【原文】第2帖「帚木」（全文）

　光源氏ひかるげんじ、名のみことことしう、言いひ消けたれたまふ咎とが多おほかなるに、いとどかかるすきごとどもを末すゑの世にも聞きき伝つたへて、軽かろびたる名をや流ながさむと、忍しのびたまひける隠かくろへごとをさへ語かたり伝つたへけむ人のもの言いひさがなさよ。さるは、いといたく世を憚はばかり、まめだちたまひけるほど、なよびかにをかしきことはなくて、交野かたのの少せう将しやうには笑ゑはれたまひけむかし。

　まだ中将ちゆうじやうなどにものしたまひし時は、内裏うちにのみさぶらひようしたまひて、大殿おほいどのには絶たえ絶だえまかでたまふ。しのぶの乱みだれやと、疑うたがひきこゆることもありしかど、さしもあだめき目馴めなれたる、うちつけのすきずきしさなどはこのましからぬ御本上ほんじやうにて、まれには、あながちに引ひきたがへ、心づくしなることを御心に思おぼしとどむる癖くせなむあやにくにて、さるまじき御ふるまひもうちまじりける。

　長雨ながあめ晴はれ間まなきころ、内裏うちの御物忌ものいみさし続きて、いとど長なが居ゐさぶらひたまふを、大殿おほいどのにはおぼつかなく、うらめしく思おぼしたれど、よろづの御よそひ何なにくれとめづらしきさまに調てうじ出いでたまひつつ、御むすこの君たち、ただこの御宿直所とのゐどころの宮仕みやづかへを勤つとめたまふ。

　宮腹みやばらの中将ちゆうじやうはなかに親したしく馴なれきこえたまひて、遊あそびたはぶれをも人よりは心安く、馴なれ馴なれしくふるまひたり。右大臣みぎのおとどのいたはりかしづきたまふ住処すみかは、この君もいともの憂うくして、すきがましきあだ人びとなり。里さとにても、わが方かたのしつらひまばゆくして、君の出いで入いりしたまふにうち連つれきこえたまひつつ、夜昼よるひる、学問がくもんをも遊あそびをももろともにして、をさをさ立たちおくれず、いづくにてもまつはれきこえたまふほどに、おのづからかしこまりもえおかず、心の内うちに思おもふことをも隠かくしあへずなん睦むつれきこえたまひける。

　つれづれと降ふり暮くらして、しめやかなる宵よひの雨に、殿上てんじやうにもをさをさ人少ひとずくなに、御宿直所とのゐどころも例れいよりはのどやかなる心ここ地ちするに、大殿油おほとなぶら近ちかくて文ふみどもなど見みたまふ。近ちかき御厨子みづしなる、いろいろの紙かみなる文ふみどもを引ひき出いでて、中将わりなくゆかしがれば、

「さりぬべき、すこしは見みせむ。かたはなるべきもこそ」

　と、ゆるしたまはねば、

「そのうちとけてかたはらいたし、と思おぼされんこそゆかしけれ。おしなべたるおほかたのは、数ならねど、ほどほどにつけて書かきかはしつつも見みはべりなん。おのがじし、うらめしき折々をりをり、待まち顔がほならむ夕ゆふ暮ぐれなどのこそ、見所みどころはあらめ」

　と怨ゑんずれば、やむごとなく、切せちに隠かくしたまふべきなどはかやうにおほぞうなる御厨子みづしなどにうちおき散ちらしたまふべくもあらず、深ふかく取とりおきたまふべかめれば二にの町まちの心安きなるべし。片端かたはしづつ見みるに、

「よく、さまざまなるものどもこそはべりけれ」

　とて、心あてに「それかかれか」など問とふ中に、言いひ当あつるもあり、もて離はなれたることをも思おもひ寄よせて疑うたがふもをかしと思おぼせど、言い少ことずくなにてとかく紛まぎらはしつつ、とり隠かくしたまひつ。

「そこにこそ多おほく集つどへたまふらめ。すこし見みばや。さてなんこの厨子づしも心よくひらくべき」

　とのたまへば、

「御覧じ所あらむこそ、かたくはべらめ」

　など聞きこえたまふついでに、

「女の、これはしもと、難なんつくまじきはかたくもあるかな、とやうやうなむ見みたまへ知しる。ただうはべばかりの情なさけに手て走はしり書かき、をりふしのいらへ心得えてうちしなどばかりは、随分ずいぶんによろしきも多おほかりと見みたまふれど、そもまことにその方かたを取とり出いでん選えらびに、かならず漏もるまじきはいとかたしや。わが心得えたることばかりをおのがじし心をやりて、人をばおとしめなど、かたはらいたきこと多おほかり。親おやなど立たち添そひもてあがめて、生おひ先さきこもれる窓まどのうちなるほどは、ただかたかどを聞きき伝つたへて心を動うごかすこともあめり。かたちをかしくうちおほどき、若わかやかにて紛まぎるることなきほど、はかなきすさびをも人まねに心を入いるることもあるに、おのづからひとつゆゑづけてし出いづることもあり。見みる人、おくれたる方かたをば言いひ隠かくし、さてありぬべき方かたをばつくろひてまねび出いだすに、それしかあらじと、そらにいかがはおしはかり思おもひ朽くたさむ。まことかと見みもてゆくに、見みおとりせぬやうはなくなんあるべき」

　と、うめきたるけしきもはづかしげなれば、いとなべてはあらねど、我、思おぼし合あはすることやあらむ、　うちほほゑみて、

「そのかたかどもなき人はあらむや」

　とのたまへば、

「いとさばかりならむあたりには誰たれかはすかされ寄よりはべらむ。取とる方かたなく口くち惜をしき際きはと、優いうなりとおぼゆばかりすぐれたるとは、数かずひとしくこそはべらめ。人の品高しなたかく生まれぬれば、人にもてかしづかれて、隠かくるること多おほく、自じ然ねんにそのけはひこよなかるべし。中なかの品しなになん、人の心々こころごころ、おのがじしの立たてたるおもむきも見みえて、分わかるべきことかたがた多おほかるべき。下しものきざみといふ際きはになれば、ことに耳みみ立たたたずかし」

　とて、いと隈くまなげなるけしきなるもゆかしくて、

「その品々しなじなやいかに。いづれを三みつの品しなにおきてか分わくべき。もとの品高しなたかく生まれながら身は沈しずみ、位くらゐみじかくて人げなき。また直人なほびとの上達部かむだちめなどまで成なり上のぼり、我われは顔がほにて家いへの内うちを飾かざり、人におとらじと思おもへる。そのけぢめをばいかが分わくべき」

　と問とひたまふほどに、左馬頭ひだりのむまのかみ、藤式部丞とうしきぶのじよう、「御物忌ものいみに籠こもらむ」とて参まゐれり。世のすきものにてものよく言いひとほれるを、中将待まち取とりて、この品々しなじなをわきまへ定さだめあらそふ。いと聞ききにくきこと多おほかり。

「成なり上のぼれども、もとよりさるべき筋すぢならぬは、世よ人ひとの思おもへることも、さは言いへどなほことなり。また、もとはやんごとなき筋すぢなれど、世に経ふるたづき少すくなく、時とき世よに移うつろひておぼえ衰おとろへぬれば、心は心としてこと足たらず、悪わろびたることども出いでくるわざなめれば、取とり取どりにことわりて中なかの品しなにぞおくべき。受領ずりやうと言いひて、人の国のことにかかづらひいとなみて、品定しなさだまりたる中なかにもまたきざみきざみありて、中なかの品しなのけしうはあらぬ、選えり出いでつべきころほひなり。なまなまの上かん達だち部めよりも、非ひ参さん議ぎの四位しゐどもの、世のおぼえ口くち惜をしからず、もとの根ねざしいやしからぬ、やすらかに身をもてなしふるまひたる、いとかわらかなりや。家のうちに足らぬことなど、はたなかめるままにはぶかず、まばゆきまでもてかしづける女むすめなどの、おとしめがたく生おひ出いづるもあまたあるべし。宮仕みやづかへに出いで立たちて、思おもひかけぬさいはひ取とり出いづる例ためしども、多おほかりかし」

