【全文】第1帖「桐壺」現代語訳

国貞『源氏香の図』
典:国会図書館「NDLイメージバンク」

いづれの御時にか

 いつの帝の御時でしたか、数おほくの女御や更が御つかえしていた中に、それほど高貴な家筋ではないのに、よりも帝に寵愛されている人がおりました。後宮に入った時から「わたしこそが」と思い上がっている女御たちは、その人を目障りな女だと下し、嫉妬しています。その人と同じほど度か、もっと身分の低い更たちは、なおさら心穏やかではありません。

 朝夕の宮つかえにおいても、他の女御たちの心をみだすばかりで、恨みを背負うことが積み重なったせいでしょうか。その人は病気がちになっていき、心細そうに実家に下がって静養することがおほくなっていきました。帝はか弱いその人を、ますます愛おしく思われます。周囲の非難を気にされることもなく、世間話のくさにもなりそうなほどの扱いぶりでした。

 上達部や殿上人なども感心できずに横目でつつ、

「まことに目も当てられないほどの御寵愛ぶりである。唐の国でもこうしたことがあったからこそ、世の中がみだれて悪くなったのだ」

 と、しだいに世間一般にもどうしようもない悩みのくさとなっていました。楊貴妃の例もき合いにされそうな勢いで、たいそう居心地ここちの悪いことがおほくなっていったのですが、その人は身に余る帝の心づかいが比類ないことを心の支えにして、宮つかえを続けておりました。

 父だいごんはすでに亡くなっていて、母北の方は古くから由緒のある家柄のお方でした。両親ともに健在で、今を時めく華やかな女御たちにもそれほど劣りすることなく、母君はどんな儀式もうまくり繕っておられました。けれども、これといって太い後ろ盾がないので、格別な祭事がおこなわれる時はやはり頼れるところがなく、心細そうにえました。

 その人は前世でも、帝との御縁が深かったのでしょうか。世にまたとないほど清らかな、美しい玉のような皇子みこさえお生まれになりました。いつかいつかと心待ちにされていた帝は、急いで宮中に呼びせてご覧になると、めったにないほどかわいらしいお顔の乳児であります。

 先にいらっしゃる第一皇子みこは、高貴な右おほ臣家の女御がお生みになった子です。後ろ盾が厚く、皇太子になられるお方としておほ切に育てられていると、疑いなく世にられておりました。ですが新しく生まれた皇子みこの、この輝くような美しさには到底及びません。表向きは第一皇子みことして相応に扱われるぐらいで、内心はこの若君こそをばおほ切にしたいとお思いになり、帝はかぎりない愛情を注がれるのでした。

初めよりおしなべての

 その人はもともと、普かよの宮つかえをなさるような軽い身分ではありませんでした。後宮での評判はとても高く、貴人らしく振る舞っておられたのです。けれども、帝が節度を越えて側に付きわせるあまり、宮中で催される管絃のお遊びや、何でも風情ある催し事があるたびに、真っ先にその人をお呼びせなさいます。ある時は日が高くなるまで一緒に寝ごされ、その日もそのまま帝の側につかえるなどということもあったのです。帝が一途にその人を側から離さないので、軽々しく扱われている身分にえることもありました。

 それがこの美しい若君がお生まれになってからは、たいそうな特別扱いを心に決めておられる様子です。第一皇子みこの母君は、

「悪くすると、この若君が皇太子になるかもしれない」

 と疑い始めました。よりも先に後宮へ入り、帝の御寵愛も並おほ抵ではなく、第一皇子みこの他にも御子みこたちをお産みになった女御です。このお方のご意だけはどうにも無視できず、帝は気がかりに感じておられました。

 その人は尊い帝の御庇護を頼りにしておりましたが、上から目線で欠点をあら探しする女御たちがおほ勢います。体はか弱く、心は繊細な人でしたので、なまじ御寵愛を受けたばかりにかえって気苦労をなさいます。

 更のお部屋は桐壺です。帝がいらっしゃる清涼殿から遠く離れており、桐壺へかようには女御たちが待つ部屋の前をいくつもかよる必要がありました。帝は途中の部屋にることなく、しかも足しげくかよわれるのですから、素かよりされた女御たちが嫉妬するのはいかにも当然なことと思われます。

 更が清涼殿へまゐ上される際も、あまりに頻繁に繰り返される場合には、殿舎へ渡る橋や廊下のあちこちに、えげつないいたずらをつか掛けられました。更の送迎に付きう女房たちの着ものの袖が、我慢ならないほどダメになってしまうこともあります。ある時には、どうしてもかよらないといけないかよ路の戸を閉じ、更おこなの先頭側と後尾側とで息を合わせて鍵をかけ、そのかよ路の間に閉じ込めたことも。このように更たちをいじめて、侮辱することがおほかったのでした。

 何かあるたびに、イジメは数えきれないほど増すばかり。更はもうどうしていいのかわからず、ひどく思い詰めておられました。その様子を「なんとかわいそうに」と御覧になった帝は、清涼殿の隣りにある後涼殿にもともと住んでいた更に、他の部屋へ移るよう命じます。そしてその部屋を桐壺更にお与えになり、清涼殿へされた際の控えの部屋として使わせるようにしたのです。追いされた側の更は、恨みを晴らすすべもなく、途方に暮れたことでしょう。

