第1帖「桐壺」

第1帖「桐壺」(5)はかなく日ごろ過ぎて

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国貞『源氏香の図』
出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」
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第1帖「桐壺」(4)御胸つとふたがりて
第1帖「桐壺」(4)御胸つとふたがりて

原文・語釈

はかなく日ごろ過ぎて

 はかなくごろぎて、のちのわざなどにもこまかにとぶらはせたまふ。ほどるままに、せむかたなうかなしうおぼさるるに、御方々かたがたの御宿とのなどもえてしたまはず、ただ涙にひちてかしらさせたまへば、たてまつる人さへつゆけきあきなり。

あとまで人のむねくまじかりける人の御おぼえかな」

 とぞ、弘徽こき殿でんなどにはなほゆるしなうのたまひける。一の宮をたてまつらせたまふにも、若宮わかみやの御こひしさのみおもほしでつつ、したしき女房にようばう、御乳母めのとなどをつかはしつつ、ありさまをこしめす。

語釈
  • のちのわざ【後の業】:人が死んだ後の仏事。七日法要。
  • とぶらふ【訪ふ】:弔問をする。
  • せむかたなし【為む方無し】:なすべき手段がない。どうしようもない。
  • とのゐ【宿直】:夜間、天皇や貴人のそばに仕え、相手をすること。
  • ひつ【漬つ・沾つ】:水につかる。ぬれる。
  • つゆけし【露けし】:しめっぽい。露っぽい。涙がちである。
  • むねあく【胸開く】:気持ちが晴れる。気持ちがすっきりする。
  • こきでん【弘徽殿】:清涼殿の北にあり、皇后や中宮などの住居。
  • こきでんのにょうご【弘徽殿女御】:帝の女御で、一の宮の母。

野分だちて、にはかに肌寒き夕暮のほど

 わきだちて、にはかに肌寒はださむ夕暮ゆふぐれのほど、常よりもおぼづることおほくて、靫負命婦ゆげひのみやうぶといふをつかはす。ゆふつくのをかしきほどにだしてさせたまひて、やがてながめおはします。かうやうのをりは、御あそびなどせさせたまひしに、心ことなるもののをかきらし、はかなくこえづることも、人よりはことなりしけはひかたちの、面影おもかげにつとひておぼさるるにも、やみのうつつにはなほおとりけり。

語釈
  • のわきだつ【野分だつ】:野分のような風が吹く。台風一過、荒涼とした心象を表す。
  • ゆげひ【靫負】:靫(矢を入れて背負う細長い箱型の武具)を背負って宮中の警護にあたった者。
  • みゃうぶ【命婦】:平安時代の女官の名称。平安時代中期以降は中級の女房をさす。
  • ゆげひのみゃうぶ【靫負命婦】:父兄や夫が「靫負」である五位以上の女官。
  • ゆふつくよ【夕月夜】:夕方に出ている月。夕月。大風の吹き晴らした夜空に月が美しい。
  • ながむ【眺む】:長い間ぼんやり見ている。もの思いにふける。
  • こころこと【心異・心珠】:格別にすぐれているさま。
  • けはひ:(音・声・においなどによってとらえられる)雰囲気。ようす。感じ。
  • やみのうつつ【闇の現】:暗闇の中での現実。真っ暗な中で実際に会うこと。

命婦かしこに参で、着きて門引き入るるより

 命婦みやうぶかしこにで、きてかどるるより、けはひあはれなり。やもめみなれど、人ひとりの御かしづきにとかくつくろひてて、めやすきほどにてぐしたまひつる、やみれてしづみたまへるほどに、くさたかくなり、わきにいとどれたるここして、月影つきかげばかりぞ八重やへむぐらにもさはらずさしりたる。

語釈
  • かしこ【恐・畏】:恐れ多いこと。慎むべきこと。
  • やもめずみ【寡住み】:夫や妻がいないで一人で暮らしていること。独身の生活。
  • かしづき【傅き】:大事に世話をすること。
  • めやすし【目安し・目易し】:感じがよい。見苦しくない。
  • やみにくる【闇に暮る】:悲しみや嘆きで、ものの道理がわからなくなる。分別を失う。
  • のわき【野分】:秋に吹く暴風。台風。
  • やへむぐら【八重葎】:幾重にも生い茂ったむぐら(=つる草)。
  • さはる【障る】:さえぎられる。妨げになる。

