第1帖「桐壺」(12)そのころ、高麗人の参れるなかに

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」

原文・語釈
そのころ、高麗人の参れるなかに
そのころ、高麗人の参れるなかに、かしこき相人ありけるを聞こしめして、宮の中に召さんことは宇多のみかどの御誡あれば、いみじう忍びてこの御子を鴻臚館に遣はしたり。
御後見だちて仕うまつる右大弁の子のやうに思はせて、率てたてまつるに、相人驚きてあまたたび傾きあやしぶ。
国の祖となりて
「国の祖となりて、帝王の上なき位に上るべき相おはします人の、そなたにて見れば、乱れ憂ふることやあらむ。おほやけのかためとなりて、天下をたすくる方にて見れば、またその相違ふべし」
と言ふ。
弁もいと才かしこき博士にて
弁もいと才かしこき博士にて、言ひかはしたることどもなむいと興ありける。文など作りかはして、今日明日帰り去りなんとするに、かくありがたき人に対面したるよろこび、かへりては悲しかるべき心ばへをおもしろく作りたるに、御子もいとあはれなる句を作りたまへるを、限りなうめでたてまつりて、いみじき贈り物どもをささげたてまつる。
おほやけよりも多くの物たまはす。おのづからことひろごりて、漏らさせたまはねど、春宮の祖父大臣など、いかなることにかと思し疑ひてなむありける。
帝、かしこき御心に
帝、かしこき御心に、大和相を仰せて思し寄りにける筋なれば、今までこの君を親王にもなさせたまはざりけるを、相人はまことにかしこかりけりと思して、
「無品の親王の外戚の寄せなきにてはただよはさじ。わが御世もいと定めなきを、ただ人にておほやけの御後見をするなむ行く先も頼もしげなめること」
と思し定めて、いよいよ道々の才を習はさせたまふ。際ことにかしこくて、ただ人にはいとあたらしけれど、親王となりたまひなば世の疑ひ負ひたまひぬべくものしたまへば、宿曜のかしこき道の人に勘へさせたまふにも同じさまに申せば、源氏になしたてまつるべく思しおきてたり。

現代語訳

そのころ、高麗人が参られた中に、すぐれた観相家がいたということをお聞きになられて、宮中に招待しようというのは宇多の帝の御禁戒があるため、ごくごく内密に若宮を鴻臚館に遣わせました。
御後見という立場でお仕えする右大弁の子のように思わせて、右大臣に若宮を連れて伺わせると、観相家は驚いて何度も何度も首をかしげて不思議がっています。
「一国の始祖となって、帝王という上なき最高位にのぼるべき人相がおありになる人で、その方面の方として見ると、世が乱れて憂いとなることがあるでしょう。国家の柱石となって、天下を手助けする方として見れば、またその相も違ってくるようです」
と、言います。右大弁も非常に学識の高い博士ですので、高麗人と言い交わしたこと言葉の数々はまことに興味深いものでした。
漢詩などを作り交わして、「今日明日にも帰り去ろうとする時に、こうも珍しい相のある人に対面できたよろこびは、かえって別れが悲しく感じるでしょう」という心向きを表す漢詩を面白く作ると、若宮もまことに情の深い句をお作りになられます。
観相家は若宮に限りなく感心されなさって、すこぶる立派な贈り物の数々を捧げられました。宮廷からも多くの贈り物を賜わせます。自然とこの出来事が世間に広まり、帝は外に漏れないようにしてはいましたが、東宮の祖父君の右大臣などは、一体どういうことかと思い疑っていました。
帝は賢明な御心から、大和の観相を命じられて思い及んでいた道筋でありましたので、今までこの若君を親王にもなさらずにいたのです。高麗からの観相家はまことにすぐれていたと思い、
「位のない親王を、外戚の後ろ盾もない状態で世に漂わせまい。我が治世もまったく一定ではないのだから、臣下として国家の後見をする行く先も頼もしそうなことよ」
と思い定めて、いよいよ諸芸諸道の学問を習わせました。学力はことに賢くて、臣下とするにはすこぶる惜しいけれど、親王となれば世の疑念を背負うに違いないとお考えになりながら、宿曜のすぐれた道の人に判断させても同じように申すので、源氏性の臣下にしようと思い決めました。