この御子みこ、三つになりたまふ年

 この御子みこが3歳になられた年の、袴着の儀式のことです。一の宮がおしになった袴に劣らないよう、帝は宮中の貴重な装飾品を惜しみなく使い、式を盛おほに執りおこなわせました。

 それにしても世間では非難ばかりがおほかったのに、この御子みこが成長してゆかれるにつれて、生まれつき整ったお顔、才気あふれるお姿が、世にまたとないほど輝いてまいりましたので、女御たちもさすがに嫉みきれません。分別のある人は、

「こんなにも選ばれし者が世に現れることもあるのか」

 と、驚きあきれんばかりに目を張っています。

 その年の夏、桐壺更は意識がぼんやりとする気鬱な病を患い、実家に下がって養生したいと申しました。しかし帝は、少しの休いとまも許してくださいません。ここ数年、いつも病気がちでしたので、すっかりなれてしまった帝は、

「今しばらく様子をみよう」

 とおっしゃるばかり。病は日に日に重くなり、ほんの5~6日でひどく弱ってしまいました。

 更の母君が泣く泣く帝に申し上げることで、ようやく実家へ下がることが許可されました。このような時でも、女御たちに想定外のをかかされてはいけないと用心して、更はこっそりと退なさいます。

 規則により、穢れである病人を宮中にとどめ置くことは禁忌とされているため、帝もそうむやみに更きとどめることはできません。帝という神聖な場であるがゆえに、病人を送ることさえ許されないもどかしさを、葉にできないほど感じておられます。

 更はとてもつややかで美しい人であったのに、今やすっかりやつれてしまいました。いたたまれない寂しさをしみじみと感じながらも、葉にして申し伝えることもできません。生きているのか死んでいるのかわからないほど弱々しく、そのまま消え入りそうに退していきます。衰弱しきった更を御覧になった帝は、去を振り返ることも、将来を考えることもできなくなってしまいました。

 涙を流しながらあれこれとお約束なさいますが、更はお返事を申し上げることもできません。目のまなざしにもまったく力が感じられず、体はいつにも増してなよなよとしています。自分も分からないほどもうろうとした意識でうつむいているので、帝は「どうすることもできないのか」と気が動転しています。特別に手車で宮中に入りすることなどを許可されてからも、帝はまた更の部屋にお入りになり、どうしても手放すことができないのでした。

「死ぬ時は一緒だと約束していたのに、まさかわたし一人を置いてはおこなけないでしょう」

 とおっしゃる帝の姿を、更もたいそう切なくお上げして、

かぎりとてわかるる道の悲しきにいかまほしきはいのちなりけり

寿命のかぎりといっても、帝とお別れする死の道はあまりに悲しいものです。私がきたかったのは、帝と一緒に生きる命の道でございます。

「このように生きたいと、つよく思っておりましたなら」

 と、息も絶え絶えに、まだ何か申し伝えたいことがありそうにえましたが、あまりに苦しくて話す力もないようです。帝は歌を返すこともなく、宮中の禁忌を破って、更の成りきをこのまま最後までとどけたいとお思いになります。しかし更の母君が、

今日けふから始まる祈祷のもろもろを、しかるべき専門の方々が準備しております。それが今夜からでして」

 と、申し上げて急がせるので、帝はつか方なく、辛いお気持ちのまま退を許可されました。

御胸つとふたがりて

 帝は心をすっかり閉じられて、少しの間も眠ることができず、夜を明かせずにいます。お舞いに送った使いの者が、里を往復するだけの時間も経っていないのに、心がそわそわしてつか方がないと、ずっと話しておられました。

「夜中をぎた頃に、とうとう息をっておしまいになりました」

 更の里では、人々が声を荒げて泣いています。使いの者もすっかり気落ちしてしまい、帰るしかありませんでした。話をいた帝は気が動転してしまい、何ごとも正常な判断ができなくなり、お部屋にきこもってしまいました。

 帝はこのような時でも、御子みこを側に置いて御覧になっていたいのですが、母の喪中に御子みこが宮中にいるというのは先例のないことですので、御子みこを更の里へと退させました。

 御子みこは何が起きたのかおわかりにならず、おつかえする女房たちが泣いてみだし、帝まで涙を絶え間なく流しているのを、不思議そうにておられます。親子の別れというのはいつも悲しくてつか方がないのに、母の死を理解できない御子みこの様子は、哀れというほかありません。

 更との最後のお別れを惜しむにもかぎりがありますので、しきたりに従って火葬で送ることになりました。かよ例では親が子の火葬にまゐ列することはないのですが、母君の北の方は、

「娘と同じに煙になってち昇りたい」

 と泣き焦がれ、御葬送の女房の車のあとを追って乗り込んでしまいます。愛宕おたぎという葬送の地で、おほ変おごそかに執りおこなわれている葬儀の最中に到着された時のお気持ちは、どれほどであったでしょうか。

「魂の抜けた亡骸をよくよくては、なおも生きていらっしゃるものと思う自分が、どうにもやるせないのです。いっそ灰になってしまわれるのをとどけて、今は亡き人と、ひたすらに思い切りましょう」

 と気丈におっしゃいましたが、車から落ちようかというほどよろめいておられます。

「そうなるだろうと、思っていたかよりです」

 と、女房たちも扱いに困っていました。

 宮中から勅使がおえになりました。亡き更に三位の位を贈るため、勅使が宣命を読みあげるのが何とも悲しく感じられます。帝は女御とさえわせずじまいだったことが心残りでくちしくお思いになり、せめてもう一段上の位をと贈られたのです。このことでも更を憎む人々がおほくいました。

