第2帖「帚木」

第2帖「帚木」(15)まだ文章の生にはべりし時

Fc1vaOy4reQd
国貞『源氏香の図』
出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」
前回はこちら
第2帖「帚木」(14)咲きまじる色はいづれと
第2帖「帚木」(14)咲きまじる色はいづれと

原文・語釈

まだ文章の生にはべりし時

「まだもんじやうしやうにはべりし時、かしこき女のためしをなん見たまへし。かのむまかみの申したまへるやうに、公事おほやけごとをもはせ、わたくしざまの世にまふべき心おきてをおもひめぐらさむかたもいたりふかく、ざえきは、なまなまの博士はかせはづかしく、すべてくちかすべくなんはべらざりし。

語釈
  • もんじゃうせい【文章生】:大学寮で文章道(漢詩文や史書)を学ぶ学生で、式部省の試験に及第した者の称。
  • おほやけごと【公事】:朝廷から課せられる義務や奉仕。
  • いひあはす【言ひ合はす】:おたがひに話し合う。相談する
  • わたくしざま【私様】:私事の方面。公的でない方面。うちうちのこと。
  • こころおきて【心掟】:心のもち方。心構え。
  • いたりふかし【至り深し】:思慮が深い。配慮が行き届いている。
  • なまなま【生生】:未熟な。
  • くちあく【口開く】:ものを言う。意見を言う。

それは、ある博士のもとに

 それは、ある博士はかせのもとに、学問がくもんなどしはべるとてまかりかよひしほどに、あるじむすめどもおほかりときたまへて、はかなきついでにりてはべりしを、おやきつけて、さかづきでて、

ふたつの途歌みちうたふをけ』

 となんこえごちはべりしかど、をさをさうちとけてもまからず、かのおやの心をはばかりて、さすがにかかづらひはべりしほどに、いとあはれにおも後見うしろみ

語釈
  • きこえごつ【聞く】:聞こえよがしに申し上げる。
  • をさをさ:(下に打消しの表現を伴って)なかなか。ほとんど。めったに。
  • さすがに:そうはいってもやはり。それでもやはり。
  • かかづらふ【拘ふ】:関係する。かかわりあう。

寝覚めの語らひにも身のざえつき

寝覚ねざめのかたらひにも身のざえつき、おほやけにつかうまつるべき道道みちみちしきことををしへて、いときよげに消息文せうそこぶみにもかんふものきまぜず、むべむべしくひまはしはべるに、おのづからまかりえで、そのものをとしてなんわづかなるこしをれ文作ぶみつくることなどならひはべりしかば、

語釈
  • ねざめ【寝覚め】:眠りから目がさめること。寝起きではなく、夜中に目がさめてしまうこと。
  • みちみちし【道道し】:学問的で理屈っぽい。
  • むべむべし【宣宣し】:いかにももっともらしい。格式ばっている。
  • こしをれぶみ【腰折れ文】:下手な詩文。

いまにその恩は忘れはべらねど

いまにそのおんわすれはべらねど、なつかしきさいとうちたのまむには、さいの人なまわろならむふるまひなどえむに、はづかしくなんえはべりし。まいて、君達きむだちの御ため、はかばかしくしたたかなる御後見うしろみは、なににかせさせたまはん。はかなし、くちをしとかつつつも、ただわが心につき、宿すくかたはべめれば、をのこしもなんさいなきものははべめる」

 と申せば、のこりをはせむとて、

「さてさてをかしかりける女かな」

 とすかいたまふうを、心はながらはなのわたりをこづきてかたりなす。

語釈
  • なつかし【懐かし】:親しみが感じられる。手放したくない。
  • さいし【妻子】:妻。
  • むさい【無才】:学問のないこと。才能のないこと。
  • なまわろ【生悪】:なんとなく悪い。どことなくみっともない。
  • まいて【況いて】:まして。
  • ため【為】:そのものに関すること。⋯の身にとって。⋯にとって。
  • したたか:しっかりしている。きちんとしている。
  • すくせ【宿世】:前世からの因縁。宿縁。運命。
  • しさいなし【仔細無し】:むずかしいことはない。めんどうがない。
  • すかす【賺す】:おだてる。その気にさせる。
  • をこづく:(鼻を)ひくひく動かす。

現代語訳

「まだ文章道の学生だった時、賢い女の例をまあ見ました。さっき左馬頭殿が申しましたように、公務のことも相談できて、私生活では世渡りの心得を思案する方もよく行き届いていて、学問のレベルは未熟な博士は恥ずかしくなるほど。すべてにおいて口を開かせるスキのない女でした。

 それというのは、ある博士のもとへ学問を教わりに通っていた頃、主人に娘たちが大勢いると聞いて、私がちょっとしたついでに言い寄った女なのであります。それを親が聞きつけて、ガチの盃を持ち出しては、

ふたつの途歌みちうたふをけ』

 っていきなり言ってきたんですよ。白楽天の詩を引いて、うちの娘は良い嫁になるぞって推してきたんでしょうけど、あんまり深入りしない程度に通い続けていました。でもあの親の心を思うとさすがに雑に扱うわけにもいかなくて、そのうちに女が愛情深く世話をしてくれるようになったんです。

夜中にふと目が覚めて語り合う時も、身のためになる学問や、公務で役立つ理屈っぽい知識を教えてくれました。達筆で清らかな手紙にも、仮名とかいう女が使う文字を書きまじえず、いかにも知的な言い回しを多用しますので、自分の方が通うのをやめられなくなって、その女を師としてちょっとした下手な詩文を作ることなど習いました。

 今でもその恩は忘れませんが、気さくに付き合える妻として頼りにするには、私のような学のない人間はアホっぽい振る舞いなどを見られないかと、気づまりしながら会ってました。ましてあなた方の御身にとっては、はきはきしたしっかり者の妻など何になりましょう。情けない、つまらないと思いながらも、ただ自分の好みってだけで宿縁に引かれることもあるのですから、男ってやつはまあ単純な生き物ですよ」

 と申せば、頭中将は最後まで言わせようとして、

「さてさて超面白い女じゃん」

 と煽ります。藤式部丞はまんまと乗せられたとわかっていながら、鼻のあたりをひくひくさせて語り続けます。

さて、だいぶ久しく通ってなかったんですけど、ちょっと気まぐれに立ち寄ってみたんです。そしたら普段のくつろいでいる居間じゃなくて、心外にも障子越しの面会ですよ。ふてくされてんのかと、めんどくせーけど別れるには良いチャンスだとか思いましたけど、この賢い女ときたら、軽々しく恨みがましいことを言うはずもありません。男と女の道理ってやつを悟ってて、恨みなどしません。それどころか調子づいた声で、

『何か月も続く重い風邪に耐えられなくて、解熱剤のニンニクを服用しております。ひどく臭いますので対面でお会いすることなどできませぬ。お顔をお見せできなくても、しかるべき雑事等はうけたまわりますので』

と、それはもう健気に、もっともらしく言うんですよ。まじで答えに困るっつーか、ただ一言、

『承知』

とだけ言って立ち去ろうとしたら、さすがに寂しかったんでしょうか、

『この臭いが消える時に立ち寄ってくださいませ』

と高い声で言うので、聞き流すのもかわいそうで、かといってグズグズしている暇もありません。現にその臭いがもうぷんぷん鼻につくのも嫌過ぎて、逃げるチャンスを探しているような目で、

ABOUT ME
保坂陽平(ヤンピン)
保坂陽平(ヤンピン)
福岡県宗像市在住。2024年9月から『源氏物語』の全訳に挑戦しています。10年がかりのライフワークです。
記事URLをコピーしました