第2帖「帚木」(15)まだ文章の生にはべりし時

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」

原文・語釈
まだ文章の生にはべりし時
「まだ文章の生にはべりし時、かしこき女のためしをなん見たまへし。かの馬の頭の申したまへるやうに、公事をも言ひ合はせ、私ざまの世に住まふべき心おきてを思ひめぐらさむ方もいたり深く、才の際、なまなまの博士はづかしく、すべて口開かすべくなんはべらざりし。
それは、ある博士のもとに
それは、ある博士のもとに、学問などしはべるとてまかり通ひしほどに、あるじむすめども多かりと聞きたまへて、はかなきついでに言ひ寄りてはべりしを、親聞きつけて、盃持て出でて、
『我が両つの途歌ふを聴け』
となん聞こえごちはべりしかど、をさをさうちとけてもまからず、かの親の心を憚りて、さすがにかかづらひはべりしほどに、いとあはれに思ひ後見、
寝覚めの語らひにも身のざえつき
寝覚めの語らひにも身のざえつき、おほやけに仕うまつるべき道道しきことををしへて、いときよげに消息文にも仮名と言ふもの書きまぜず、むべむべしく言ひまはしはべるに、おのづからまかり絶えで、そのものを師としてなんわづかなる腰をれ文作ることなど習ひはべりしかば、
いまにその恩は忘れはべらねど
いまにその恩は忘れはべらねど、なつかしき妻子とうち頼まむには、無才の人なまわろならむふるまひなど見えむに、はづかしくなん見えはべりし。まいて、君達の御ため、はかばかしくしたたかなる御後見は、何にかせさせたまはん。はかなし、くちをしとかつ見つつも、ただ我心につき、宿世の引く方はべめれば、男しもなん仔細なきものははべめる」
と申せば、残りを言はせむとて、
「さてさてをかしかりける女かな」
とすかいたまふうを、心は得ながら鼻のわたりをこづきて語りなす。
現代語訳
「まだ文章道の学生だった時、賢い女の例をまあ見ました。さっき左馬頭殿が申しましたように、公務のことも相談できて、私生活では世渡りの心得を思案する方もよく行き届いていて、学問のレベルは未熟な博士は恥ずかしくなるほど。すべてにおいて口を開かせるスキのない女でした。
それというのは、ある博士のもとへ学問を教わりに通っていた頃、主人に娘たちが大勢いると聞いて、私がちょっとしたついでに言い寄った女なのであります。それを親が聞きつけて、ガチの盃を持ち出しては、
『我が両つの途歌ふを聴け』
っていきなり言ってきたんですよ。白楽天の詩を引いて、うちの娘は良い嫁になるぞって推してきたんでしょうけど、あんまり深入りしない程度に通い続けていました。でもあの親の心を思うとさすがに雑に扱うわけにもいかなくて、そのうちに女が愛情深く世話をしてくれるようになったんです。
夜中にふと目が覚めて語り合う時も、身のためになる学問や、公務で役立つ理屈っぽい知識を教えてくれました。達筆で清らかな手紙にも、仮名とかいう女が使う文字を書きまじえず、いかにも知的な言い回しを多用しますので、自分の方が通うのをやめられなくなって、その女を師としてちょっとした下手な詩文を作ることなど習いました。
今でもその恩は忘れませんが、気さくに付き合える妻として頼りにするには、私のような学のない人間はアホっぽい振る舞いなどを見られないかと、気づまりしながら会ってました。ましてあなた方の御身にとっては、はきはきしたしっかり者の妻など何になりましょう。情けない、つまらないと思いながらも、ただ自分の好みってだけで宿縁に引かれることもあるのですから、男ってやつはまあ単純な生き物ですよ」
と申せば、頭中将は最後まで言わせようとして、
「さてさて超面白い女じゃん」
と煽ります。藤式部丞はまんまと乗せられたとわかっていながら、鼻のあたりをひくひくさせて語り続けます。
さて、だいぶ久しく通ってなかったんですけど、ちょっと気まぐれに立ち寄ってみたんです。そしたら普段のくつろいでいる居間じゃなくて、心外にも障子越しの面会ですよ。ふてくされてんのかと、めんどくせーけど別れるには良いチャンスだとか思いましたけど、この賢い女ときたら、軽々しく恨みがましいことを言うはずもありません。男と女の道理ってやつを悟ってて、恨みなどしません。それどころか調子づいた声で、
『何か月も続く重い風邪に耐えられなくて、解熱剤のニンニクを服用しております。ひどく臭いますので対面でお会いすることなどできませぬ。お顔をお見せできなくても、しかるべき雑事等はうけたまわりますので』
と、それはもう健気に、もっともらしく言うんですよ。まじで答えに困るっつーか、ただ一言、
『承知』
とだけ言って立ち去ろうとしたら、さすがに寂しかったんでしょうか、
『この臭いが消える時に立ち寄ってくださいませ』
と高い声で言うので、聞き流すのもかわいそうで、かといってグズグズしている暇もありません。現にその臭いがもうぷんぷん鼻につくのも嫌過ぎて、逃げるチャンスを探しているような目で、