 そんな中でも良心がある人は、更の品格や容姿が派で美しかったことや、内面も穏やかで人当たりが良く、とても憎まれるような人ではなかったことなどを、今更のように思いしています。あまりに苦しい帝の御寵愛があったからこそひや淡に嫉んでいましたが、人柄がやさしくて思いやりのある心持ちを、帝のそばにつかえる女房たちも懐かし思い合っておられました。

「亡くてぞ人はしかりける」

 と古い歌にあるのは、このようなの心であろうよと思われます。

はかなく日ごろぎて

 はかなく日々はぎてゆき、帝は七日法要などにも丁寧に弔問の使者を送られます。月日が経つままにやるせない悲しみに沈むばかりで、他の女御たちの夜のおつかえなどもすっかり絶えてしまいました。ただ涙に濡れて夜を明かす毎日で、そんな帝を拝する人々さえも涙の露でしめっぽい秋の気配です。

「亡き後まで人の胸をざわつかせる女の御追憶ですか」

 とぞ、弘徽こき殿でん女御こきでんのにょうごたちはなおも容赦なくおっしゃっています。帝は一の宮をご覧になる時でも、若宮へのしい気持ちばかりが思いされるありさま。親しい女房や乳母などを若宮のいる更の里へと遣わせて、若宮の様子をたづねるのでした。

 荒々しい風がいて、にわかに肌寒くなった秋の夕暮れ時、帝はいつにもまして思いされることがおほく、靫負命婦みやうぶゆげいのみょうぶという使いを送りました。夕月が美しく光る空のもと発させなさると、そのままもの思いにふけっておられます。

 このような風情のある時節には、管絃の御遊びなどをお楽しみになったものです。やさしく美しい音色をそうでて、透きかよった声で歌いの葉も、更は他の人とたがって特別でした。生前の雰囲気や姿の面影にじっとってみても、闇の中で触れた現実の更にはやはり及びません。

 命婦みやうぶは謹んで更の実家へまゐり、到着して車を門にき入れると、もうすっかりもの寂しい雰囲気が漂っています。更の母君は一人で暮らしていましたが、娘ひとりをおほ切に育て上げようとあれやこれやと繕いてて、た目に申し分ないほど度には庭も手入れされておりました。しかし心が闇に暮れて沈んでいるうちに、草は高く伸び、野分の風でき倒されて、ひどく荒涼としたありさまです。月の光ばかりが、幾重にも生い茂ったつる草にも遮られず差し入っています。

 母君は南側の部屋に命婦みやうぶを招き入れますが、すぐには葉がてきません。

「今まで、わたし一人がこの世にとどまっていることがとてもうれ鬱で、このような御使いの方が、草深い露をかき分けてお入りになるにつけても、おほ変おずかしいことでございます」

 といいながら、涙をこらえきれずに泣いておられます。

「『こちらに伺いましたところおほ変心苦しく、精神をえぐられるようでした』と、先に舞った典侍ないしのすけが帝に申し上げておりました。わたしのようなもの事の情趣をわきまえない心持ちの者にも、まことにどうにも、感情を隠しきれないことでございます」

 と、命婦みやうぶは少々ためらいつつも、帝の御葉をお伝え申しあげます。

しばしは夢かとのみたどられしを

「『しばらくは夢かとばかり思い迷っていた。少しずつ気持ちがひや静になるものの、現実は夢から覚めるすべがなく耐えがたいものである。どうすれば受け入れられるのかと、私には相談すべき相手さえいない。内密にでも宮中へまゐ上したまえ。若宮のことが気がかりでならない。露も消えそうな雰囲気の中でごしていると思うと、なお心苦しく思う。早くまゐ上したまえ』など、帝ははっきりと仰せになることもできず、涙でむせ返りながら、それでも人々に心の弱さをせてはならないと、なんとか包み隠そうとしているご様子でした。私はあまりの心苦しさから、正式に承ったわけでもないままに退してまゐったのです」

 と、命婦みやうぶは帝の御手紙を母君に差し上げます。

「涙で目もえませんが、このような尊い帝のお葉を光にして読みましょう」

 と、母君はご覧になります。

「時がたてば少しは悲しみがまぎれることもあろうかと、ただ待ちごす月日にえて、いっそう耐えがたくなるのは、理性で割り切れるようなことではない。をさなき若君はどうしているかと思いやりつつ、成長を共にできないことがもどかしい。今はやはり、若宮を故人の形になずらえて来たまえ」

 など、丹念にお書きになっておられました。

宮城野の露きむすぶ風の音に小萩がもとをおもひこそやれ

宮城野(宮中)に露(涙)をき結ぶ風の音をくと、小萩の幹(若君の身の上)はいかにと案じられます

※宮城野:現在の宮城県仙台市宮城野区辺りにあった原野で、萩の名所。

 とありますが、母君は最後まで拝読することができません。

「命の長いことがこんなにもつらいと思いらされるにつけて、高砂の千年松が思うようにどうしてまだ生きているのかとずかしく思います。宮中に入りしますことはまして、おほ変恐れおほいことでございましょう。もったいない帝の仰せをたびたび承りながら、わたし自身はとても決心できそうにありません。