南面に下ろして、母君もとみに

 みなみおもてに下ろして、母君ははぎみもとみにえものものたまはず。

「今まで、とまりはべるがいときを、かかる御使つかひ蓬生よもぎふつゆ分けりたまふにつけても、いと恥づかしうなん」

 とて、げにえたふまじくいたまふ。

まゐりてはいとどこころぐるしう、こころぎもくるやうになむと、典侍ないしのすけそうしたまひしを、ものおもうたまへらぬここにも、げにこそいとしのびがたうはべりけれ」

 とて、ややためらひておほせことつたへきこゆ。

語釈
  • とみに【頓に】:急に。すぐに。にわかに。
  • のたまふ【宣ふ】:〘「言ふ」の尊敬語〙おっしゃる。
  • とまる【止まる・留まる】:生き残る。後に残る。
  • よもぎふ【蓬生】:よもぎが生い茂った所。雑草の生い茂った荒れ果てた場所。
  • ないし【内侍】:「内侍司」の女官。天皇のそばに仕え、天皇のことばを伝えたり、天皇に奏請したりする。
  • ないしのすけ【典侍】:内侍司の次官。
  • ものおもひしる【物思ひ知る】:ものの道理をわきまえる。
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第1帖「桐壺」(6)しばしは夢かとのみたどられしを
第1帖「桐壺」(6)しばしは夢かとのみたどられしを

現代語訳

 はかなく日々は過ぎてゆき、帝は七日法要などにも丁寧に弔問の使者を送られます。月日が経つままにやるせない悲しみに沈むばかりで、他の女御たちの夜のお仕えなどもすっかり絶えてしまいました。ただ涙に濡れて夜を明かす毎日で、そんな帝を拝する人々さえも涙の露でしめっぽい秋の気配です。

「亡き後まで人の胸をざわつかせる女の御追憶ですか」

 とぞ、弘徽殿女御こきでんのにょうごたちはなおも容赦なくおっしゃっています。帝は一の宮をご覧になる時でも、若宮への恋しい気持ちばかりが思い出されるありさま。親しい女房や乳母などを若宮のいる更衣の里へと遣わせて、若宮の様子を尋ねるのでした。

 荒々しい風が吹いて、にわかに肌寒くなった秋の夕暮れ時、帝はいつにもまして思い出されることが多く、靫負命婦ゆげいのみょうぶという使いを送りました。夕月が美しく光る空のもと出発させなさると、そのままもの思いにふけっておられます。

 このような風情のある時節には、管絃の御遊びなどをお楽しみになったものです。やさしく美しい音色を奏でて、透き通った声で歌い出す言の葉も、更衣は他の人と違って特別でした。生前の雰囲気や姿の面影にじっと寄り添ってみても、闇の中で触れた現実の更衣にはやはり及びません。

 命婦は謹んで更衣の実家へ参り、到着して車を門に引き入れると、もうすっかり物寂しい雰囲気が漂っています。更衣の母君は一人で暮らしていましたが、娘ひとりを大切に育て上げようとあれやこれやと繕い立てて、見た目に申し分ない程度には庭も手入れされておりました。しかし心が闇に暮れて沈んでいるうちに、草は高く伸び、野分の風で吹き倒されて、ひどく荒涼としたありさまです。月の光ばかりが、幾重にも生い茂ったつる草にも遮られず差し入っています。

 母君は南側の部屋に命婦を招き入れますが、すぐには言葉が出てきません。

「今まで、わたし一人がこの世にとどまっていることがとても憂鬱で、このような御使いの方が、草深い露をかき分けてお入りになるにつけても、大変お恥ずかしいことでございます」

 と言いいながら、涙をこらえきれずに泣いておられます。

「『こちらに伺いましたところ大変心苦しく、精神をえぐられるようでした』と、先に見舞った典侍ないしのすけが帝に申し上げておりました。わたしのような物事の情趣をわきまえない心持ちの者にも、まことにどうにも、感情を隠しきれないことでございます」

 と、命婦は少々ためらいつつも、帝の御言葉をお伝え申しあげます。

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第1帖「桐壺」(6)しばしは夢かとのみたどられしを
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保坂陽平(ヤンピン)
保坂陽平(ヤンピン)
福岡県宗像市在住。2024年9月から『源氏物語』の全訳に挑戦しています。10年がかりのライフワークです。
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