　など言いへば、

「すべて、にぎははしきによるべきななり」

　とて笑わらひたまふを、

「異人ことびとの言いはむやうに、心得こころえず仰おほせらる」

　と中将しゆうじやうにくむ。

「もとの品しな、時とき世よのおぼえうちあひやむごとなきあたりの、うちうちのもてなしけはひおくれたらむはさらにも言いはず。何なにをしてかく生おひ出いでけむと、言いふかひなくおぼゆべし。うちあひてすぐれたらむもことわり、これこそはさるべきこととおぼえて、めづらかなることと心もおどろくまじ。なにがしがおよぶべきほどならねば、上かみが上かみはうちおきはべりぬ。さて、世よにありと人に知しられず、さびしく荒あばれたらむ葎むぐらの門かどに、思おもひのほかにらうたげならん人の閉とぢられたらんこそ、限かぎりなくめづらしくはおぼえめ。いかではたかかりけむと、思おもふよりたがへることなんあやしく心とまるわざなる。父ちちの年とし老おい、ものむつかしげに太ふとり過すぎ、せうとの顔かほにくげに、思おもひやりことなることなき閨ねやのうちに、いといたく思おもひ上あがり、はかなくし出いでたることわざもゆゑなからず見みえたらむ、片かたかどにてもいかが思おもひのほかにをかしからざらむ。すぐれて疵きずなき方かたの選えらびにこそおよばざらめ、さる方かたにて捨すてがたきものをば」

　とて、式しき部ぶを見みやれば、わが妹いもうとどものよろしき聞きこえあるを思おもひてのたまふにや、とや心得こころうらむ、ものも言いはず。

「いでや、上かみの品しなと思おもふにだにかたげなる世よを」と、君は思おぼすべし。白しろき御衣ぞどものなよよかなるに、直衣なほしばかりをしどけなく着きなしたまひて、紐ひもなどもうち捨すてて、添そひ臥ふしたまへる御火ほ影かげいとめでたく、女にて見みたてまつらまほし。この御ためには上かみが上かみを選えり出いでても、なほ飽あくまじく見みえたまふ。

　さまざまの人の上うへどもを語かたりあはせつつ、

「おほかたの世よにつけて見みるには咎とがなきも、わがものとうち頼たのむべきを選えらんに、多おほかる中にもえなん思おもひ定さだむまじかりける。男をのこのおほやけに仕つかうまつり、はかばかしき世よのかためとなるべきも、まことのうつはものとなるべきを取とり出いださむにはかたかるべしかし。されど、かしこしとても、ひとりふたり世中よのなかをまつりごちしるべきならねば、上かみは下しもに助たすけられ、下しもは上かみになびきて、こと広ひろきに譲ゆづろふらん。狭せばき家のうちのあるじとすべき人ひとりを思おもひめぐらすに、足たらはで悪あしかるべき大おほだい事じどもなむかたがた多おほかる。とあればかかり、あふさきるさにて、なのめにさてもありぬべき人の少すくなきを、すきずきしき心のすさびにて、人のありさまをあまた見みあはせむの好このみならねど、ひとへに思おもひ定さだむべき寄よるべとすばかりに、同おなじくは、わが力入ちからいりをし、なほし引ひきつくろふべき所なく、心にかなふやうにもやと選えり初そめつる人の、定さだまりがたきなるべし。必ずしもわが思おもふにかなはねど、見みそめつる契ちぎりばかりを捨すてがたく、思おもひとまる人はものまめやかなりと見みえ、さて保たもたるる女のためも心にくくおしはからるるなり。されど、何なにか。世よのありさまを見みたまへ集あつむるままに、心におよばずいとゆかしきこともなしや。君達きんだちの上かみなき御選えらびには、ましていかばかりの人かはたぐひたまはん。かたちきたなげなく若わかやかなるほどの、おのがじしは塵ちりちりもつかじと身をもてなし、文ふみを書かけどおほどかに言いこと選えりをし、墨すみつきほのかに心もとなく思おもはせつつ、またさやかにも見みてしかなとすべなく待またせ、わづかなる声こゑ聞ききくばかり言いひ寄よれど、息いきの下したに引ひき入いれ言いこと少ずくななるが、いとよくもて隠かくすなりけり。なよびかに女をんなしと見みれば、あまり情なさけに引ひきこめられて、取とりなせばあだめく。これをはじめの難なんとすべし。ことがなかに、なのめなるまじき人の後見うしろみの方かたは、もののあはれ知ししり過すぐし、はかなきついでの情なさけあり、をかしきにすすめる方かたなくてもよかるべしと見みえたるに、また、まめまめしき筋すぢを立たてて、耳みみはさみがちにびさうなき家いへ刀とう自じの、ひとへにうちとけたる後見うしろみばかりをして、朝夕あさゆふの出いで入いりにつけても、公おほやけおほやけ私わたくしの人のたたずまひ、よきあしきことの目めにも耳みみにもとまるありさまを、疎うとき人にわざとうちまねばんやは、近ちかくて見みん人の聞きき分わき思おもひ知ししるべからむに、語かたりも合あはせばやとうちも笑ゑまれ、涙なみだもさしぐみ、もしはあやなきおほやけ腹はらはら立ただたしく、心ひとつに思おもひあまることなど多おほかるを、何なににかは聞きかせむと思おもへば、うち背そむかれて、人知ししれぬ思おもひ出いで笑わらひもせられ、『あはれ』ともうちひとりごたるるに、『何なにごとぞ』などあはつかにさし仰あふぎゐたらむは、いかがはくちをしからぬ。ただひたふるに、子こめきてやはらかならむ人をとかく引ひきつくろひては、などか見みざらん。心もとなくともなほしどころある心地ここちすべし。げにさし向むかひて見みむほどは、さてもらうたき方かたに罪つみゆるし見みるべきを、立たち離はなれて、さるべきことをも言いひやり、をりふしにし出いでむわざの、あだことにもまめごとにもわが心と思おもひ得うることなく、深ふかきいたりなからむは、いとくちをしく頼たのもしげなき咎とがやなほ苦くるしからむ。常つねはすこしそばそばしく心づきなき人の、をりふしにつけて出いでばえするやうもありかし」

