原文

【原文】第8帖「花宴」(全文)

Fc1vaOy4reQd

 如月きさらぎ二十日はつかあまり、南殿なんでんの桜の宴せさせたまふ。きさき春宮とうぐう御局みつぼねいうにして、のぼりたまふ。弘徽こき殿でん女御にようご、中宮のかくておはするを、をりふしごとにやすからずおぼせど、物見にはえ過ぐしたまはでまゐりたまふ。

 日いとよく晴れて、空のけしき、鳥の声も、心地よげなるに、親王みこたち、上達かむだちよりはじめて、その道のは皆、探韻たんゐんたまはりてふみつくりたまふ。宰相中将さいしやうのちゆうじやう

「春といふ文字もじたまはれり」

 と、のたまふ声さへ、例の、人にことなり。次に頭中将、人の目移しもただならずおぼゆべかめれど、いとめやすくもてしづめて、こわづかひなど、ものものしくすぐれたり。さての人々は皆、臆しがちにはなじろめるおほかり。地下ぢげの人は、まして、みかど春宮とうぐうの御ざえかしこくすぐれておはします、かかる方にやむごとなき人おほくものしたまふころなるに、恥づかしく、はるばると曇りなき庭に立ちづるほど、はしたなくて、やすきことなれど、苦しげなり。年老いたる博士はかせどもの、なりあやしくやつれて、例馴れたるも、あはれに、さまざま御覧ずるなむ、をかしかりける。

 がくどもなどは、さらにもいはずととのへさせたまへり。やうやう入り日になるほど、春のうぐひすさへづるといふ舞、いとおもしろく見ゆるに、源氏の御紅葉もみぢの賀の折、おぼでられて、春宮とうぐう、かざしたまはせて、せちに責めのたまはするに、逃がれがたくて、立ちて、のどかに、袖かへすところを一折れ、けしきばかり舞ひたまへるに、似るべきものなく見ゆ。左大臣、恨めしさも忘れて、涙落したまふ。

「頭中将、いづら。遅し」

 とあれば、柳花苑りうくわゑんといふ舞を、これは今すこし過ぐして、かかることもやと心づかひやしけむ、いとおもしろければ、御衣たまはりて、いとめづらしきことに人思へり。上達かむだち皆乱れて舞ひたまへど、夜に入りては、ことにけぢめも見えず。ふみなど講ずるにも、源氏の君の御をば、講師もえ読みやらず、句ごとにじののしる。博士はかせどもの心にもいみじう思へり。

 かうやうの折にも、まづこの君を光にしたまへれば、みかどもいかでかおろかにおぼされむ。中宮、御目のとまるにつけて、春宮とうぐう女御にようごのあながちに憎みたまふらむもあやしう、わがかう思ふも心憂しとぞ、みづからおぼし返されける。

「おほかたに花の姿を見ましかばつゆも心のおかれましやは」

 御心のうちなりけむこと、いかで漏りにけむ。夜いたう更けてなむ、事果てける。

 上達かむだちおのおのあかれ、きさき春宮とうぐう帰らせたまひぬれば、のどやかになりぬるに、月いと明うさしでてをかしきを、源氏の君、酔ひ心地に、見過ぐしがたくおぼえたまひければ、うへの人々もうち休みて、かやうに思ひかけぬほどに、もしさりぬべきひまもやあると、藤壺ふぢつぼわたりを、わりなう忍びてうかがひありけど、語らふべき戸口もしてければ、うち嘆きて、なほあらじに、弘徽こき殿でん細殿ほそどのに立ち寄りたまへれば、三の口開きたり。

 女御にようごは、うへ御局みつぼねにやがてのぼりたまひにければ、人少ななるけはひなり。奥の枢戸くるるども開きて、人音もせず。かやうにて、世の中のあやまちはするぞかし、と思ひて、やをら上りてのぞきたまふ。人は皆寝たるべし。いと若うをかしげなる声の、なべての人とは聞こえぬ、

朧月夜おぼろづきよに似るものぞなき」

 と、うちじて、こなたざまには来るものか。いとうれしくて、ふと袖をとらへたまふ。女、恐ろしと思へるけしきにて、

「あな、むくつけ。こは、そ」

 と、のたまへど、

「何か、うとましき」

 とて、

「深き夜のあはれを知るも入る月のおぼろけならぬ契りとぞ思ふ」

 とて、やをら抱き下ろして、戸は押し立てつ。あさましきにあきれたるさま、いとなつかしうをかしげなり。わななくわななく、

「ここに、人」

 と、のたまへど、

「まろは、皆人に許されたれば、召し寄せたりとも、なんでふことかあらむ。ただ忍びてこそ」

 と、のたまふ声に、この君なりけりと聞き定めて、いささかなぐさめけり。わびしと思へるものから、情けなくこはごはしうは見えじ、と思へり。酔ひ心地や例ならざりけむ、許さむことはくちしきに、女も若うたをやぎて、強き心も知らぬなるべし。