 若宮はどこまでおわかりなのか、宮中へまゐりなさることをただお急ぎのようでございます。それが道理でございますのに、祖母として若宮とのお別れが悲しく受けられてしまうのです。このような心の内々に思っておりますことなどを、帝にお伝えくださいませ。わたしは娘に先たれた不吉な身でございますので、こうして若宮がここにおられることも忌々しく恐れおほいのですが⋯⋯」

 とおっしゃいます。

 若宮はもうお休みになられました。

「若宮のお顔を拝ませていただいて、うるわしい御様子も帝にそう上させていただきたく存じますが、帝も宮中でお待ちになっておられるでしょうから、夜も更けてしまわないうちに⋯⋯」

 と、命婦みやうぶは帰りを急ぎます。

くれまどふ心の闇も

「くれまどふ心のやみも、へがたき片端かたはしをだにるくばかりにこえまほしうはべるを、わたくしにも心のどかにまかでたまへ。としごろ、うれしくおもたしきついでにてりたまひしものを、かかる御「まっ暗に暮れ惑う心の闇も、耐えがたい思いの片端だけでも晴れるまでお話したいと存じますので、勅使としてではなく、私的にごゆっくりとお越しくださいませ。ここ数年は喜ばしく晴れやかなにおりくださいましたものを、このような悲しいお便りの御使いとしてお目にかかろうとは、まったくもってつれない命でありますね。生まれた時より志のある娘でしたので、亡きをとこだいごんは臨終の間際まで、

『ただ、この子の宮つかえの志だけは、必ず果たしてあげてください。わたしが死んだからといって悔しく思い、気落ちさせないように』

 と、くり返しご忠告を残されました。しっかりとした後を考える人もいない中での宮つかえは、むしろ厳しいことであろうと思いながらも、ただをとこの遺に背いてはいけないとばかりに宮つかえへさせました。すると身に余るまでの御厚意をいただき、すべてにおいてありがたいことで、周囲から人並みに扱われないを隠しながら宮つかえをしていたようです。

 でもそのうち他の人々の嫉妬が深く積み重なり、穏やかでないことがおほくつきまとっていたことにより、呪われたかのような様子でとうとう亡くなってしまいました。かえってつらかったであろうと、もったいない御厚意をそのように思ってしまうのでございます。これも分別を失った心の闇ゆえでしょうか⋯⋯」

 と、いも終わらず涙でむせ返られているうちに、夜もふけてしまいました。

「帝もそのようにおっしゃっております。

『わたしの真心であったとはいえ、あれほど一途に人目を驚かせるほど愛したのも、きっと長くない運命であったのだろう。今思い起こすと、つらかった前世からの宿縁であろう今世で、更はいささかも人の心をねじ曲げたことはないはずだと思うのに、ただこの人の身分のために、数おほくのすじたがいな人の恨みを背負って果ててしまった。果てはこうもうち捨てられて、心を鎮めようにもすべがなく、いよいよ人きが悪くかたくなになってしまったのも、先の世をてみたいものだ』

 と、くり返されながら、涙で御袖を濡らすことがおほくなるばかりでございます」

 と、命婦みやうぶも語り尽くせません。泣く泣く、

「夜もすっかりふけてしまいましたので、今宵はごさず、御返事を帝にお伝えいたしましょう」

 とって急ぎなさいます。

月は入り方に

 月の沈むころ、空は清らかに澄みわたり、風はすっかり涼しくなって、草むらの虫の声々が涙を誘うようであるのも、とてもち離れがたい草のもとです。

鈴虫のこゑかぎりを尽くしても長き夜あかずふる涙かな

鈴虫が声のかぎりを尽くして鳴いても、長い夜は明けることなく、飽きもせず降る涙よ。

 と命婦みやうぶは歌を詠み、どうにも車に乗れずにいます。

いとどしく虫のしげきあさ茅生ぢふに露おきふる雲の上人うへびと

いっそう虫の音が密に重なり、浅茅が生い茂る庭に、涙をおきえる雲の上人よ。

「うわの一つも申してしまいそうで⋯⋯」

 と、母君は女房から伝えさせました。

 風情のある贈りものなどあるような状況でもないので、わずかに亡き更の御形として、このような用もあるやもしれないと残しておいた御装の一式、ぐしみぐし上げの日用品らしいものをえられました。

 更つかえていた若い女房たちは、更の死が悲しいことは改めてうまでもなく、宮中への朝夕の入りがなら慣になっておりましたので、まことに心寂しい気持ちです。帝の御姿などを思いして申し上げると、宮中へ早くまゐ内なさってはとそそのかしているようにこえますが、

「このような忌々しい身で若宮にお付きいいたそうにも、さぞかし世間体が悪くつらいでしょう。また、若宮のお顔を拝めない日が少しでもあろうことが心から不安なのです」

 と思いなさるので、きっぱりと若宮を連れてまゐることもできないのでした。

 宮中に戻った命婦みやうぶは、帝がまだ御寝所に入っておられないのを気の毒に思います。帝はおほ変美しい盛りを迎えている中庭の草木の秋花を御覧になるふりをして、奥ゆかしい女房4~5人をつかえさせて、ひそやかにお話をしておられました。

 ここ数日の間、明けても暮れても御覧になっているのは、長恨歌の屏風絵。宇おほ天皇が絵師に描かせて、伊勢や貫之に歌をえさせた絵です。その和歌にしても漢詩にしても、ただもう人との死別を悲しむ歌ばかりを、口ぐせのように話題にしていらっしゃいます。