　など、隈くまなきもの言いひも、定さだめかねていたくうち嘆なげく。

「いまはただ、品しなにもよらじ、かたちをばさらにも言いはじ。いとくちをしくねぢけがましきおぼえだになくは、ただひとへに、ものまめやかに静しづかなる心のおもむきならむ寄よるべをぞ、つひの頼たのみ所には思おもひおくべかりける。あまりゆゑよし、心ばせうち添そへたらむをばよろこびに思おもひ、すこしおくれたる方かたあらむをもあながちに求もとめ加くはへじ。うしろやすくのどけき所だに強つよつよくは、うはべのなさけはおのづからもてつけつべきわざをや。艶えんにもの恥はぢして、うらみ言いふべきことをも見み知しみしらぬさまに忍しのしのびて、上うへはつれなくみさをづくり、心ひとつに思おもひあまる時は、言いはん方かたなくすごき言ことの葉は、あはれなる歌うたを詠よみおき、しのばるべき形かた見みをとどめて、深ふかき山里やまざと、世離ばなれたる海うみづらなどにはひ隠かくれぬるをりかし。童わらはわらはにはべりしとき、女房などの物ものもの語がたり読よみしを聞ききて、いとあはれにかなしく心深ふかきことかな、と涙をさへなん落おとしはべりし。いま思おもふには、いと軽々かるがるしくことさらびたることなり。心ざし深ふかからん男をとこをおきて、見みる目めの前まへにつらきことありとも、人の心を見み知しみしらぬやうに逃げ隠かくれて、人をまどはし心を見みんとするほどに、長ながき世のもの思おもひになる、いとあぢきなきことなり。『心深しや』、などほめたてられて、あはれすすみぬれば、やがて尼あまになりぬかし。思おもひ立たつほどはいと心澄すめるやうにて、世にかへりみすべくも思おもへらず。『いで、あな悲し。かくはた、思おぼしなりにけるよ』などやうに、あひ知ししれる人来きとぶらひ、ひたすらに憂ううれうしとも思おもひ離はなれぬ男をとこ聞ききつけて涙落おとせば、使つかふ人、古ふる御ご達たちなど、『君の御心はあはれなりけるものを。あたら御身を』など言いふ。みづから額ひたひ髪がみをかきさぐりて、あへなく心細ければ、うちひそみぬかし。忍しのしのぶれど涙こぼれそめぬれば、折々をりをりごとにえ念ねんじ得えず、くやしきこと多おほかめるに、仏もなかなか心ぎたなしと見みたまひつべし。濁にごりに染しめるほどよりも、なま浮うかびにてはかへりて悪あしき道みちにもただよひぬべくおぼゆる。絶たえぬ宿すく世せ浅あさからで、尼あまにもなさで尋たづね取とりたらんも、やがてその思おもひ出いでうらめしきふしあらざらんや。あしくもよくもあひ添そひて、とあらむ折ををりも、かからんきざみをも見過みすぐしたらん仲こそ、契ちぎり深ふかくあはれならめ、われも人もうしろめたく心おかれじやは。また、なのめに移うつろふ方かたあらむ人をうらみてけしきばみ背そむかんはた、をこがましかりなん。心は移うつろふ方かたありとも、見みそめし心ざしいとほしく思おもはば、さる方かたのよすがに思おもひてもありぬべきに、さやうならむたぢろきに絶たえぬべきわざなり。すべて、よろづの事なだらかに、怨ゑんずべきことをば見み知しみしれるさまにほのめかし、うらむべからむふしをもにくからずかすめなさば、それにつけてあはれもまさりぬべし。多おほくはわが心も見みる人からをさまりもすべし。あまりむげにうちゆるへ見みみ放はなちたるも、心やすくらうたきやうなれど、おのづからかろき方かたにぞおぼえはべるかし。つながぬ舟の浮うきたるためしもげにあやなし。さははべらぬか」

　と言いへば、中将うなづく。

「さしあたりて、をかしともあはれとも心に入いらむ人の、頼たのもしげなき疑うたがひあらむこそ大おほだい事じなるべけれ。わが心あやまちなくて見過みすぐさば、さしなほしてもなどか見みざらむとおぼえたれど、それさしもあらじ。ともかくも、たがふべきふしあらむを、のどやかに見みみ忍しのしのばむよりほかにますことあるまじけり」

　と言いひて、わがいもうとの姫君ひめぎみはこの定さだめにかなひたまへりと思おもへば、君のうちねぶりて言いこと葉ばまぜたまはぬを、さうざうしく心やましと思おもふ。馬むまの頭かみ、もの定さだめの博士はかせになりてひひらきゐたり。中将はこのことわり聞きき果はてむと、心入いれてあへしらひゐたまへり。

「よろづのことによそへておぼせ。木きの道みちの匠たくみの、よろづのものを心にまかせて作つくり出いだすも、臨りむ時じのもて遊あそびものの、そのものと跡あとも定さだまらぬは、そばつきさればみたるも、げにかうもしつべかりけりと、時につけつつさまを変かへて、いまめかしきに目め移うつりてをかしきもあり。大おほ事として、まことにうるはしき人の調ととのてう度どの、飾かざりとする定さだまれるやうあるものを難なんなくし出いづることなん、なほまことのものの上手じやうずはさまことに見みえ分わかれはべる。また、絵所ゑどころに上手多おほかれど、墨すみ書がきに選えらばれてつぎつぎに、さらにおとりまさるけぢめふとしも見みえ分わかれず。かかれど、人の見みおよばぬ蓬莱ほうらいの山、荒海あらうみの怒いかれる魚いをの姿すがた、唐国からくにのはげしきけだもののかたち、目めに見みえぬ鬼おにの顔かほなどのおどろおどろしく作つくりたるものは、心にまかせて一際ひときは目めおどろかして、実じちには似にざらめどさてありぬべし。世の常つねの山のたたずまひ、水の流ながれ、目めに近ちかき人の家いへ居ゐありさま、げにと見みえ、なつかしくやはらいだるかたなどを静しづかにかきまぜて、すくよかならぬ山のけしき、木こ深ぶかく世よ離はなれてたたみなし、け近ちかきまがきの内うちをば、その心しらひおきてなどをなん、上手じやうずはいといきほひことに、わろものはおよばぬ所多おほかめる。手てを書かきたるにも深ふかきことはなくて、ここかしこの点長てんながに走はしり書かき、そこはかとなくけしきばめるは、うち見みるにかどかどしくけしきだちたれど、なほまことの筋すぢをこまやかに書かき得えたるは、うはべの筆ふで消きえて見みゆれど、いまひとたび取とり並ならべて見みればなほ実じちになん寄よりける。はかなきことだにかくこそはべれ。まして人の心の時にあたりてけしきばめらむ、見みる目めのなさけをばえ頼たのむまじく思おもふたまへてはべる。そのはじめのこと、すきずきしくとも申しはべらむ」

　とて近ちかくゐ寄よれば、君も目覚めさましたまふ。中将いみじく信しんじて、つらつゑをつきて向むかひゐたまへり。法のりの師の、世のことわり説とき聞きかせむ所の心地ここちするもかつはをかしけれど、かかるついではおのおのむつ言いごともえ忍しのしのびとどめずなんありける。

「はやう、まだいと下げ臈らふにはべりし時、あはれと思おもふ人はべりき。聞きこえさせつるやうに、かたちなどいとまほにもはべらざりしかば、若わかきほどのすき心ごころには、この人をとまりにとも思おもひとどめはべらず、寄よるべとは思おもひながら、さうざうしくてとかく紛まぎれはべりしを、もの怨ゑんじをいたくしはべりしかば、心づきなく、いとかからでおいらかならましかばと思おもひつつ、あまりいとゆるしなく疑うたがひはべりしもうるさくて、かく数かずならぬ身を見みも放はなたでなどかくしも思おもふらむ、と心ぐるしき折々をりをりもはべりて、自じ然ねんに心をさめらるるやうになんはべりし。この女のあるやう、もとより思おもひいたらざりけることにも、いかでこの人のためにはと、なき手てを出いだし、おくれたる筋すぢの心をもなほくちをしくは見みえじと思おもひはげみつつ、とにかくにつけてものまめやかに後見うしろみ、つゆにても心にたがふことはなくもがなと思おもへりしほどに、すすめる方かたと思おもひしかど、とかくになびきてなよびゆき、みにくきかたちをもこの人に見みや疎うとまれんとわりなく思おもひつくろひ、疎うとき人に見みえば面伏おもてぶせにや思おもはんと憚はばかりはぢて、みさをにもてつけて、見み馴みなるるままに心もけしうはあらずはべりしかど、ただこのにくき方かたひとつなん心をさめずはべりし。そのかみ思おもひはべりしやう、かうあながちにしたがひおぢたる人なめり、いかで懲ここるばかりのわざしておどして、この方かたもすこしよろしくもなり、さがなさもやめむ、と思おもひて、まことにうしなども思おもひて絶たえぬべきけしきならば、かばかりわれにしたがふ心ならば思おもひ懲ここりなむ、と思おもひたまひ得えて、ことさらになさけなくつれなきさまを見みせて、例れいの腹はらはら立ただち怨ゑんずるに、

