第2帖「帚木」(16)さて、いと久しくまからざりしに

国貞『源氏香の図』
出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」

原文・語釈

さて、いと久しくまからざりしに

「さて、いとひさしくまからざりしに、もののたよりにりてはべれば、つねのうちとけゐたるかたにははべらで、心やましきものものしにてなんひてはべる。ふすぶるにやと、をこがましくも、またよきふしなりともおもひたまふるに、このさかし人はた、軽々かるがるしきものゑんじすべきにもあらず、世のだうおもりてうらみざりけり。

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  • こころやまし【心疾し・心疚し】:(思いどおりにならずに)不満である。不愉快だ。面白くない。
  • ものごし【物越し】:間に物をへだてていること。几帳や簾をへだてていること。
  • ふすぶ【燻ぶ】:やきもちを焼く。嫉妬する。
  • をこがまし【痴がまし】:愚かにみえる。ばからしい。見苦しい。
  • ゑんず【怨ず】:不満をことばや態度で表す。恨みがましいことを言う。
  • おもひとる【思ひ取る】:悟る。わきまえる。
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声もはやりかにて言ふやう

こゑもはやりかにてふやう、

『月ごろ、風病重ふびやうおもきにえかねて、極熱ごくねち草薬さうやくぶくして、いとくさきによりなんえ対面たいめむたまはらぬ。のあたりならずとも、さるべからんざふらはうけたまはらむ』

 と、いとあはれにむべむべしくひはべり。

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  • はやりか【逸りか】:調子の速いさま。勢いのあるさま。落ち着きのないさま。
  • つきごろ【月頃】:この数か月の間。
  • ふびゃう【風病】:風の毒に冒されて起こる病気の総称。風邪も含む。
  • ごくねち【極熱】:高熱。
  • ごくねちのさうやく【極熱の草薬】:解熱用の蒜(にんにく)。
  • むべむべし【宣宣し】:もっともらしい。
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式部が所にぞけしきあることはあらむ

いらへになにとかは。ただ、

『うけたまはりぬ』

 とてではべるに、さうざうしくやおぼえけん、

『この香失かうせなん時にりたまへ』

 とたかやかにふを、ぐさむもいとほし、しばしやすらふべきにはたはべらねば、げにそのにほひさへはなやかにへるもすべなくて、使つかひて、

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  • いらへ【応へ・答へ】:返事。返答。
  • なにとかは【何とかは】:どう⋯か。
  • さうざうし:さびしくて、心が満たされない。
  • ききすぐす【聞き過ぐす】:聞き流す。
  • いとほし:かわいそうだ。気の毒だ。ふびんだ。
  • やすらふ【休らふ】:ためらう。決断がつかずぐずぐずする。
  • はなやか【花やか・華やか】:きわだっているさま。はっきりしているさま。
  • にげめをつかふ【逃げ目を使ふ】:逃げようとして機会をうかがう目つきをする。逃げ腰になる。
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ささがにのふるまひしるき

  ささがにのふるまひしるきゆふれにひるまぐせとふがあやなさ

いかなることつけぞや』

 と、ひもてずはしではべりぬるに、ひて、

  ふことの夜をしへだてぬ中ならばひるまもなにかまばゆからまし

さすがにくちくなどははべりき」

と、しづしづと申せば、君達、あさましとおもひて、

「そらごと」

とて笑ひたまふ。

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  • ささがに【細蟹】:蜘蛛の異称。
  • しるし【著し】:はっきりしている。顕著だ。
  • ことつけ【言付け・託け】:口実。
  • まばゆし【目映し・眩し】:恥ずかしい。きまりが悪い。
  • くちとし【口疾し】:すらすらと口に出る。
  • しづしづと【静々と】:物静かに。落ち着いて。
  • あさまし:あきれて興ざめだ。がっかりだ。ひどい。
  • そらごと【空言・虚言】:うそ。作りごと。
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いづこのさる女かあるべき

「いづこのさる女かあるべき。おいらかにおにとこそかひゐたらめ。むくつけきこと」

 とつまはじきをして、はむかたなしと式部をあはめにくみて、

「すこしよろしからむことを申せ」

 とめたまへど、

「これよりめづらしきことはさぶらひなんや」

 とてをり。

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  • おいらかに:あっさりと。すっきりと。素直に。おとなしく。
  • むくつけし:うす気味が悪い。無風流だ。
  • つまはじき【爪弾き】:人差し指、または中指の爪を親指の腹に当ててはじくこと。気に食わない時のしぐさ。
  • あはむ【淡む】:軽蔑する。ばかにする。けなす。
  • くちとし【口疾し】:すらすらと口に出る。
  • しづしづと【静々と】:物静かに。落ち着いて。
  • あさまし:あきれて興ざめだ。がっかりだ。ひどい。
  • そらごと【空言・虚言】:うそ。作りごと。
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現代語訳

「さて、だいぶ久しく通ってなかったんですけど、ちょっと気まぐれに立ち寄ってみたんです。そしたら普段のくつろいでいる居間じゃなくて、心外にも障子越しの面会ですよ。ふてくされてんのかと、めんどくせーけど別れるには良いチャンスだとか思いましたけど、この賢い女ときたら、軽々しく恨みがましいことを言うはずもありません。男と女の道理ってやつを悟ってて、恨みなどしません。それどころか調子づいた声で、

『何か月も続く重い風邪に耐えられなくて、解熱剤のニンニクを服用しております。ひどく臭いますので対面でお会いすることなどできませぬ。お顔をお見せできなくても、しかるべき雑事等はうけたまわりますので』

 と、それはもう健気に、もっともらしく言うんですよ。まじで答えに困るっつーか、ただ一言、

『承知』

 とだけ言って立ち去ろうとしたら、さすがに寂しかったんでしょうか、

『この臭いが消える時に立ち寄ってくださいませ』

 と、高い声で言うので、聞き流すのもかわいそうで、かといってグズグズしている暇もありません。現にその臭いがもうぷんぷん鼻につくのも嫌過ぎて、逃げるチャンスを探しているような目で、

ささがにのふるまひしるきゆふれにひるまぐせとふがあやなさ

蜘蛛の動きで私が訪ねてくるとはっきり分かる夕暮れに、昼間(蒜の臭いが消えるまでの間)は待ち過ごせと言うのはわけが分かりません。

『なんちゅう口実よ』

 と、言いも終わらず走り出ていきますと、背後から、

ふことの夜をしへだてぬ仲ならばひるまもなにかまばゆからまし

逢うことが夜を隔てぬ仲であるならば、昼間も何か恥ずかしいことがありましょうか。

スラスラと口から返歌が出るなど、さすがに賢い女でありました」

 と、落ち着いて話すと、源氏の君たちは興ざめして、

「嘘つけ!」

 と、笑っています。

「どこにそんな女がおるんや。おとなしく鬼とでも向かい合っていた方がましやんけ。キッショ」

 と、爪弾きをしながら、まったくどうしようもない奴だと式部をけなして憎らしがって、

「ちっとはまともな話をしたらどうや」

 と、責め立てますが、

「これより珍しい話がありましょうか」

 と、すましています。