第1帖「桐壺」(7)くれまどふ心の闇も

国貞『源氏香の図』
典:国会図書館「NDLイメージバンク」

原文・語釈

くれまどふ心の闇も、耐へがたき片端を

「くれまどふ心のやみも、へがたき片端かたはしをだにるくばかりにこえまほしうはべるを、わたくしにも心のどかにまかでたまへ。としごろ、うれしくおもたしきついでにてりたまひしものを、かかる御消息せうそこにてたてまつる、かへすがへすつれなきいのちにもはべるかな。

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  • くれまどふ【暗れ惑ふ】:目の前が真っ暗になる。途方に暮れる。
  • かたはし【片端】:(もの事の)一部分。一端。
  • わたくし【私】:内々のこと。個人的なこと。
  • こころのどか【心長閑】:心の落ち着いてゆったりしているさま。のんびりしているさま。
  • としごろ【年頃】:ここ数年もの間。数年来。
  • おもだたし【面たし】:名誉だ。光栄に思う。晴れがましい。
  • せうそこ【消息せうそこ】:訪問して、来意を告げること。
  • かへすがへす【返す返す】:くり返し。何度も。何度考え直しても。
  • つれなし:無情だ。ひや淡である。つれない。よそよそしい。
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生まれし時よりおもふ心ありし人にて

生まれし時よりおもふ心ありし人にて、故だいごんいまはとなるまで、

『ただ、この人の宮仕みやづかへの本意ほい、かならずげさせたてまつれ。われくなりぬとてくちしう、おもひくづほるな』

 と、かへすがへすいさめおかれはべりしかば、はかばかしう後見うしろみおもふ人もなきじらひは、なかなかなるべきこととおもひたまへながら、ただかの遺言ゆいごむたがへじとばかりに、だしてはべりしを、

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  • いまは【今は】:臨終。
  • ほい【本意ほい】:本来の志。前からの望み。宿願。
  • おもひくづほる【おもひ頽る】:気を落とす。気が弱くなる。
  • いさむ【諌む】:忠告する。意する。
  • まじらひ【交じらひ】:宮つかえ。
  • いだしたつ【だしつ】:宮つかえにす。
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身にあまるまでの御心ざしの

身にあまるまでの御心ざしの、よろづにかたじけなきに、ひとなきはぢかくしつつじらひたまふめりつるを、人のそねみ深く積り、安からぬことおほくなりひはべりつるに、横様よこさまなるやうにてつひにかくなりはべりぬれば、かへりてはつらくなむ、かしこき御心ざしをおもひたまへられはべる。これもわりなき心のやみになん」

 と、ひもやらずむせかへりたまふほどに夜もふけぬ。

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  • よろづに【万に】:いろいろと。何事につけて。
  • ひとげなし【人気無し】:人並でない。一人前の扱いを受けない。
  • めりつ:⋯ようだ。
  • よこさま【横様】:道理にあわないこと。ふつうでなく異常なようす。
  • かへりて【却りて】:かえって。反たいに。逆に。
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上もしかなん


うへもしかなん。

『わが御心ながら、あながちに人目おどろくばかりおぼされしも、ながかるまじきなりけりと、今はつらかりける人のちぎりになむ世に、いささかも人の心をまげたることはあらじとおもふを、

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  • あながち【つよち】:むやみだ。度を越しているさま。一途であるさま。
  • ちぎり【ちぎり】:前世からの約束。宿縁
  • いささか【聊か】:少しも。まったく。
  • まぐ【曲ぐ・枉ぐ】:悪い方向へ無理に向ける。ねじ曲げる。
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ただこの人のゆゑにて、あまたさるまじき

ただこの人のゆゑにて、あまたさるまじき人のうらみをひしはて、はてはかううち捨てられて、心をさめむかたなきに、いとど人わろうかたくなになりはべるも、先の世ゆかしうなむ』

 とうちかへしつつ、御しほたれがちにのみおはします」

 と、語りて尽きせず。泣く泣く、

「夜いたうふけぬれば、今宵こよひぐさず、御かへそうせむ」

 と、急ぎまゐる。

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  • さるまじ【然るまじ】:そうあるべきでない。不適当である。
  • はてはて【果て果て】:あげくのはて。
  • ひとわろし【人悪し】:外が悪い。みっともない。ずかしい。
  • かたくなし【頑なし】:ひねくれている。愚かである。
  • ゆかし【床し】:好奇心がもたれ、そのものに心が向かっていく状態。きたい。りたい。
  • しほたる【潮垂る】:涙をぬぐった袖からしずくが垂れる。涙にくれる。
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第1帖「桐壺」現代語訳(7)

「まっ暗に暮れ惑う心の闇も、耐えがたい思いの片端だけでも晴れるまでお話したいと存じますので、勅使としてではなく、私的にごゆっくりとお越しくださいませ。ここ数年は喜ばしく晴れやかなにおりくださいましたものを、このような悲しいお便りの御使いとしてお目にかかろうとは、まったくもってつれない命でありますね。生まれた時より志のある娘でしたので、亡きをとこだいごんは臨終の間際まで、

『ただ、この子の宮つかえの志だけは、必ず果たしてあげてください。わたしが死んだからといって悔しく思い、気落ちさせないように』

 と、くり返しご忠告を残されました。しっかりとした後を考える人もいない中での宮つかえは、むしろ厳しいことであろうと思いながらも、ただをとこの遺に背いてはいけないとばかりに宮つかえへさせました。すると身に余るまでの御厚意をいただき、すべてにおいてありがたいことで、周囲から人並みに扱われないを隠しながら宮つかえをしていたようです。

 でもそのうち他の人々の嫉妬が深く積み重なり、穏やかでないことがおほくつきまとっていたことにより、呪われたかのような様子でとうとう亡くなってしまいました。かえってつらかったであろうと、もったいない御厚意をそのように思ってしまうのでございます。これも分別を失った心の闇ゆえでしょうか⋯⋯」

 と、いも終わらず涙でむせ返られているうちに、夜もふけてしまいました。

「帝もそのようにおっしゃっております。

『わたしの真心であったとはいえ、あれほど一途に人目を驚かせるほど愛したのも、きっと長くない運命であったのだろう。今思い起こすと、つらかった前世からの宿縁であろう今世で、更はいささかも人の心をねじ曲げたことはないはずだと思うのに、ただこの人の身分のために、数おほくのすじたがいな人の恨みを背負って果ててしまった。果てはこうもうち捨てられて、心を鎮めようにもすべがなく、いよいよ人きが悪くかたくなになってしまったのも、先の世をてみたいものだ』

 と、くり返されながら、涙で御袖を濡らすことがおほくなるばかりでございます」

 と、命婦みやうぶも語り尽くせません。泣く泣く、

「夜もすっかりふけてしまいましたので、今宵はごさず、御返事を帝にお伝えいたしましょう」

 とって急ぎなさいます。