第1帖「桐壺」(6)しばしは夢かとのみたどられしを

国貞『源氏香の図』
典:国会図書館「NDLイメージバンク」

原文・語釈

しばしは夢かとのみたどられしを

「『しばしは夢かとのみたどられしを、やうやうおもしづまるにしも、さむべきかたなくへがたきは、いかにすべきわざにかともはすべきひとだになきを、しのしのびてはまゐりたまひなんや。若宮のいとおぼつかなく露けき中にぐしたまふも、心苦しうおぼさるるを、まゐりたまへ』

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  • たどる【辿る】:あれこれ考える。思い悩む。探し求める。迷いながら訪ねく。
  • さむ【覚む・醒む】:夢からさめる。迷いや嘆きなどが消え去る。
  • とひあはす【問ひ合わす】:相談する。
  • しのぶ【しのぶ】:こっそり何かをする。秘密にする。
  • おぼつかなし【覚束なし】:気がかりだ。心配だ。
  • つゆけし【露けし】:しめっぽい。涙がちである。
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などはかばかしうも宣はせやらず

などはかばかしうものたまはせやらず、むせかへらせたまひつつ、かつはひとも心よわたてまつるらんと、おぼしつつまぬにしもあらぬ御けしきの心苦しさに、うけたまはりてぬやうにてなんまかではべりぬる」

 とて、御ふみたてまつる。

えはべらぬに、かくかしこきおほごとを光にてなむ」

 とてたまふ。

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  • はかばかし【果果し・捗捗し】:しっかりしている。はきはきしている。
  • やらず【遣らず】:最後まで⋯できない。完全に⋯してしまわない。
  • おぼしつつむ【思し包む】:心をお包みお隠しになる。
  • まかづ【罷づ】:「づ」の謙譲語。退する。
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ほど経ば少しうちまぎるることもやと

「ほどすこしうちまぎるることもやと、待ちぐす月日にへて、いとしのしのびがたきはわりなきわざになん。いはけなき人をいかにとおもひやりつつ、もろともにはぐくまぬおぼつかなさを、今はなほむかしのかたになずらへてものしたまへ」

 などこまやかに書かせたまへり。

  みや城野ぎのつゆきむすぶ風のおとはぎがもとをおもひこそやれ

 とあれど、えたまひてず。

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  • わりなし:道理にあわない。無理だ。どうにもたえがたい。
  • いはけなし【稚けなし】:をさない。
  • もろともに【諸共に】:いっしょに。そろって。
  • なずらふ【準ふ・准ふ・擬ふ】:准ずる。同じ類とする。他のものに似せる。
  • みやぎの【宮城野】:現在の宮城県仙台市宮城野区辺りにあった原野で、萩の名所。
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命長さのいとつらう思うたまへらるるに

いのちながさのいとつらうおもうたまへらるるに、まつおもはんことだにづかしうおもうたまへはべれば、ももしきにきかひはべらんことはまして、いとはばかおほくなむ。かしこきおほごとをたびたびうけたまわりながら、みづからはえなむおもひたまへつまじき。

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  • いのちながさ【命長さ】:長寿であること。
  • おもひしる【おもる】:(ものごとの道理や趣を)わきまえ悟る。理解する。身にしみて感じる。
  • まつ【松】:高砂にある千年の老松。
  • ももしき【百敷】:皇居。宮中。
  • おもひたつ【おもつ】:決心する。
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若宮はいかにおもほしるにか

 若宮わかみやはいかにおもほしるにか、まゐりたまはんことをのみなんおぼいそぐめれば、ことわりにかなしうたてまつりはべるなど、うちうちにおもうたまへるさまをそうしたまへ。ゆゆしき身にはべれば、かくておはしますもましうかたじけなくなむ」

 とのたまふ。

 みや大殿おほとのごもりにけり。

たてまつりて、くはしう御ありさまもそうしはべらまほしきを、待ちおはしますらんに、夜ふけはべりぬべし」

 とていそぐ。

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  • おぼしいそぐ【思し急ぐ】:お急ぎになる。
  • うちうち【内内】:内心の複数形。それぞれの心。表向きでないこと。非おほやけ式なこと。
  • ゆゆし:不吉だ。忌まわしい。
  • いまいまし【忌ま忌まし】:不吉だ。縁起が悪い。
  • かたじけなし【忝し・辱し】:恐れおほい。
  • おほとのごもる【おほ殿こもる】:「ぬ(寝)」「いぬ「寝ぬ」」の尊敬語。おやすみになる。
  • くはし【妙し・美し・細し】:細やかでうるわしい。
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現代語訳

「『しばらくは夢かとばかり思い迷っていた。少しずつ気持ちがひや静になるものの、現実は夢から覚めるすべがなく耐えがたいものである。どうすれば受け入れられるのかと、私には相談すべき相手さえいない。内密にでも宮中へまゐ上したまえ。若宮のことが気がかりでならない。露も消えそうな雰囲気の中でごしていると思うと、なお心苦しく思う。早くまゐ上したまえ』など、帝ははっきりと仰せになることもできず、涙でむせ返りながら、それでも人々に心の弱さをせてはならないと、なんとか包み隠そうとしているご様子でした。私はあまりの心苦しさから、正式に承ったわけでもないままに退してまゐったのです」

 と、命婦みやうぶは帝の御手紙を母君に差し上げます。

「涙で目もえませんが、このような尊い帝のお葉を光にして読みましょう」

 と、母君はご覧になります。

「時がたてば少しは悲しみがまぎれることもあろうかと、ただ待ちごす月日にえて、いっそう耐えがたくなるのは、理性で割り切れるようなことではない。をさなき若君はどうしているかと思いやりつつ、成長を共にできないことがもどかしい。今はやはり、若宮を故人の形になずらえて来たまえ」

 など、丹念にお書きになっておられました。

  宮城野の露きむすぶ風の音に小萩がもとをおもひこそやれ

 とありますが、母君は最後まで拝読することができません。

「命の長いことがこんなにもつらいと思いらされるにつけて、高砂の千年松が思うようにどうしてまだ生きているのかとずかしく思います。宮中に入りしますことはまして、おほ変恐れおほいことでございましょう。もったいない帝の仰せをたびたび承りながら、わたし自身はとても決心できそうにありません。

 若宮はどこまでおわかりなのか、宮中へまゐりなさることをただお急ぎのようでございます。それが道理でございますのに、祖母として若宮とのお別れが悲しく受けられてしまうのです。このような心の内々に思っておりますことなどを、帝にお伝えくださいませ。わたしは娘に先たれた不吉な身でございますので、こうして若宮がここにおられることも忌々しく恐れおほいのですが⋯⋯」

 とおっしゃいます。

 若宮はもうお休みになられました。

「若宮のお顔を拝ませていただいて、うるわしい御様子も帝にそう上させていただきたく存じますが、帝も宮中でお待ちになっておられるでしょうから、夜も更けてしまわないうちに⋯⋯」

 と、命婦みやうぶは帰りを急ぎます。