをも延べむと思ほして、山里ののどかなるを占めて、御堂を造らせたまひ、仏経ほとけきやうのいとなみ添へてせさせたまふめるに、末の君たち、思ふさまにかしづき出だして見むとおぼし召すにぞ、とく捨てたまはむことはかたげなる。いかにおぼしおきつるにかと、いと知りがたし。

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鴨
2024年9月から『源氏物語』の全訳に挑戦しています。10年がかりのライフワークです。
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