第2帖「帚木」(15)まだ文章の生にはべりし時

国貞『源氏香の図』
典:国会図書館「NDLイメージバンク」

原文・語釈

まだ文章の生にはべりし時

「まだもんじやうしやうにはべりし時、かしこき女のためしをなんたまへし。かのむまかみの申したまへるやうに、おほやけおほやけごとをもはせ、わたくしざまの世にまふべき心おきてをおもひめぐらさむかたもいたりふかく、ざえきは、なまなまの博士はかせはづかしく、すべてくちかすべくなんはべらざりし。

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  • もんじゃうせい【文章生】:おほ学寮で文章道(漢詩文や史書)を学ぶ学生で、式部省の試験に及第した者の称。
  • おほやけごと【おほやけ事】:朝廷みかどから課せられる義務や奉つか
  • いひあはす【ひ合はす】:おたがひに話し合う。相談する
  • わたくしざま【私様】:私事の方面。おほやけ的でない方面。うちうちのこと。
  • こころおきて【心掟】:心のもち方。心構え。
  • いたりふかし【至り深し】:思慮が深い。配慮がき届いている。
  • なまなま【生生】:未熟な。
  • くちあく【口開く】:ものをう。意う。
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それは、ある博士のもとに

 それは、ある博士はかせのもとに、学問がくもんなどしはべるとてまかりかよひしほどに、あるじむすめどもおほかりときたまへて、はかなきついでにりてはべりしを、おやきつけて、さかづきでて、

ふたつの途歌みちうたふをけ』

 となんこえごちはべりしかど、をさをさうちとけてもまからず、かのおやの心をはばかりて、さすがにかかづらひはべりしほどに、いとあはれにおも後見うしろみ

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  • きこえごつ【く】:こえよがしに申し上げる。
  • をさをさ:(下に打消しの表現を伴って)なかなか。ほとんど。めったに。
  • さすがに:そうはいってもやはり。それでもやはり。
  • かかづらふ【拘ふ】:関係する。かかわりあう。
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寝覚めの語らひにも身のざえつき

寝覚ねざめのかたらひにも身のざえつき、おほやけにつかうまつるべき道道みちみちしきことををしへて、いときよげに消息せうそこせうそこぶみにもかんふものきまぜず、むべむべしくひまはしはべるに、おのづからまかりえで、そのものをとしてなんわづかなるこしをれ文作ぶみつくることなどならひはべりしかば、

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  • ねざめ【寝覚め】:眠りから目がさめること。寝起きではなく、夜中に目がさめてしまうこと。
  • みちみちし【道道し】:学問的で理屈っぽい。
  • むべむべし【宣宣し】:いかにももっともらしい。格式ばっている。
  • こしをれぶみ【腰れ文】:下手な詩文。
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いまにその恩は忘れはべらねど

いまにそのおんわすれはべらねど、なつかしきさいとうちたのまむには、さいの人なまわろならむふるまひなどえむに、はづかしくなんえはべりし。まいて、君達きむだちの御ため、はかばかしくしたたかなる御後見うしろみは、なににかせさせたまはん。はかなし、くちをしとかつつつも、ただわが心につき、宿すくかたはべめれば、をのこしもなんさいなきものははべめる」

 と申せば、のこりをはせむとて、

「さてさてをかしかりける女かな」

 とすかいたまふうを、心はながらはなのわたりをこづきてかたりなす。

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  • なつかし【懐かし】:親しみが感じられる。手放したくない。
  • さいし【妻子】:妻。
  • むさい【無才】:学問のないこと。才能のないこと。
  • なまわろ【生悪】:なんとなく悪い。どことなくみっともない。
  • まいて【況いて】:まして。
  • ため【為】:そのものに関すること。⋯の身にとって。⋯にとって。
  • したたか:しっかりしている。きちんとしている。
  • すくせ【宿世】:前世からの因縁。宿縁。運命。
  • しさいなし【仔細無し】:むずかしいことはない。めんどうがない。
  • すかす【賺す】:おだてる。その気にさせる。
  • をこづく:(鼻を)ひくひく動かす。
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現代語訳

「まだ文章道の学生だった時、賢い女の例をまあました。さっき左馬頭殿が申しましたように、おほやけ務のことも相談できて、私生活では世渡りの心得を思案する方もよくき届いていて、学問のレベルは未熟な博士はずかしくなるほど。すべてにおいて口を開かせるスキのない女でした。

 それというのは、ある博士のもとへ学問を教わりにかよっていた頃、主人に娘たちがおほ勢いるといて、私がちょっとしたついでにった女なのであります。それを親がきつけて、ガチの盃を持ちしては、

ふたつの途歌みちうたふをけ』

 っていきなりってきたんですよ。白楽天の詩をいて、うちの娘は良い嫁になるぞって推してきたんでしょうけど、あんまり深入りしないほど度にかよい続けていました。でもあの親の心を思うとさすがに雑に扱うわけにもいかなくて、そのうちに女が愛情深く世話をしてくれるようになったんです。

夜中にふと目が覚めて語り合う時も、身のためになる学問や、おほやけ務で役つ理屈っぽい識を教えてくれました。達筆で清らかな手紙にも、仮名とかいう女が使う文字を書きまじえず、いかにも的ない回しをおほ用しますので、自分の方がかようのをやめられなくなって、その女を師としてちょっとした下手な詩文を作ることなどならいました。

 今でもその恩は忘れませんが、気さくに付き合える妻として頼りにするには、私のような学のないひとはアホっぽい振る舞いなどをられないかと、気づまりしながら会ってました。ましてあなた方の御身にとっては、はきはきしたしっかり者の妻など何になりましょう。情けない、つまらないと思いながらも、ただ自分の好みってだけで宿縁にかれることもあるのですから、をとこってやつはまあ単純な生きものですよ」

 と申せば、頭中将は最後までわせようとして、

「さてさて超面白い女じゃん」

 と煽ります。藤式部丞はまんまと乗せられたとわかっていながら、鼻のあたりをひくひくさせて語り続けます。

さて、だいぶ久しくかよってなかったんですけど、ちょっと気まぐれにってみたんです。そしたら普段のくつろいでいる居間じゃなくて、心外にも障子越しの面会ですよ。ふてくされてんのかと、めんどくせーけど別れるには良いチャンスだとか思いましたけど、この賢い女ときたら、軽々しく恨みがましいことをうはずもありません。をとこと女の道理ってやつを悟ってて、恨みなどしません。それどころか調ととの子づいた声で、

『何か月も続く重い風邪に耐えられなくて、解熱剤のニンニクを服用しております。ひどく臭いますのでたい面でお会いすることなどできませぬ。お顔をおせできなくても、しかるべき雑事等はうけたまわりますので』

と、それはもう健気に、もっともらしくうんですよ。まじで答えに困るっつーか、ただ一

『承

とだけってち去ろうとしたら、さすがに寂しかったんでしょうか、

『この臭いが消える時にってくださいませ』

と高い声でうので、き流すのもかわいそうで、かといってグズグズしているいとまもありません。現にその臭いがもうぷんぷん鼻につくのも嫌ぎて、逃げるチャンスを探しているような目で、