 らうたしと見たまふに、ほどなく明けゆけば、心あわたたし。女はまして、さまざまに思ひ乱れたるけしきなり。

「なほ名のりしたまへ。いかでか聞こゆべき。かうてやみなむとは、さりともおぼされじ」

 とのたまへば、

「憂き身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば問はじとや思ふ」

 と言ふさま、艶になまめきたり。

「ことわりや。聞こえたがへたる文字もじかな」

 とて、

「いづれぞと露のやどりをかむまにざさが原に風もこそ吹け

 わづらはしくおぼすことならずは、何かつつまむ。もし、すかいたまふか」

 とも言ひあへず、人々起き騒ぎ、うへ御局みつぼねまゐりちがふけしきども、しげくまよへば、いとわりなくて、あふぎばかりをしるしに取りかへて、でたまひぬ。

 桐壺には人々おほくさぶらひて、おどろきたるもあれば、かかるを、

「さも、たゆみなき御忍びありきかな」

 とつきじろひつつ、そら寝をぞしあへる。入りたまひてしたまへれど、寝入られず。をかしかりつる人のさまかな、女御にようごの御おとうとたちにこそはあらめ、まだ世に馴れぬは、五、六の君ならむかし、帥宮そちのみやの北の方、頭中将のすさめぬ四の君などこそ、よしと聞きしか、なかなかそれならましかば、今すこしをかしからまし、六は春宮とうぐうにたてまつらむとこころざしたまへるを、いとほしうもあるべいかな、わづらはしう、尋ねむほどもまぎらはし、さて絶えなむとは思はぬけしきなりつるを、いかなれば、言通ことかよはすべきさまを教へずなりぬらむ、などよろづに思ふも、心のとまるなるべし。かうやうなるにつけても、まづかのわたりのありさまの、こよなう奥まりたるはやと、ありがたう思ひ比べられたまふ。

 その日はえんのことありて、まぎれ暮らしたまひつ。さうことつかうまつりたまふ。昨日のことよりも、なまめかしうおもしろし。藤壺ふぢつぼは、あかつきのぼりたまひにけり。かの有明ありあけでやしぬらむと、心もそらにて、思ひ至らぬ隈なき良清よしきよ惟光これみつをつけて、うかがはせたまひければ、まへよりまかでたまひけるほどに、

「ただ今、北の陣より、かねてより隠れ立ちてはべりつる車どもまかりづる。御方々おんかたがたの里人はべりつるなかに、四位しゐの少将、右中弁うちゆうべんなど急ぎでて、送りしはべりつるや、弘徽こき殿でんの御あかれならむと見たまへつる。けしうはあらぬけはひどもしるくて、車三つばかりはべりつ」

 と聞こゆるにも、胸うちつぶれたまふ。いかにして、いづれと知らむ、父大臣など聞きて、ことごとしうもてなさむも、いかにぞや、まだ人のありさまよく見さだめぬほどは、わづらはしかるべし、さりとて知らであらむ、はた、いとくちしかるべければ、いかにせましと、おぼしわづらひて、つくづくとながめしたまへり。

 姫君、いかにつれづれならむ、日ごろになれば、屈してやあらむと、らうたくおぼしやる。かのしるしのあふぎは、桜の三重みへがさねにて、濃きかたにかすめる月を描きて、水にうつしたる心ばへ、目馴れたれど、ゆゑなつかしうもてならしたり。

「草の原をば」

 と言ひしさまのみ、心にかかりたまへば、

「世に知らぬ心地こそすれ有明ありあけの月のゆくへを空にまがへて」

 と書きつけたまひて、置きたまへり。

 大殿おほいとのにも久しうなりにける、とおぼせど、若君も心苦しければ、こしらへむとおぼして、二条院へおはしぬ。見るままに、いとうつくしげに生ひなりて、愛敬あいぎやうづき、らうらうじき心ばへ、いとことなり。飽かぬところなう、わが御心のままに教へなさむとおぼすにかなひぬべし。男の御教へなれば、すこし人馴れたることや混じらむと思ふこそ、うしろめたけれ。日ごろの御物語、御ことなど教へ暮らしてでたまふを、例のと、くちしうおぼせど、今はいとようならはされて、わりなくは慕ひまつはさず。

 大殿おほいとのには、例の、ふとも対面したまはず。つれづれとよろづおぼしめぐらされて、さうの御ことまさぐりて、

「やはらかに寝る夜はなくて」

 とうたひたまふ。大臣渡りたまひて、ひとの興ありしこと、聞こえたまふ。

「ここらのよはひにて、明王の御代、四代をなむ見はべりぬれど、このたびのやうに、ふみども警策に、舞、がく、物の音どもととのほりて、よはひ延ぶることなむはべらざりつる。道々のものの上手どもおほかるころほひ、詳しうしろしめしととのへさせたまへるけなり。おきなもほとほと舞ひでぬべき心地なむしはべりし」

