
出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」
原文・語釈
さて、いと久しくまからざりしに
「さて、いと久しくまからざりしに、もののたよりに立ち寄りてはべれば、常のうちとけゐたる方にははべらで、心やましきもの物越しにてなん会ひてはべる。ふすぶるにやと、をこがましくも、またよき節なりとも思ひたまふるに、このさかし人はた、軽々しきもの怨じすべきにもあらず、世の道理を思ひ取りてうらみざりけり。
声もはやりかにて言ふやう
声もはやりかにて言ふやう、
『月ごろ、風病重きに耐えかねて、極熱の草薬を服して、いと臭きによりなんえ対面たまはらぬ。目のあたりならずとも、さるべからん雑事らはうけたまはらむ』
と、いとあはれにむべむべしく言ひはべり。
式部が所にぞけしきあることはあらむ
いらへに何とかは。ただ、
『うけたまはりぬ』
とて立ち出ではべるに、さうざうしくやおぼえけん、
『この香失せなん時に立ち寄りたまへ』
と高やかに言ふを、聞き過ぐさむもいとほし、しばしやすらふべきにはたはべらねば、げにそのにほひさへはなやかに立ち添へるもすべなくて、逃げ目を使ひて、
ささがにのふるまひしるき
ささがにのふるまひしるき夕暮れにひるま過ぐせと言ふがあやなさ
いかなることつけぞや』
と、言ひも果てず走り出ではべりぬるに、追ひて、
逢ふことの夜をし隔てぬ中ならばひるまも何かまばゆからまし
さすがに口疾くなどははべりき」
と、しづしづと申せば、君達、あさましと思ひて、
「そらごと」
とて笑ひたまふ。
いづこのさる女かあるべき
「いづこのさる女かあるべき。おいらかに鬼とこそ向かひゐたらめ。むくつけきこと」
と爪はじきをして、言はむ方なしと式部をあはめにくみて、
「すこしよろしからむことを申せ」
と責めたまへど、
「これよりめづらしきことはさぶらひなんや」
とてをり。
現代語訳
「さて、だいぶ久しく通ってなかったんですけど、ちょっと気まぐれに立ち寄ってみたんです。そしたら普段のくつろいでいる居間じゃなくて、心外にも障子越しの面会ですよ。ふてくされてんのかと、めんどくせーけど別れるには良いチャンスだとか思いましたけど、この賢い女ときたら、軽々しく恨みがましいことを言うはずもありません。男と女の道理ってやつを悟ってて、恨みなどしません。それどころか調子づいた声で、
『何か月も続く重い風邪に耐えられなくて、解熱剤のニンニクを服用しております。ひどく臭いますので対面でお会いすることなどできませぬ。お顔をお見せできなくても、しかるべき雑事等はうけたまわりますので』
と、それはもう健気に、もっともらしく言うんですよ。まじで答えに困るっつーか、ただ一言、
『承知』
とだけ言って立ち去ろうとしたら、さすがに寂しかったんでしょうか、
『この臭いが消える時に立ち寄ってくださいませ』
と、高い声で言うので、聞き流すのもかわいそうで、かといってグズグズしている暇もありません。現にその臭いがもうぷんぷん鼻につくのも嫌過ぎて、逃げるチャンスを探しているような目で、
ささがにのふるまひしるき夕暮れにひるま過ぐせと言ふがあやなさ
蜘蛛の動きで私が訪ねてくるとはっきり分かる夕暮れに、昼間(蒜の臭いが消えるまでの間)は待ち過ごせと言うのはわけが分かりません。
『なんちゅう口実よ』
と、言いも終わらず走り出ていきますと、背後から、
逢ふことの夜をし隔てぬ仲ならばひるまも何かまばゆからまし
逢うことが夜を隔てぬ仲であるならば、昼間も何か恥ずかしいことがありましょうか。
スラスラと口から返歌が出るなど、さすがに賢い女でありました」
と、落ち着いて話すと、源氏の君たちは興ざめして、
「嘘つけ!」
と、笑っています。
「どこにそんな女がおるんや。おとなしく鬼とでも向かい合っていた方がましやんけ。キッショ」
と、爪弾きをしながら、まったくどうしようもない奴だと式部をけなして憎らしがって、
「ちっとはまともな話をしたらどうや」
と、責め立てますが、
「これより珍しい話がありましょうか」
と、すましています。