いとこまやかにありさま問はせ

 帝は命婦みやうぶに、それはもう事細かに更の実家の様子をおたづねになります。命婦みやうぶはまことに哀れであったことを、粛々と申し上げました。帝は母君からの御返事を御覧になると、

「これほどもったいない帝の御手紙は、悠長に置いておける場所もございません。このような仰せにつきましても、真っ暗に思いみだれる心地ここちでございます」

あらかぜふせぎしかげの枯れしよりはぎうへ静心しづこころなき

荒々しい風を防いでいた木かげ(更)が枯れた日から、小萩(若宮)の身の上が不安で心静まることがありません。

 などというように無作法な返歌を、心をひやませずにいた時のことと寛おほに御覧になるでしょう。

 帝は、「こうまでひどくみだすさまを決してられてはなるまい」と思い鎮められますが、まったく隠しきれません。更を初めて御覧になった時からの思いまでかき集めて、次から次へと思い続けられます。ほんの少しの間も更を待ちきれなかったのが、このようなありさまでよくも月日をごせたものだと、驚きあきれるように思いされるのでした。

「亡き更の父・だいごんの遺に背くことなく、宮つかえの志を深くまっとうしてくれたことへのお礼は、その甲斐があるようにと絶えず思い続けてきたのに、今となってはってもつか方のないことよ」

 と、帝はふと仰せになり、母君をたいそう哀れに思いやります。

「こうはなっても、そのうち若宮などが成長すれば、しかるべき機会もあろう。命長く、生きてさえいればと、一心に祈るとしよう」

 などともおっしゃいます。

 命婦みやうぶは母君からの贈りものを帝に御覧に入れます。亡き人の住みかを探ししたという証のかんざしであったなら、とお思いになるのも甲斐のないことでした。

たづねゆくまぼろしもがなつてにてもたまのありかをそことるべく

亡き更の魂を探しにく幻術士が現れてほしいものだ。伝説であっても魂のありかをそことることができるように。

 絵に描いた楊貴妃の容姿は、どんなに素晴らしい絵師であっても筆にかぎりがありますので、生身の色気には少々かないません。

 太液池にく蓮の花のように艶やかなお顔、未央宮に伸びる柳のように細く美しい眉も、楊貴妃と更の容姿は実によく似かよっていました。唐風の装いはさぞ麗しかったでしょうが、親しみやすく可愛らしかった更を思いしますと、花鳥の色にも音にも例えようがないのです。

 朝夕のあいさつ代わりに、

「翼をならべ、枝を交わそう」

 とお約束なさいましたのに、かなわなかった命の定めが尽きないことを恨めしく思います。

風の音、虫の音につけて

 風の音、虫の音につけても、帝はただただ悲しい音と思われるのに、弘徽こき殿でんの女御に至っては、久しく清涼殿の御局にもまゐ上されません。月の美しい情緒ある夜に、遅くまで管絃のお遊びにほうけていらっしゃるのを、帝は月夜にそぐわない不愉快な音とおきになります。

 この頃の帝の御様子を拝している殿上人や女房などは、そばでいているだけで苦々しい思いでした。非常に我がつよく、角のつ所のおほい方でしたので、更の死などたいした問題ではないと軽視して、そんな振る舞いをしておられたのでしょう。

 月は山の端に入りました。

雲のうへも涙にるる秋の月いかで住むらむ浅茅生あさぢふの宿

雲の上(宮中)でさえも、涙でかすんで暗くなる秋の月よ。どのように住んで(澄んで)いるのだろうか、浅茅が生い茂る宿りで。

 と、母君と若宮が住む家を思いやりながら、灯火をかきて尽くして起きていらっしゃいます。

 宮中に宿直する右近衛府の士官が点呼をする声がこえるのは、午前2時頃になったのでしょう。人目を気にされて御寝所にお入りになっても、うとうととお眠りになることも難しい。朝になってお目覚めになっても、「明けるのもらないで」と、更と日が高くなるまで共にしていた日々を思いしては、今でもなお、朝の政務を怠ることがあるようでした。

 お食事などもし上がらず、略式の食事は形ばかり箸をつけるだけで、正式な食事などはとても箸が進まないとお思いになっているので、配膳係の者は皆、帝の心苦しい御様子を拝して嘆きいています。すべて、帝の側におつかえする者はをとこも女も、

「まったくどうしようもないことですね」

 とい合いながら嘆くのでした。

「こうなるべき前世の約束がきっとあったのでしょう。そこら中の人々の嫉妬、恨みをもお気になさらず、この更に触れることにはいつも道理をも失われ、今となってはもう、このように世の中のことをもお捨てになるありさまになっていくのは、まことに困ったことです」

 と、異国の帝の例までき合いにして、ひそひそと嘆いていました。

月日経て、若宮まゐりたまひぬ

 月日が経ち、若宮が宮廷へまゐられました。いよいよこの世の者ではなく、清らかに美しく成長されているので、帝はさすがに不吉だとお思いになられています。

 明くる年の春、皇太子がお決まりになる時にも、帝は一の宮をさしいて若宮に越えさせたいとつよく思われましたが、若宮には後をするであろう人もおりません。また、世の同意を得られそうにもないことですので、かえって危険が及ぶのではないかと遠慮なさい、顔色にもおしにならずにおられました。