『かくおぞましくはいみじき契ちぎり深ふかくとも絶たえてまた見みじ、限かぎりと思おもはばかくわりなきもの疑うたがひはせよ、行ゆく先長さきながく見みえむと思おもはば、つらきことありとも念ねんじて、なのめに思おもひなりて、かかる心だに失うせなばいとあはれとなん思おもふべき、人なみなみにもなり、すこしおとなびんに添そへてもまた並ならぶ人なくあるべきやう』

　など、かしこくをしへ立たつるかなと思おもひたまひて、我たけく言いひしはべるに、すこしうち笑わらひて、

『よろづに見み立たみだてなく、ものげなきほどを見過みすぐして、人数かずなるも世もやと待まつも方かたは、いとのどかに思おもひなされて心やましくもあらず。つらき心を忍しのしのびて、思おもひなほらん折ををりを見みつけんと、年月としつきを重かさねんあいな頼だのみはいと苦くるしくなんあるべければ、互かたみに背そむきぬべき刻きざみになむある』

　と、妬ねたげに言いふに腹はらはら立ただたしくなりて、にくげなることどもを言いひはげましはべるに、女もえをさめぬ筋すぢにて、指およびひとつを引ひき寄よせて食くひてはべりを、おどろおどろしくかこちて、

『かかる疵きずさへつきぬれば、いよいよまじらひをすべきにもあらず。はづかしめたまふめる官つかさ位くらゐいとどしく、何なににつけてかは人めかん。世を背そむきぬべき身なり』

　など言いひおどして、

『さらば、けふこそは限かぎりなめれ』

　と、この指およびをかがめてまかでぬ。

　　手てを折ををりてあひ見みしことを数かぞふればこれひとつやは君が憂うきふし

　など言いひしろひはべりしかど、まことには変かはるべきこととも思おもひたまへずながら、日ひごろ経ふるまで消息せうそこも遣つかはさず、あくがれまかり歩ありありくに、臨りん時じの祭まつりの調ととの楽てうがくに、夜よふけていみじうみぞれ降ふる夜よ、これかれまかりあかるる所にて、思おもひめぐらせばなほ家いへ路ぢと思おもはむ方かたはまたなかりけり、内裏うちわたりの旅たび寝ねすさまじかるべく、けしきばめるあたりはそぞろ寒さむくや、と思おもうたまへられしかば、いかが思おもへるとけしきも見みがてら、雪をうち払はらいつつ、なま人わろく爪つめ食くはるれど、さりとも今こ宵よひ日ひごろのうらみはとけなむと思おもひたまへしに、火ほのかに壁かべに背そむけ、なえたる衣ぞきぬどもの厚あつ肥ごえたる大おほおほいなる籠こもこにうちかけて、引ひき上あぐべき、もののかたびらなどうち上あげて、今こ宵よひばかりやと待まちけるさまなり。さればよ、と心おごりするに、正身さうじみはなし。さるべき女房にようばうどもばかりとまりて、

『親おやの家いへに、この夜よさりなん渡わたりぬる』

　と答こたへはべり。艶えんなる歌も詠よまず、けしきばめる消息せうそこもせで、いとひたやごもりに情なさけなかりしかば、あへなき心ここ地ちして、さがなくゆるしなかりしも我を疎うとみねと思おもふ方かたの心やありけむと、さしも見みたまへざりしことなれど、心やましきままに思おもひはべりしに、着きるべきもの、常つねよりも心とどめたる色あひ、しざま、いとあらまほしくて、さすがにわが見み捨みすてん後をさへなん思おもひやり後見うしろみたりし。さりとも、絶たえて思おもひ放はなつやうはあらじと思おもうたまへて、とかく言いひはべりしを、背そむきもせずと、尋たづねまどはさむとも隠かくれ忍しのしのびず、かかやかしからずいらへつつ、ただ、

『ありしながらはえなん見過みすぐすまじき。改あらためてのどかに思おもひならばなんあひ見みるべき』

　など言いひしを、さりともえ思おもひ離はなれじと思おもひたまへしかば、しばし懲ここらさむの心にて、「しか改あらためむ」とも言いはず、いたく綱つな引ひひきて見みせしあひだに、いといたく思おもひ嘆なげきてはかなくなりはべりにしかば、たはぶれにくくなむおぼえはべりし。ひとへにうち頼たのみたらむ方かたは、さばかりにてありぬべくなん思おもひたまへ出いでらるる。はかなきあだ事をも、まことの大おほ事をも、言いひ合あはせたるにかひなからず、竜たつ田た姫ひめと言いはむにもつきなからず、たなばたの手てにもおとるまじくその方かたも具ぐして、うるさくなんはべりし」

　とて、いとあはれと思おもひ出いでたり。中将ちゆうじやう、

「そのたなばたの裁たち縫ぬふ方かたをのどめて、長ながき契ちぎりにぞあえまし。げにその竜たつ田た姫ひめの錦にしきにはまたしくものあらじ。はかなき花紅くれなゐ葉はなもみじと言いふも、をりふしの色あひつきなくはかばかしからぬは、露のはえなく消きえぬるわざなり。さあるにより、かたき世とは定さだめかねたるぞや」

　と言いひはやしたまふ。

「さて、また同おなじころ、まかり通かよひし所ところは、人も立たちまさり、心ばせまことにゆゑありと見みえぬべく、うち詠よみ、走はしり書かき、掻かかい弾ひく爪音つまおと、手てつき、口くちつき、みなただたどしからず見み聞きみききわたりはべりき。見みる目めもこともなくはべりしかば、このさがなものをうちとけたる方かたにて、ときどき隠かくろへ見みはべりしほどは、こよなく心とまりはべりき。この人亡うせて後、いかがはせむ、あはれながらも過すぎぬるはかひなくて、しばしばまかり馴なるるには少しまばゆく、艶えんにこのましき事は目めにつかぬ所あるに、うち頼たのむべくは見みえず、かれがれにのみ見みせはべる程ほどに、忍しのしのびて心かはせる人ぞありけらし。神無月かむなづきのころほひ、月おもしろかりし夜、内裏うちよりまかではべるに、ある上人うへびと来きあひて、この車にあひ乗のりてはべれば、大だい納な言ごんの家にまかりとまらむとするに、この人言いふやう、

『こよひ人待まつらむ宿やどなんあやしく心苦しき』

　とて、この女の家はた避よきぬ道みちなりければ、荒あれたるくづれより池の水影かげ見みみえて、月だに宿やどる住すみかを過すぎむもさすがにて、下おりはべりぬかし。もとよりさる心をかはせるにやありけん、この男をとこいたくすずろきて、門近かどちかき廊らうの簀すの子こだつものに尻しりかけてとばかり月を見みる。菊きくいとおもしろく移うつろひわたり、風にきほへる紅くれなゐ葉もみぢの乱みだれなど、あはれとげに見みえたり。懐ふところなりける笛ふえ取ととり出いでて吹ふふき鳴ならし、『影かげもよし』などつづしりうたふほどに、よく鳴なる和わ琴ことごむを調ととのしらべととのへたりける、うるはしく掻かかき合あはせたりしほど、けしうはあらずかし。律りちの調ととのしらべは、女のものやはらかに掻かかき鳴ならして、簾すの内うちより聞きこえたるも、いまめきたるものの声こゑなれば、きよく澄すめる月にをりつきなからず。男をとこいたくめでて、簾すのもとに歩ありあゆみ来きて、

