第2帖「帚木」(8)また、絵所に上手多かれど

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」

原文・語釈
また、絵所に上手多かれど
また、絵所に上手多かれど、墨書きに選ばれてつぎつぎに、さらにおとりまさるけぢめふとしも見え分かれず。かかれど、人の見およばぬ蓬莱の山、荒海の怒れる魚の姿、唐国のはげしきけだもののかたち、目に見えぬ鬼の顔などのおどろおどろしく作りたるものは、心にまかせて一際目おどろかして、実には似ざらめどさてありぬべし。
世の常の山のたたずまひ
世の常の山のたたずまひ、水の流れ、目に近き人の家居ありさま、げにと見え、なつかしくやはらいだるかたなどを静かにかきまぜて、すくよかならぬ山のけしき、木深く世離れてたたみなし、け近きまがきの内をば、その心しらひおきてなどをなん、上手はいといきほひことに、わろものはおよばぬ所多かめる。
手を書きたるにも深きこと
手を書きたるにも深きことはなくて、ここかしこの点長に走り書き、そこはかとなくけしきばめるは、うち見るにかどかどしくけしきだちたれど、なほまことの筋をこまやかに書き得たるは、うはべの筆消えて見ゆれど、いまひとたび取り並べて見ればなほ実になん寄りける。
はかなきことだにかくこそはべれ
はかなきことだにかくこそはべれ。まして人の心の時にあたりてけしきばめらむ、見る目のなさけをばえ頼むまじく思ふたまへてはべる。そのはじめのこと、すきずきしくとも申しはべらむ」
とて近くゐ寄れば、君も目覚ましたまふ。中将いみじく信じて、つらつゑをつきて向かひゐたまへり。法の師の、世のことわり説き聞かせむ所の心地するもかつはをかしけれど、かかるついではおのおのむつ言もえ忍びとどめずなんありける。
はやう、まだいと下らふにはべりし時
「はやう、まだいと下臈にはべりし時、あはれと思ふ人はべりき。聞こえさせつるやうに、かたちなどいとまほにもはべらざりしかば、若きほどのすき心には、この人をとまりにとも思ひとどめはべらず、寄るべとは思ひながら、さうざうしくてとかく紛れはべりしを、もの怨じをいたくしはべりしかば、心づきなく、いとかからでおいらかならましかばと思ひつつ、あまりいとゆるしなく疑ひはべりしもうるさくて、かく数ならぬ身を見も放たでなどかくしも思ふらむ、と心ぐるしき折々もはべりて、自然に心をさめらるるやうになんはべりし。

現代語訳

また、宮中の絵所には上手な絵師が多くいますけど、墨書きに抜擢されて次々に下絵を描けば、まったく優劣の差が見分けられません。ところが、実際に見ることのできない蓬莱の山、荒れた海で暴れる魚の姿、唐国の激しい猛獣の形、目に見えない鬼の顔など、いかにも恐ろしく描かれたものは、想像にまかせて大げさに目を驚かせます。実物とは似ていないのかもしれませんけど、それで十分でしょう。
日常でよく目にする山のたたずまい、水の流れ、身近にあふれる人の住まい、生活を描けば実にリアルで、懐かしくも柔らかくも感じられる技法などをさりげなく使ったり、特徴に乏しい山の景色を描けば樹木を深く、浮世離れしたかのように何重にも重ね、その手前にある竹の垣根の内側をも、そのタッチや配置など細部にまで心を配ったりと、腕の立つ絵師は極めて筆の勢いがレベチで、そこらの絵師じゃ及ばない所が多くみられます。
字を書くにしても深いテクニックはなく、いちいち点を長く引いて走り書きして、何となくそれっぽい感じに見せれば、パット見は技巧を凝らしているように引き立ちます。でも真の書法で丁寧に書くことができる匠は、表面上は筆の技術が消えて見えても、いま一度並べて比べればやっぱり実力の差が出るわけですよ。
日常のちょっとしたことでさえ、こんなもんではありませんか。まして女の心の、その時その時に計算して、思わせぶりな素振りを見せる、見かけだけの情愛なんて信頼しちゃダメだって思うのでございます。そのきっかけとなった出来事を、色恋沙汰ではありますがお話しいたしましょう」
と言って近くに寄ると、源氏の君もお目覚めになりました。中将はすっかり心酔して、頬杖をつきながら正面で聞き入っています。法の師が世の道理を説教する場所のような心地がするのも、ある意味では面白おかしいことですけれど、このような折には各人とも、色恋話を心の内に秘めておくことができないのでした。
「昔、自分がまだ下っ端だったころ、かわいいと思う人がいましてね。さっき言ったように自分はそんなできた人間ではなかったんで、若さゆえの遊びたい気持ちっていうか、その人を本妻にしようとか思いきることもできず、まあ頼りになる女だとは思ってたんですけど、なんか物足りなくていろんな女とこそこそ遊んでたんです。
そしたら嫉妬が半端なくて、自分はそれがめちゃくちゃ嫌で、ほんとこんなんじゃなくて寛大な女だったらよかったのに、って思いましたよ。でもあんまりにも容赦なく疑ってくるのもめんどくさいし、自分みたいな何でもない男を見捨てないどころか、どうしてこんなに思ってくれるんだろうと、さすがに心が痛むことも結構あって、自然と浮気心も落ち着いてくるようになったんです。