「それほどに若宮を思っていらっしゃったとはいえ、さすがにかぎ界があったということでしょう」

 と、世の人々もうわさし、弘徽こき殿でん女御も心が落ち着きになりました。

 かの若宮の御祖母、北の方は慰めるすべもなく思い沈み、せめて娘の更がおいでになる所にたづねておこなこうと願っておられました。そのしるしが現れたのでしょうか、とうとうお亡くなりになってしまいましたので、帝がまたこれを悲しく思われることはかぎりもありません。

 若宮は6歳になられる年でありましたので、このたびは死をご理解なさり、し慕って泣いておられます。祖母君は、年ごろは馴れ親しんで仲睦まじくされていた若宮を、成長を届けることなく置いて逝く悲しみを、くり返しくり返し申し上げておられました。

 今は内裏うちにばかりいらっしゃいます。7歳になられると、帝は読書始(学問の始まりとして漢籍の読み方をならう儀式)などをおこなわせなさいました。世にらぬほど聡明で賢くいらっしゃるので、あまりに恐ろしき者とまで御覧になります。

「今はも彼も憎むことなどできないでしょう。母君がいない若宮を、せめていたわってあげてください」

 とおっしゃって、弘徽こき殿でんなどにもお渡りになる時の御供に連れては、やがて御簾みすの内に入らせなさいます。並々ならぬ武士や敵たい者であろうとも、若宮をてはついほほまずにはいられない様になられるので、さし放つことができません。

 皇女たちがお二方、弘徽こき殿でん女御の御はらの子にいらっしゃるけれども、若宮になぞらえられることさえもないのでした。他の方々もお隠れにはならず、今よりもう艶めかしく、こちらが気ずかしくなるほど気品にあふれていらっしゃるので、愛嬌たっぷりで必ず打ち解けてしまう遊び相手に、も彼もが思い申されました。

 本格的な学問はさることながら、ことや笛の音についても宮中を響き渡らせ、すべてい続けてみても、何でもことごとく異様にできてしまう人の御姿でした。

そのころ、高麗こま人のまゐれるなかに

 そのころ、高麗こま人がまゐられた中に、すぐれた観相家がいたということをおきになられて、宮中に招待しようというのは宇おほの帝の御禁戒があるため、ごくごく内密に若宮を鴻臚館に遣わせました。

 御後という場でおつかえする右おほ弁の子のように思わせて、右おほ臣に若宮を連れて伺わせると、観相家は驚いて何度も何度も首をかしげて不思議がっています。

「一国の始祖となって、帝王という上なき最高位にのぼるべき人相がおありになる人で、その方面の方としてると、世がみだれてうれいとなることがあるでしょう。国家の柱石となって、天下を手助けする方としてれば、またその相もたがってくるようです」

 と、います。右おほ弁も非常に学識の高い博士ですので、高麗こま人とい交わしたこと葉の数々はまことに興味深いものでした。

 漢詩などを作り交わして、「今日けふ明日にも帰り去ろうとする時に、こうも珍しい相のある人にたい面できたよろこびは、かえって別れが悲しく感じるでしょう」という心向きを表す漢詩を面白く作ると、若宮もまことに情の深い句をお作りになられます。

 観相家は若宮にかぎりなく感心されなさって、すこぶる派な贈りものの数々を捧げられました。宮廷からもおほくの贈りものを賜わせます。自然とこの来事が世間に広まり、帝は外に漏れないようにしてはいましたが、東宮の祖父君の右おほ臣などは、一体どういうことかと思い疑っていました。

 帝は賢明な御心から、おほ和の観相を命じられて思い及んでいた道筋でありましたので、今までこの若君を親王にもなさらずにいたのです。高麗こまからの観相家はまことにすぐれていたと思い、

「位のない親王を、外戚の後ろ盾もない状態で世に漂わせまい。我が治世もまったく一定ではないのだから、臣下として国家の後をするく先も頼もしそうなことよ」

 と思い定めて、いよいよ諸芸諸道の学問をならわせました。学力はことに賢くて、臣下とするにはすこぶる惜しいけれど、親王となれば世の疑念を背負うにたがいないとお考えになりながら、宿曜のすぐれた道の人に判断させても同じように申すので、源氏性の臣下にしようと思い決めました。

年月にへて、御息所の御ことを

 年月が経つに従っても、帝は更との思いをお忘れになることはありません。慰められることもあろうかと、それらしい人々をまゐらせなさるけれども、「更の面影を思うことさえまったく難しい世かな」と、うとましいとばかり万事を思いなさっておられました。

 そのようなに、先帝の第四皇女が、御容貌がすぐれておられるとの評判が高くおいでです。母である先帝の后が、世にまたとなくおほ切に守り育てていらっしゃいました。それを帝付きの典侍ないしのすけは、先帝の御時にもつかえていた人で、かの第四皇女にも親しくまゐりなれていました。御をさな少でいらした時から拝しており、今もほのかにおかけになると、

「亡くなられた更の御容貌に似ている人を、三代にわたる宮つかえを受け継いでいるうちによくなれてしまっておりましたが、御后様の姫宮こそ、それはそっくりに似て御成長なさり、めったにおられない御容貌の人でございます」