『庭にはの紅くれなゐ葉もみぢこそ踏ふみ分わけたる跡あともなけれ』

　などねたます。菊きくををりて、

　　琴ことの音ねも月もえならぬ宿やどながらつれなき人を引ひきやとめける

『わろかめり』

　など言いひて、

『いま一声ひとこゑ聞きききはやすべき人のある時、手てな残のこいたまひそ』

　など、いたくあざれかかれば、女、声こゑいたうつくろひて、

　　木枯こがらしに吹ふふき合あはすめる笛ふえの音ねを引ひきとどむべきことの葉はぞなき

　となまめきかはすに、にくくなるをも知ししらで、また箏さうさうの琴ことを盤渉調ととのばんしきでうに調ととのしらべていまめかしく掻かかひ弾ひきたる爪音つまおと、かどなきにはあらねど、まばゆき心ここ地ちなんしはべりし。ただ時々うち語かたらう宮仕みやづかへ人などの、飽あくまでさればみすきたるは、さても見みる限かぎりはをかしくもありぬべし。時々にても、さる所にて忘わすれぬよすがと思おもうたまへんには頼たのもしげなく、さし過すぐいたりと心おかれて、その夜の事にことつけてこそまかり絶たえにしか。

　この二ふたつのことを思おもうたまへ合あはするに、若わかき時の心にだに、なほさやうにもて出いでたることはいとあやしく頼たのもしげなくおぼえはべりき。いまよりのちはましてさのみなん思おもうたまへらるべき。御心のままに、をらば落おちぬべき萩はぎの露、拾ひろはば消きえなんと見みる玉笹たまざさの上うへのあられなどの、艶えんにあえかなるすきずきしさのみこそをかしくおぼえさるらめ。いま、さりとも七年ななとせあまりがほどにおぼし知ししりはべなん。なにがしがいやしき諌いさめにて、すきたわめらむ女に心おかせたまへ。あやまちして、見みむ人のかたくななる名をも立たてつべきものなり」

　と戒いましむ。中将、例れいのうなづく。君すこし片かた笑ゑゑみて、さる事とはおぼすべかめり。

「いづ方かたにつけても人わるくはしたなかりける身み物ものもの語がたりかな」

　とてうち笑わらひおはさうず。中将、

「なにがしは痴者しれものの物もの語ものがたりをせむ」とて、

「いと忍しのしのびて見みそめたりし人の、さても見みつべかりしけはひなりしかば、ながらふべきものとしも思おもうたまへざりしかど、馴なれゆくままにあはれとおぼえしかば、絶たえ絶だえ忘わすれぬものに思おもひたまへしを、さばかりになればうち頼たのめるけしきも見みえき。頼たのむにつけてはうらめしと思おもふ事もあらむと、心ながらおぼゆるをりをりもはべりしを、見み知しみしらぬやうにて、久ひさしきと絶だえおをも、かうたまさかなる人とも思おもひたらず、ただ朝夕あさゆふにもてつけたらむありさまに見みえて心ぐるしかりしかば、頼たのめわたる事などもありきかし。親おやもなく、いと心ぼそげにて、さらばこの人こそはとことにふれて思おもへるさまもらうたげなりき。かうのどけきにおだしくて、久ひさしくまからざりしころ、この見みたまふるわたりより、なさけなくうたてある事をなん、さるたよりありてかすめ言いはせたりける、後にこそ聞ききはべりしか。さるうき事やあらむとも知ししらず、心に忘わすれずながら、消息せうそこなどもせで久ひさしくはべりしに、むげに思おもひしをれて、心こころ細ぼそかりければ、をさなきものなどもありしに、思おもひわづらひて、なでしこの花ををりておこせたりし」

　とて涙なみだぐみたり。

「さてその文ふみの言いこと葉ばは」

　と問とひたまへば、

「いさや、ことなる事もなかりきや。

　　山がつの垣かき穂ほ荒あるともをりをりにあはれはかけよなでしこの露

　思おもひ出いでしままにまかりたりしかば、例れいのうらもなきものから、いともの思おもひ顔がほにて、荒あれたる家いへの露しげきをながめて虫むしの音ねに競きほへるけしき、昔むかし物ものもの語がたりめきておぼえはべりし。

　　咲ささきまじる色はいづれとわかねどもなほ常夏とこなつにしくものぞなき

　やまとなでしこをばさしおきて、まづ塵ちりちりをだになど親おやの心を取とる。

　　うちはらふ袖も露けき常夏とこなつにあらし吹ふきそふ秋も来きにけり

　とはかなげに言いひなして、まめまめしくうらみたるさまも見みえず、涙を漏もらし落おとしても、いとはづかしくつつましげに紛まぎらはし隠かくして、つらきをも思おもひ知ししりけりと見みえむはわりなく苦くるしきものと思おもひたりしかば、心やすくて、またと絶だえおきはべりしほどに、跡あともなくこそかき消けちて失うもせにしか。

　まだ世よにあらばはかなき世よにぞさすらふらん。あはれと思おもひしほどに、わづらはしげに思おもひまつはすけしき見みえしかば、かくもあくがらさざらまし。こよなきと絶だえおかず、さるものにしなして、長ながく見みるやうもはべりなまし。かのなでしこのらうたくはべりしかば、いかで尋たづねむと思おもひたまふるを、いまもえこそ聞ききつけはべらね。これこそのたまへるはかなきためしなめれ。つれなくて、つらしと思おもひけるも知ししらで、あはれ絶たえざりしも、益やくなき片思かたおもひなりけり。いまやうやう忘わすれゆく際きはに、かれはた、えしも思おもひ離はなれず、をりをり人やりならぬ胸むねこがるる夕ゆふべもあらむとおぼえはべり。これなんえ保たもつまじく頼たのもしげなき方かたなりける」

「さればこのさがなものも、思おもひ出いである方かたに忘わすれがたけれど、さしあたりて見みんにはわづらはしく、よくせずは飽あきたきこともありなんや。琴ことの音ねすすめけんかどかどしさもすきたる罪重つみおもかるべし」

「この心もとなきも、疑うたがひ添そふべければ、いづれとつひに思おもひ定さだめずなりぬるこそ」

「世中よのなかや、ただかくこそ。取とり取どりに比くらべ苦ぐるしかるべき。このさまざまのよき限かぎりを取とり具ぐし難なんずべきくさはひまぜぬ人はいづこにかはあらむ。吉きち祥じやう天てん女によを思おもひかけむとすれば、ほふけづきくすしからむこそまたわびしかりぬべけれ」

　とて、みな笑わらひぬ。

「式部が所にぞけしきあることはあらむ。すこしづつ語かたり申せ」と責せめらる。

「下しもが下しものなかにはなでふことか聞きこしめし所はべらむ」と言いへど、頭とうの君、まめやかに、

「おそし」と責せめたまへば、何事を取とり申さんと思おもひめぐらすに、

「まだ文もん章じやうの生しやうにはべりし時、かしこき女のためしをなん見みたまへし。かの馬むまの頭かみの申したまへるやうに、公おほやけ事おほやけごとをも言いひ合あはせ、私わたくしざまの世に住すまふべき心おきてを思おもひめぐらさむ方かたもいたり深ふかく、才ざえの際きは、なまなまの博士はかせはづかしく、すべて口くち開あかすべくなんはべらざりし。それは、ある博士はかせのもとに、学問がくもんなどしはべるとてまかり通かよひしほどに、あるじむすめども多おほかりと聞ききたまへて、はかなきついでに言いひ寄よりてはべりしを、親おや聞きききつけて、盃さかづき持もて出いでて、

