第2帖「帚木」(9)この女のあるやう

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」

原文・語釈
この女のあるやう、もとより
この女のあるやう、もとより思ひいたらざりけることにも、いかでこの人のためにはと、なき手を出だし、おくれたる筋の心をもなほくちをしくは見えじと思ひはげみつつ、とにかくにつけてものまめやかに後見、つゆにても心にたがふことはなくもがなと思へりしほどに、すすめる方と思ひしかど、とかくになびきてなよびゆき、みにくきかたちをもこの人に見や疎まれんとわりなく思ひつくろひ、疎き人に見えば面伏せにや思はんと憚りはぢて、みさをにもてつけて、見馴るるままに心もけしうはあらずはべりしかど、ただこのにくき方ひとつなん心をさめずはべりし。
そのかみ思ひはべりしやう
そのかみ思ひはべりしやう、かうあながちにしたがひおぢたる人なめり、いかで懲るばかりのわざしておどして、この方もすこしよろしくもなり、さがなさもやめむ、と思ひて、まことにうしなども思ひて絶えぬべきけしきならば、かばかりわれにしたがふ心ならば思ひ懲りなむ、と思ひたまひ得て、ことさらになさけなくつれなきさまを見せて、例の腹立ち怨ずるに、
かくおぞましくはいみじき契り深くとも
『かくおぞましくはいみじき契り深くとも絶えてまた見じ、限りと思はばかくわりなきもの疑ひはせよ、行く先長く見えむと思はば、つらきことありとも念じて、なのめに思ひなりて、かかる心だに失せなばいとあはれとなん思ふべき、人なみなみにもなり、すこしおとなびんに添へてもまた並ぶ人なくあるべきやう』
など、かしこくをしへ立つるかなと思ひたまひて、我たけく言ひしはべるに、すこしうち笑ひて、
よろづに見立てなく
『よろづに見立てなく、ものげなきほどを見過ぐして、人数なるも世もやと待つも方は、いとのどかに思ひなされて心やましくもあらず。つらき心を忍びて、思ひなほらん折を見つけんと、年月を重ねんあいな頼みはいと苦しくなんあるべければ、互に背きぬべき刻みになむある』
と、妬げに言ふに腹立たしくなりて、にくげなることどもを言ひはげましはべるに、女もえをさめぬ筋にて、指ひとつを引き寄せて食ひてはべりを、おどろおどろしくかこちて、
かかる疵さへつきぬれば
『かかる疵さへつきぬれば、いよいよまじらひをすべきにもあらず。はづかしめたまふめる官位いとどしく、何につけてかは人めかん。世を背きぬべき身なり』
など言ひおどして、
『さらば、けふこそは限りなめれ』
とこの指をかがめてまかでぬ。
手ををりてあひ見しことを
手を折りてあひ見しことを数ふればこれひとつやは君が憂きふし
えうらみじ、など言ひはべれば、さすがにうち泣きて、
憂きふしを心ひとつに数へきてこや君が手を別るべき折
など言ひしろひはべりしかど、まことには変はるべきこととも思ひたまへずながら、日ごろ経るまで消息も遣はさず、あくがれまかり歩くに、

現代語訳

この女のありようといったら、はなから頭が追いつかないようなことでも「この人のためなら何とかしたい」とない知恵を絞り出して、苦手なことを苦手だと思われないように努力するし、とにかく何でもきちんと世話をして、少しでも夫の期待に反することがあってはいけないって感じやったんですよ。気の強い人だと思ってたんですけど、なんでも自分の言うことを聞いてくれるし、おしとやかな感じになっていって。醜い顔も、夫に見られて嫌われはしないかと無理な化粧をして、無知な人だと思われたら夫の面目がないと、一歩引いて上品に振る舞って、見なれてしまえばそんなに悪くないなって思えたんですけどね、ただこの憎たらしい嫉妬心、これだけは直らんかったんですわ。
それで当時思いましたのは、こうも一途に言うこと聞いて怖気づいている女なんだから、どうにかして懲り懲りするようなドッキリでおどかせば、嫉妬も少しは減ってキャンキャンうるさいのもやむんじゃないかって。リアルに嫌いになったふりをして別れたいオーラを出せば、これほど自分に従順な心ならば懲りるだろう、と思いつきまして、ことさらに薄情でつれない態度を見せてやりました。
そしたらいつものように怒って、ギャーギャーわめくもんですから、
『こんな強情な態度じゃ、どんなに縁が深かったとしても無理だわ、もう会いたくもない。これで終わりだと思うなら、そうやって理不尽に疑えばいい。でもこの先も長く一緒にいたいと思うんだったら、辛いことがあっても我慢して、いい加減よくあることだって思えよ。こういう独占欲さえなくなれば、なんてかわいいんだろうって俺も思うだろうよ。人並みに出世して、ちょっと人より上の身分になれば、そのうちお前と肩を並べる女もおらんくなるやろ』
とか言っちゃったんですよ。うまいこと言いくるめたかなと思って、調子こいてまくし立ててたら、女は少しあざ笑って、
『何にも見どころがなく、しょうもないあなたの下積み時代をやり過ごして、いつになったら芽が出るのかしらと待つ私の方は、それはもう気長に構えておりますので不満なんてありません。あなたの思いやりのない心を堪え忍んで、変わってくれるチャンスを見つけようと年月を重ねるだけの期待はむなしく、ひどく苦しいでしょうから、お互いに別れるべき時が来たのでしょう』
と、皮肉たっぷりに言ってくるから腹立たしくなって、えげつない言葉をとことん浴びせてやったら、女もあとに引けない性格なもんで、私の指を一本たぐり寄せて噛みついてきたんですよ。私はここぞとばかりにかこつけて、
『こんな傷までついてしまったら、いよいよ宮中に出向くことすらできんやんけ。お前が大したことないと馬鹿にする官位もこれで終わり。もう何をどうやったって出世は無理。出家した方がいいレベルだわ』
とか言って責めたら、
『そうおっしゃるならば、今日こそが限りのようですね』
と、この指を曲げたまま出ていきました。
手を折りてあひ見しことを数ふればこれひとつやは君が憂きふし
指を折ってあなたと共にした出来事を数えれば、この指一本だけがあなたを嫌になる節目でしょうか。
捨てられても恨めないだろ、などと言いましたら、さすがに泣き始めて、
憂きふしを心ひとつに数へきてこや君が手を別るべき折
あなたのひどい仕打ちを心ひとつに数えて耐えてきて、この一件こそがあなたと別れるべき折なのでしょうか。
などと言い争いましたけど、自分は本気で別れようとは思ってなかったものの、何日も連絡もしないで遊び歩いていました。