 と申し伝えたところ、「まことにや」と帝の御心にとまったので、丁寧に申し上げました。母の后は、

「あなおそろしや。春宮の女御がとんでもなく性悪で、桐壺の更が露骨に軽々しく扱われた前例も忌まわしいわ」

 と心の内に思われて、すがすがしく思いてないでいるうちに、后も亡くなられてしまいました。四の宮が心細い様子でいらっしゃるところに、

「ただ、私の皇女たちと同列に思いましょう」

と、丁重に申し上げなさいます。四の宮におつかえする人々、御後たち、御兄上の兵部卿の御子みこなど、

「このように心細いままいらっしゃるよりは、内裏うちにお住いになられたなら姫君ひめぎみの御心も慰められましょう」

 などお思いになって、四の宮をまゐらせなさいました。

藤壺とこゆ

 藤壺と申します。実に御容貌、雰囲気、あやしいほどに瓜二つでいらっしゃいます。こちらは御身分もまさっていて、人からの評判もめでたく、下そうにも下せなければ、堂々と振る舞っても十分すぎることはありません。

 あちらは人に許されなかったために、帝の御愛情があいにくにも重くなったのです。桐壺更と思いたがえることはなさいませんでしたが、しぜんと御心が移ろいで、こよなく思い慰められるようであるのも、あわれなる人の常でございました。

 源氏の君は帝のそばをお離れにならないので、まして足しげくお渡りになる藤壺の宮は、いつまでもずかしがっているわけにはいきません。いずれの方々も、自分が人に劣っていようとは思いやしない節があり、それぞれにとてもお綺麗ではありますが、少々お年を重ねておられます。藤壺の宮はいっそう若く美しくえるので、しきりにお顔を隠しなさっても、偶然にちらりと漏れてお目に入るのです。母君も面影さえ覚えていないので、

おほ変よく似ておられますよ」

 と、典侍ないしのすけがお話しになるのを、をさな心に「なんと尊い」と思いなさって、常にまゐりたがって、「いつもそばでお上げしたい」というような気持ちを覚えていらっしゃいます。
 帝もかぎりなくいとしく思いなさる同士ですので、

「どうかよそよそしくされないでください。あなたは不思議なほど、この君の亡き母になぞらえられるような心地ここちがするのです。無礼だと思わないで、いたわってあげてください。顔つき、目もとなどはとてもよく似ておりますゆえ、源氏の君とあなたが似かよっておえになるのも、不似合いではないのですよ」

 などとお申し付けになられたので、源氏の君はをさな心地ここちにも、はかなく散る桜の花やくれなゐ葉につけても、う心をおせになります。こよなく心をおせになるので、弘徽こき殿でん女御はまた、この藤壺の宮とも仲がよろしくないゆえ、付け加えてもとよりの憎さもてきて不愉快だと思われています。

 帝が世に比類なしと御覧になり、名高くいらっしゃる藤壺の宮の御容貌にも、なお勝る源氏の君の輝かしいさまは例えようもなく美しくえるのを、世の人、「光る君」と申し上げます。藤壺の宮もお並びになられて、帝の御寵愛もそれぞれであれば、「輝く日の宮」と世にられます。

この君の御わらは姿

 この源氏の君のかわいらしいわらはの御姿を、おほ人の装いに変えてしまうのが惜しいと帝は思いますが、12歳で御元服されました。帝はそわそわとあれこれお世話を焼かれて、しきたりで定められていることに加えて、それ以上のおもてなしをえさせます。

 先年の春宮の御元服、南殿にてとりおこなわれた儀式が実に盛おほであったとの世間の評判に、ひけをとらせないようにしているのです。あちらこちら女房たちのご馳走なども、内蔵寮や穀倉院などに向けて、かよりいっぺんの用意ではき届かないこともあるやと、とりわけ特別な仰せがありましたので、華美のかぎりを尽くしてご調ととの進されました。

 清涼殿の東側の廂に、東向きに帝がお座りになる御椅子をてて、元服する源氏の君と加かうぶり役のおほ臣の御座がそのまへにあります。

 儀式が始まる申の時になりましたので、源氏の君がお入りになりました。角髪を結っていらっしゃる美少年の顔ち、色つや、かわいらしいさまをお変えになろうことが惜しいようです。

 おほ蔵卿が理髪役をお務めになられます。とても清らかで美しいぐしみぐしを削いでいくにつれて、心苦しそうになるのを帝は、「亡き更ていたならば⋯⋯」と思いされては涙がこみ上げてくるのを、心つよく念じておさえています。

 加かうぶりの儀をお済ませになり、御休み所に下がって成人の御装に着替えられて、東庭におりてお礼の舞を拝される御姿に、まゐ列者は皆涙を落とされます。帝はというと、よりもまして涙をこらえきれず、思いまぎれるもあった昔のことをき戻して悲しく思われます。まことにこうもをさない年頃では、元服して髪上げをすると劣りするのではないかと疑わしくも思っておられましたが、驚き呆れんばかりの輝かしい美しさがさらに増すのでした。

 加かうぶり役のおほ臣のをとこ人である皇女がお生みになった子に、ただ一人、おほ切にお育てになられていた姫君ひめぎみがいらっしゃいます。春宮から内々に入内の御所望があるのを、おほ臣に思い悩まれることがありましたのは、この源氏の君に差し上げようという御心からであったのです。帝にも御内意を賜っていたことで、

「さらば、この元服のの後がいないようだから、そひぶしにも」

 と、帝が御催促されると、おほ臣はそのように御決心されました。

 源氏の君が御休所へ退されて、御祝宴が始まります。まゐ列者たちがおほ御酒などをし上がっている間に、親王たちが並ぶ御座の末席に源氏の君は着かれました。
 おほ臣はそれとなく姫君ひめぎみとのことを申し上げますが、ものずかしいお年頃でございますので、なんともお答えできずにおられます。