『我わが両ふたつの途歌みちうたふを聴きけ』

　となん聞きこえごちはべりしかど、をさをさうちとけてもまからず、かの親おやの心を憚はばかりて、さすがにかかづらひはべりしほどに、いとあはれに思おもひ後見うしろみ、寝覚ねざめの語かたらひにも身のざえつき、おほやけに仕つかうまつるべき道道みちみちしきことををしへて、いときよげに消息せうそこ文せうそこぶみにも仮かん名なと言いふもの書かきまぜず、むべむべしく言いひまはしはべるに、おのづからまかり絶たえで、そのものを師しとしてなんわづかなる腰こしをれ文作ぶみつくることなど習ならひはべりしかば、いまにその恩おんは忘わすれはべらねど、なつかしき妻さい子しとうち頼たのまむには、無む才さいの人なまわろならむふるまひなど見みえむに、はづかしくなん見みえはべりし。まいて、君達きむだちの御ため、はかばかしくしたたかなる御後見うしろみは、何なににかせさせたまはん。はかなし、くちをしとかつ見みつつも、ただ我わが心につき、宿すく世せの引ひく方かたはべめれば、男をのこしもなん仔し細さいなきものははべめる」

　と申せば、残のこりを言いはせむとて、

「さてさてをかしかりける女かな」

　とすかいたまふうを、心は得えながら鼻はなのわたりをこづきて語かたりなす。

「さて、いと久ひさしくまからざりしに、もののたよりに立たち寄よりてはべれば、常つねのうちとけゐたる方かたにははべらで、心やましきもの物ものもの越ごしにてなん会あひてはべる。ふすぶるにやと、をこがましくも、またよき節ふしなりとも思おもひたまふるに、このさかし人はた、軽々かるがるしきもの怨ゑんじすべきにもあらず、世の道だう理りを思おもひ取とりてうらみざりけり。声こゑもはやりかにて言いふやう、

『月ごろ、風病重ふびやうおもきに耐たえかねて、極熱ごくねちの草薬さうやくを服ぶくして、いと臭くさきによりなんえ対面たいめむたまはらぬ。目まのあたりならずとも、さるべからん雑ざふ事じらはうけたまはらむ』

　と、いとあはれにむべむべしく言いひはべり。いらへに何なにとかは。ただ、

『うけたまはりぬ』

　とて立たち出いではべるに、さうざうしくやおぼえけん、

『この香失かうせなん時に立たち寄よりたまへ』

　と高たかやかに言いふを、聞きき過すぐさむもいとほし、しばしやすらふべきにはたはべらねば、げにそのにほひさへはなやかに立たち添そへるもすべなくて、逃にげ目めを使つかひて、

　　ささがにのふるまひしるき夕ゆふ暮ぐれにひるま過すぐせと言いふがあやなさ

『いかなることつけぞや』

　と、言いひも果はてず走はしり出いではべりぬるに、追おひて、

　　逢あふことの夜をし隔へだてぬ中ならばひるまも何なにかまばゆからまし

　さすがに口くち疾とくなどははべりき」

と、しづしづと申せば、君達、あさましと思おもひて、

「そらごと」とて笑ゑひたまふ。

「いづこのさる女かあるべき。おいらかに鬼おにとこそ向むかひゐたらめ。むくつけきこと」

　と爪つまはじきをして、言いはむ方かたなしと式部をあはめにくみて、

「すこしよろしからむことを申せ」と責せめたまへど、

「これよりめづらしきことはさぶらひなんや」とてをり。

「すべて、男をとこも女もわろものは、わづかに知ししれる方かたのことを残のこりなく見みせ尽つくさむと思おもへるこそ、いとほしけれ。三史五経さんしごきやう、道々みちみちしき方かたを明あきらかに悟さとり明あかさんこそ愛敬あいぎやうあいぎやうなからめ、などかは女と言いはんからに、世にあることの公おほやけ私おほやけわたくしにつけて、むげに知ししらずいたらずしもあらむ。すこしもかどあらむ人の、耳みみにも目めにもとまること、自じ然ねんに多おほかるべし。さるままには真名まなを走はしり書かきて、さるまじきどちの女をんな文ぶみに半なかば過すぎて書かきすくめたる、あなうたて、この人のたをやかならましかば、と見みえたり。心ここ地ちにはさしも思おもはざらめど、おのづからこはごはしき声こゑに読よみなされなどしつつ、ことさらびたり。上じやう﨟らうのなかにも多おほかることぞかし。歌うた詠よむと思おもへる人の、やがて歌うたにまつはれ、をかしき古言いふることをもはじめより取とり込こみつつ、すさまじきをりをり詠よみかけたるこそものしき事なれ。返かへしせねばなさけなし、えせざらむ人ははしたなからん。さるべき節せち会ゑなど、五月の節せちに急いそぎまゐる朝あした、何なにのあやめも思おもひしづめられぬに、えならぬ根ねを引ひきかけ、九日ここぬかの宴えんに、まづかたき詩の心を思おもひめぐらし暇いとまなきをりに、菊きくの露をかこち寄よせなどやうの、つきなきいとなみに合あはせ、さならでも、おのづから、げにのちに思おもへばをかしくもあはれにもあべかりける事の、そのをりにつきなく目めにとまらぬなどを、おしはからず詠よみ出いでたる、なかなか心おくれて見みゆ。よろづのことに、などかは、さても、とおぼゆるをりから、時々思ときときおもひ分わかぬばかりの心にては、由よしばみ情なさけ立ただたざらむなんめやすかるべき。すべて、心に知ししれらむことをも知ししらず顔がほにもてなし、言いはまほしからむことをも一ひとつ二ふたつのふしは過すぐすべくなんあべかりける」

　と言いふにも、君は人ひとりの御ありさまを心の内うちに思おもひつづけたまふ。これに足たらず、また、さし過すぎたることなくものしたまひけるかなと、ありがたきにもいとど胸むねふたがる。いづ方かたに寄より果はつともなく、はてはてはあやしきことどもになりて明あかしたまひつ。

　からうして、今日けふは日のけしきもなほれり。かくのみ籠こもりさぶらひたまふも大殿おほいとのの御心いとほしければ、まかでたまへり。大方おほかたのけしき、人のけはひもけざやかにけ高たかく、乱みだれたるところまじらず、なおこれこそはかの人々の捨すてがたく取とり出いでしまめ人には頼たのまれぬべけれ、とおぼすものから、あまりうるはしき御ありさまのとけがたくはづかしげに思おもひしづまりたまへるを、さうざうしくて、中納言いちゆうなごんの君、中務なかつかさなかづかさなどやうのおしなべたらぬ若人わかうどどもにたはぶれごとなどのたまひつつ、暑あつさに乱みだれたまへる御ありさまを、見みるかひありと思おもひきこえたり。大臣おとども渡わたりたまひて、かくうちとけたまへれば、御み几帳きちやう隔きちやうへだてておはしまして、御物もの語ものがたり聞きこえたまふを、

「暑あつきに」と、苦にがみたまへば、人々笑わらうふ。

「あなかま」とて、脇息けふそくに寄よりおはす。いとやすらかなる御ふるまひなりや。暗くらくなるほどに、

「今宵こよひ、中神なかがみ、内裏うちよりはふたがりてはべりけり」と聞きこゆ。

「さかし、例れいは忌いみたまふ方かたなりけり。二条院にでうのゐんにでうのゐんにも同おなじ筋すぢにて、いづくにか違たがへん。いとなやましきに」とて、大殿籠おほとのごもれり。

「いとあしきことなり」と、これかれ聞きこゆ。

「紀伊きの守かみにて親したしく仕つかうまつる人の、中川なかがはのわたりなる家いへなん、このごろ水せき入いれて涼すずしき陰かげにはべる」と聞きこゆ。

「いとよかなり。なやましきに、牛うしながら引ひき入いれつべからむ所を」

　とのたまふ。忍しのしのび忍しのしのびの御方違たがかたたがへ所はあまたありぬべけれど、久ひさしくほど経へて渡わたりたまへるに、方塞かたふたげて引ひき違たがへほかざまへとおぼさんは、いとほしきなるべし。

　紀伊きの守かみに仰おほせ言ごとたまへば、うけたまはりながら退しりぞきて、

「伊予いよの守かみの朝臣あそむの家いへにつつしむことはべりて、女房にようばうなんまかり移うつれるころにて、狭せばき所にはべれば、なめげなることやはべらむ」と、下したに嘆なげくを聞ききたまひて、