 と聞こえたまへば、

「ことにととのへ行ふこともはべらず。ただ公事おほやけごとに、そしうなる物の師どもを、ここかしこに尋ねはべりしなり。よろづのことよりは、柳花苑りうくわゑん、まことに後代こうだいの例ともなりぬべく見たまへしに、ましてさかゆく春に立ちでさせたまへらましかば、世の面目めんぼくにやはべらまし」

 と聞こえたまふ。弁、中将などまゐりあひて、高欄かうらんに背中おしつつ、とりどりに物の音ども調べ合はせて遊びたまふ、いとおもしろし。

 かの有明ありあけの君は、はかなかりし夢をおぼでて、いともの嘆かしうながめたまふ。春宮とうぐうには、卯月ばかりとおぼし定めたれば、いとわりなうおぼし乱れたるを、男も、尋ねたまはむにあとはかなくはあらねど、いづれとも知らで、ことに許したまはぬあたりにかかづらはむも、人悪く思ひわづらひたまふに、弥生やよひの二十余日、右の大殿おほいとのの弓のけちに、上達かむだち親王みこたちおほく集へたまひて、やがて藤の宴したまふ。

 花盛りは過ぎにたるを、「ほかの散りなむ」とや教へられたりけむ、遅れて咲く桜、ふたぞいとおもしろき。新しう造りたまへる殿を、宮たちの御裳着もぎの日、磨きしつらはれたり。はなばなとものしたまふ殿のやうにて、何ごとも今めかしうもてなしたまへり。源氏の君にも、ひと内裏うちにて御対面のついでに、聞こえたまひしかど、おはせねば、くちしう、もののはえなしとおぼして、御子の四位しゐ少将をたてまつりたまふ。

「わが宿の花しなべての色ならば何かはさらに君を待たまし」

 内裏うちにおはするほどにて、うへに奏したまふ。

「したり顔なりや」

 と笑はせたまひて、

「わざとあめるを、早うものせよかし。女御にようご子たちなども、生ひづるところなれば、なべてのさまには思ふまじきを」

 などのたまはす。御よそひなどひきつくろひたまひて、いたう暮るるほどに、待たれてぞわたりたまふ。

 桜のからの御直衣なほし葡萄えびぞめしたがさねしりいと長く引きて。皆人はうへのきぬなるに、あざれたる大君おほきみ姿のなまめきたるにて、いつかれ入りたまへる御さま、げにいとことなり。花の匂ひもけおされて、なかなかことざましになむ。遊びなどいとおもしろうしたまひて、夜すこし更けゆくほどに、源氏の君、いたく酔ひ悩めるさまにもてなしたまひて、まぎれ立ちたまひぬ。

 寝殿に、女一宮、女三宮のおはします。ひむがしの戸口におはして、寄りゐたまへり。藤はこなたの妻にあたりてあれば、かうども上げわたして、人々でゐたり。袖口など、たふの折おぼえて、ことさらめきもてでたるを、ふさはしからずと、まづ藤壺ふぢつぼわたりおぼでらる。

「なやましきに、いといたう強ひられて、わびにてはべり。かしこけれど、このまへにこそは、蔭にも隠させたまはめ」

 とて、妻戸の御簾みすを引き着たまへば、

「あな、わづらはし。よからぬ人こそ、やむごとなきゆかりはかこちはべるなれ」

 と言ふけしきを見たまふに、重々しうはあらねど、おしなべての若人わかうどどもにはあらず、あてにをかしきけはひしるし。そらだきもの、いとけぶたうくゆりて、衣の音なひ、いとはなやかにふるまひなして、心にくく奥まりたるけはひはたちおくれ、今めかしきことを好みたるわたりにて、やむごとなき御方々おんかたがたもの見たまふとて、この戸口は占めたまへるなるべし。さしもあるまじきことなれど、さすがにをかしう思ほされて、いづれならむと胸うちつぶれて、

あふぎを取られて、からきめを見る」

 と、うちおほどけたる声に言ひなして、寄りゐたまへり。

「あやしくも、さま変へける高麗こまうどかな」

 と答ふるは、心知らぬにやあらむ。答へはせで、ただ時々、うち嘆くけはひする方に寄りかかりて、几帳きちやう越しに手をとらへて、

あづさ弓いるさの山に惑ふかなほの見し月の影や見ゆると

 何ゆゑか」

 と、推し当てにのたまふを、え忍ばぬなるべし。

「心いる方ならませば弓張ゆみはりの月なき空に迷はましやは」

 と言ふ声、ただそれなり。いとうれしきものから。

ABOUT ME
鴨
2024年9月から『源氏物語』の全訳に挑戦しています。10年がかりのライフワークです。
記事URLをコピーしました