まへより、内侍ないしのすけ、宣旨うけたまはり

 帝のまへより、内侍ないしのすけおほ臣の席へ来て、帝の御葉を承り伝えました。おほ臣にまゐられるようにとのおしでありますので、おほ臣は帝のまへへとお進みになります。加かうぶり役を務めたことへの御禄の品ものを、帝付きの命婦みやうぶり次いで賜ります。白いおほ袿に御装一式、慣例のとおりでございました。帝は御盃を賜るついでに、

  いときなきはつもとひに長き世をちぎる心は結びこめつや

 と、御心をこめて念をおされます。

  結びつる心も深きもとひにむらさきいろしあせずは

 と、おほ臣はそう上し、長橋よりおりて返礼の舞踏を拝されます。左馬寮の御馬、蔵人所の鷹をえて賜りました。御階の下に親王たちや上達部が連なり、御祝の禄の品々をそれぞれに賜ります。

 その日の帝のまへに供されたものこもものなどは、あの右おほ弁が承って調ととの進されたのでした。屯食、禄を入れた唐櫃など、所狭しといっぱいに並び、春宮の御元服のにも数が勝っていました。むしろ規定もないことが、これまでにないほど盛おほになったのでしょう。

 その夜、おほ臣の御邸宅へ源氏の君はお越しになりました。婚礼の作法は世に珍しいほど派にして、おほ切におもてなしなさいました。いかにもあどけない美少年という様子でおいでになるのを、おほ臣は不吉なほど美しいと思われました。姫君ひめぎみはすこし年上でいらっしゃるので、源氏の君があまりに若くおえになるのが不釣り合いでずかしいと思われるのでした。

 このおほ臣は帝の御信任がおほ変厚い上に、姫君ひめぎみの母宮は、帝と同じ后のはらにお生まれになった兄妹でいらっしゃるのです。おほ臣と母宮のどちらにつけても、極めて華やかな御血統であるところに、この源氏の君までこのように婿むことして迎えられました。春宮の御祖父であり、とうとう世の中を治められるはずであった右おほ臣の御権勢は、問題にもならないほど圧倒されてしまいました。

 左おほ臣は子どもたちをおほ勢のはら々にものしていらっしゃいます。姫君ひめぎみと同じ母宮がお生みになったをとこ子は、蔵人少将というこれまた若く美しいをとこ子です。

 右おほ臣は、左おほ臣との御仲はあまりよろしくありませんでしたが、この少将をごそうにもごすことができず、おほ切に育てられている四の君に婿むことして迎えられました。左おほ臣に劣らず、少将をおほ切にもてなされているのは、両家ともまことに理想的な婿むこと舅の御間柄でございます。

源氏の君は、上の常に

 源氏の君は、うへの常にしまつはせば、心やすくさとみもえしたまはず。心のうちには、ただ藤壺ふぢつぼの御ありさまをたぐひなしとおもひきこえて、さやうならん人をこそめ、る人なくもおはしけるかな。大殿おほいとのの君、いとをかしげにかしづかれたる人とはゆれど、心にもつかずおぼえたまひて、をさなき 源氏の君は、帝が常におせて側にいさせるので、ゆっくり姫君ひめぎみとおごしになることもできません。心のうちには、ただ藤壺の宮の御ありさまを世に類なき人と思われて、さようになるであろう人をこそ妻にしたいのですが、似る人もまあいらっしゃらないものです。
 左おほ臣殿の姫君ひめぎみは、いかにも姫君ひめぎみらしくおほ切に守られてきた人とはえますが、心にもかなわないと感じられて、をさなき頃に抱いた藤壺の宮への心一筋にすがって、ひどく苦しいまでに思い悩んでおられました。

 元服しておほ人になられた後は、帝は以前のように源氏の君を御簾みすのうちにもお入れになりません。管弦の御遊びの々には、藤壺の宮がそうでられることに、源氏の君が笛の音を合わせて心をかよわせなさり、ほのかに漏れる御声を慰めにして、宮中に住むことばかりが好ましく感じられます。

 5~6日は宮中におつかえなさって、左おほ臣家には2~3日など、とぎれとぎれにおいでになりますが、ただ今はをさないお年頃ですので、罪は犯していないだろうとお思いになって、身の回りの用意を丁重におもてなしなさるのです。源氏の君と姫君ひめぎみのそれぞれにつかえる女房たちは、世の中に並々でない者を慎重に選びそろえておつかえさせております。御心にとまりそうな御遊びを催しては、精いっぱいおつかえしている感じをせようと骨をるのでした。

 内裏うちではもとの桐壺更がお住まいであった淑景舎を源氏の君の御部屋にして、母御息所におつかえしていた女房たちを、散り散りにおいとまさせずにき続いておつかえさせます。

 母君の実家は修理すり職、内匠寮に宣旨が下り、世に二つとない派な改築工事を進めさせなさいます。もとの植木や築山の佇まいも趣深い所でありましたのを、池の中心を広くしてしまって、めでたく造り変える工事はおほさわぎです。源氏の君は、

「かような所に、思うような人をえて住みたいことよ」

 とばかり、嘆かわしく思い続けるのでした。

 光る君という名は、あの高麗こま人がご称賛を申し上げておつけになられた、とい伝えられていますとか。