「その人近ちかからむなんうれしかるべき。女遠どほき旅たび寝ねはものおそろしき心ここ地ちすべきを、ただその几帳きちやうきちやうのうしろに」とのたまへば、

「げによろしきおまし所にも」とて人走はしらせやる。いと忍しのしのびて、ことさらに、ことことしからぬ所をと、急いそぎ出いでたまへば、大臣おとどにも聞きこえたまはず、御供ともにもむつましき限かぎりしておはしましぬ。

「にはかに」とわぶれど、人も聞きき入いれず。心殿しんでんの東面払ひむがしおもてはらひ開あけさせて、かりそめの御しつらひしたり。にも聞きこえたまはず、御供ともにもむつましき限かぎりしておはしましぬ。水の心ばへなどさる方かたにをかしくしなしたり。ゐなかいへだつ柴垣しばがきして、前栽せむざいぜんざいなど心とめて植うゑたり。風涼かぜすずしくて、そこはかとなき虫むしの声々聞きこゑごゑきこえ、蛍ほたるしげく飛とびまがひてをかしきほどなり。人々、渡殿わたどのより出いでたる泉いづみにのぞきゐて酒さけ飲のむ。あるじも肴さかな求もとむとこゆるぎのいそぎありくほど、君はのどやかにながめたまひて、かの中の品しなに取とり出いでて言いひし、このなみならむかし、とおぼし出いづ。

　思おもひ上あがれるけしきに聞ききおきたまへるむすめなれば、ゆかしくて耳みみとどめたまへるに、この西面にしおもてにぞ人のけはひする。衣ぞきぬのおとなひ、はらはらとして、若わかき声こゑどもにくからず、さすがに忍しのしのびて笑わらひなどするけはひ。ことさらびたり。格かう子しを上あげたりけれど、守かみ、

「心なし」と、むつかりて下おろしつれば、火ともしたる透影すきかげ、障子さうじの上かみより漏もりたるに、やをら寄よりたまひて、見みゆやとおぼせど、隙ひまひまもなければ、しばし聞ききたまふに、この近ちかき母屋もやに集つどひゐたるなるべし、うちささめき言いふことどもを聞ききたまへば、わが御上うへなるべし、

「いといたうまめだちて、まだきにやむごとなきよすが定さだまりたまへるこそさうざうしかむめれ」

「されど、さるべき隈くまにはよくこそ隠かくれありきたまふなれ」

　など言いふにも、おぼすことのみ心にかかりたまへば、まづ胸むねつぶれて、かやうのついでにも人の言いひ漏もらさむを聞ききつけたらむときなどおぼえたまふ。ことなることなければ聞ききさしたまひつ。式部卿しきぶきやうの宮の姫君ひめぎみに朝顔あさがほたてまつりたまひし歌などをすこしほほゆがめて語るも聞きこゆ。くつろぎがましく歌誦うたずじがちにもあるかな、なほ見み劣りはしなんかし、とおぼす。

　守出いかみいで来て、灯籠こもとうろとうろ掛け添そへ、火明あかくかかげなどして、御果物ものくだものばかりまゐれり。

「とばり帳ちやうもいかにぞは。さる方かたの心もなくてはめざましきあるじならむ」

　とのたまへば、

「何よけむともえうけたまはらず」

　とかしこまりてさぶらふ。端はしつ方かたのおましに、仮かりなるやうにて大殿籠おほとのごもれば、人々も静しづまりぬ。

　あるじの子ども、をかしげにてあり。童わらはわらはなる、殿上てんじやうのほどに御覧らむじ馴なれたるもあり。伊予いよの介すけの子もあり。あまたあるなかに、いとけはひあてはかにて十二三ばかりなるもあり。

「いづれかいづれ」

　など問ひたまふに、

「これは故衛門督こゑもんのかみの末すゑの子にて、いとかなしくしはべりけるを、幼をさなきほどにおくれはべりて、姉あねなる人のよすがにかくてはべるなり。才ざえなどもつきぬべく、けしうははべらぬを、殿上てんじやうなども思うたまへかけながら、すがすがしうはえまじらひはべらざめる」

　と申す。

「あはれのことや。この姉あね君やまうとの後のちの親」

「さなんはべる」

　と申すに、

「似にげなき親をもまうけたりけるかな。上うへにも聞きこしめしおきて、

『宮仕みやづかえに出いだし立たてむと漏らし奏そうせし、いかになりけむ』

　と、いつぞやものたまはせし。世こそ定めなきものなれ」

　と、いとおよすげのたまふ。

「不意にかくてものしはべるなり。世の中というもの、さのみこそいまもむかしも定まりたることはべらね。中についても、女の宿世すくせはいと浮かびたるなんあはれにはべる」

　なんど聞きこえさす。

「伊予いよの介すけかしづくや。君と思おもふらむな」

「いかがは。私わたくしの主しうとこそは思おもひてはべめるを、すきずきしきことと、なにがしよりはじめてうけひきはべらずなむ」

　と申す。

「さりとも、まうとたちのつきづきしくいまめきたらむに下おろしたてんやは。かの介すけはいとよしありてけしきばめるをや」

　などもの語がたりしたまひて、

「いづ方かたにぞ」

「みな下屋しもやに下おろしはべりぬるを、えやまかり下おりあへざらむ」

　と聞きこゆ。酔よひすすみて、みな人々簀子すのこに臥ふしつつ静しづまりぬ。

　君はとけても寝られたまはず、いたづら臥ふしとおぼさるるに御目さめて、この北の障子さうじのあなたに人のけはひするを、こなたやかく言いふ人の隠れたる方かたならむ、あはれや、と御心とどめて、やをら起きて立たち聞ききたまへば、ありつる子の声こゑにて、

「ものけたまはる。いづくにおはしますぞ」

　と、かれたる声こゑのをかしきにて言いへば、

「ここにぞ臥ふしたる。客人まらうとは寝たまひぬるか。いかに近からむと思おもひつるを、されど、けどほかりけり」

　と言いふ。寝たりける声こゑのしどけなき、いとよく似通かよにかよひたれば、姉妹いもうとと聞ききたまひつ。

「廂ひさしにぞ大殿籠おほとのごもりぬる。おとに聞ききつる御ありさまを見みたてまつりつる、げにこそめでたかりけれ」

　と、みそかに言いふ。

「昼ならましかば、のぞきて見みたてまつりてまし」

　と、ねたげに言いひて顔かほ引ひき入れつる声こゑす。ねたう、心とどめても問ひ聞きけかし、とあぢきなくおぼす。

「まろは端はしに寝はべらん。あな暗くら」

　とて、火かかげなどすべし。女君はただこの障子口さうじぐち、筋すぢかひたるほどにぞ臥ふしたるべき。

「中将の君はいづくにぞ。人げとほき心地ここちして、ものおそろし」

　と言いふなれば、長押なげしの下しもに人々臥ふしていらへすなり。

「下しもに湯に下おりて、ただいままゐらむとはべり」

　と言いふ。

　みな静しづまりたるけはひなれば、掛金かけがねを心こころみに引ひき上げたまへれば、あなたよりは鎖ささざりけり。几帳きちやうきちやうを障子口さうじぐちには立たてて、火はほの暗くらきに見みたまへば、唐櫃からひつだつものどもをおきたれば、乱みだりがはしきなかを分わけ入いりたまへれば、けはひしつる所に入いりたまへれば、ただひとりいとささやかにて臥ふしたり。なまわづらはしけれど、上うへなる衣ぞきぬおしやるまで、求めつる人と思おもへり。

「中将召めしつればなん。人知しれぬ思おもひのしるしある心地ここちして」

　とのはまふを、ともかくも思おもひ分わかれず、ものにおそはる心地ここちして、

「や」

　と、おびゆれど、顔かほに衣ぞきぬのさはりておとにも立たてず。

「うちつけに、深からぬ心のほどと見みたまふらん、ことわりなれど、年としごろ思おもひわたる心のうちも聞きこえ知しらせむとてなん。かかるをりを待ち出いでたるもさらに浅くはあらじと思おもひなしたまへ」

　と、いとやはらかにのたまひて、鬼神おにかみも荒あらだつまじきけはひなれば、はしたなく、ここに人、ともえののしらず。心地ここちはた、わびしくあるまじきことと思おもへば、あさましく、

「人違たがへにこそはべめれ」

　と言いふも息いきの下したなり。消えまどへるけしきいと心ぐるしく、らうたげなれば、をかしと見みたまひて、

「違たがふべくもあらぬ心のしるべを、思おもはずにもおぼめいたまふかな。すきがましきさまにはよに見みえたてまつらじ。思おもふこと少し聞きこゆべきぞ」

　とて、いとちひさやかなればかき抱いだきて障子さうじのもと出いでたまふにぞ、求めつる中将だつ人来きあひたる。

「やや」

　とのたまふにあやしくて、探り寄よりたるにぞいみじくにほひ満みちて、顔かほにもくゆりかかる心地ここちするに、思おもひ寄よりぬ。あさましう、こはいかなることぞと思おもひまどはるれど、聞きこえん方かたなし。なみなみの人ならばこそ荒あららかにも引ひきかなぐらめ、それだに人のあまた知しらむはいかがあらん、心もさわぎて慕したひ来きたれど、動どうもなくて奥おくなるおましに入いりたまひぬ。障子さうじを引ひき立たてて、

「あかつきに御迎むかへにものせよ」

　とのたまへば、女は、この人の思おもふらむことさへ死しぬばかりわりなきに、流ながるるまで汗あせになりて、いと悩ましげなり。いとほしけれど、例れいのいづこより取とう出いでたまふ言ことの葉はにかあらむ、あはれ知しるばかりなさけさけしくのたまひ尽つくすべかめれど、なほいとあさましきに、

「うつつともおぼえずこそ。数かずならむ身ながらも、おぼし朽くたしける御心ばへのほどもいかが浅くは思うたまへざらむ。いとかやうなる際きはは際きはとこそはべなれ」

　とて、かくおし立たちたまへるを深くなさけなくうしと思おもひ入いりたるさまも、げにいとほしく心はづかしきけはひなれば、

「その際々きはきはをまだ知しらぬうひことぞや。なかなかおしなべたるつらに思おもひなしたまへるなんうたてありける、おのづから聞ききたまふやうもあらむ。あながちなるすき心はさらにならはぬを、さるべきにや、げにかくあはめられたてまつるもことわりなる心まどひを、みづからもあやしきまでなん」

　などまめだちてよろづにのたまへど、いとたぐひなき御ありさまの、いよいようちとけきこえんことわびしければ、すくよかに心づきなしとは見みえたてまつるとも、さる方かたの言いふかひなきにて過すぐしてむ、と思おもひて、つれなくのみもてなしたり。

　人柄ひとがらのたをやぎるに、強つよつよき心をしひて加くはへたれば、なよ竹の心地ここちして、さすがにをるべくもあらず。まことに心やましくて、あながちなる御心ばへを言いふ方かたなしと思おもひて泣くさまなど、いとあはれなり。心ぐるしくはあれど、見みざらましかばくちをしからましとおぼす。慰なぐさめがたくうしと思おもへれば、

「などかくうとましきものにしもおぼすべき。おぼえなきさまなるしもこそ契ちぎりあるとは思おもひたまはめ。むげに世を思おもひ知しらぬやうにおぼされたまふなんいとつらき」

　とうらみられて、

「いとかくうき身のほどの定まらぬ、ありしながらの身にて、かかる御心ばへを見みましかば、あるまじきわが頼みにて、見みなほしたまふ後瀬のちせをも思おもひたまへ慰なぐさめましを、いとかう仮かりなる浮き寝のほどを思おもひはべるに、たぐひなく思うたまへまどはるるなり。よし、今は見みきとなかけそ」

　とて、思おもへるさまげにいとことわりなり。おろかならず契ちぎり慰なぐさめたまふこと多おほかるべし。鳥も鳴きぬ。人々起き出いでて、

「いといぎたなかりける夜よかな。御車引ひき出いでよ」

　など言いふなり。守かみも出いで来て、女などの、

「御方違たがかたたがえこそ。夜深く急がせたまふべきかは」

　など言いふもあり。君は、またかやうのついであらむこともいとかたく、さしはへてはいかでか、御文ふみなども通かよはんことのいとわりなきをおぼすに、いと胸むねいたし。奥おくの中将も出いでていと苦くるしがれば、ゆるしたまひても、また引ひきとどめたまひつつ、

「いかでか、聞きこゆべき。世に知しらぬ御心のつらさも、あはれも、浅からぬ夜よの思おもひ出いでは、さまざまめづらかなるべき例ためしかな」

　とて、うち泣きたまふ気色、いとなまめきたり。鳥もしばしば鳴くに、心あわたたしくて、

　　つれなきを恨みも果てぬしののめにとりあへぬまでおどろかすらむ

　女、身のありさまを思おもふに、いとつきなくまばゆき心地ここちして、めでたき御もてなしも、何ともおぼえず、常つねはいとすくすくしく心づきなしと思おもひあなづる伊予いよの方かたの思おもひやられて、夢にや見みゆらむとそらおそろしくつつまし。

　身の憂ううれうさを嘆くにあかで明あくる夜よはとり重ねてぞ音ねもなかれける

　ことと明あかくなれば、障子口さうじぐちまで送りたまふ。内うちも外とも人騒さわがしければ、引ひき立たてて、別れたまふほど、心細く隔へだつる関せきと見みえたり。

　御直衣なほしなど着たまひて、南の高欄かうらむにしばしうちながめたまふ。西面にしおもての格子かうしそそき上あげて、人びとのぞくべかめる。簀子すのこの中のほどに立たてたる小障子こさうじの上かみよりほのかに見みえたまへる御ありさまを、身に染しむばかり思おもへるすき心どもあめり。

　月は有明ありあけにて、光ひかりをさまれるものから、影かげけざやかに見みえて、なかなかをかしき曙あけぼのなり。何なに心なき空そらのけしきも、ただ見みる人から、艶えんにもすごくも見みゆるなりけり。人知しれぬ御心にはいと胸むねいたく、言い伝ことつてやらんよすがだになきを、と返かへり見みがちにて出いでたまひぬ。

　殿に帰かへりたまひても、とみにもまどろまれたまはず。また逢ひ見みるべき方かたなきを、まして、かの人の思おもふらむ心の中、いかならむと、心苦しく思おもひやりたまふ。すぐれたることはなけれど、めやすくもてつけてもありつる中の品しなかな。隈くまなく見み集みあつめたる人の言いひしことはげに、とおぼし合はせられけり。

　このほどは大おほ殿にのみおはします。なほいとかき絶たえて、思おもふらむことのいとほしく御心にかかりて、苦しくおぼしわびて、紀伊きの守かみを召めしたり。

「かの、ありし中納言いの子は得えさせてんや。らうたげに見みえしを、身近く使ふ人にせむ。上うへにも我たてまつらむ」とのたまへば、

「いとかしこき仰おほせ言ごとにはべるなり。姉あねなる人にのたまひみん」

　と申すも、胸むねつぶれておぼせど、

「その姉君は、朝臣あそむの弟おとうとや持もたる」

「さもはべらず。この二年ばかりぞかくてものしはべれど、親のおきてに違たがへりと思おもひ嘆きて、心ゆかぬやうになん聞ききたまふる」

「あはれのことや。よろしく聞きこえし人ぞかし。まことによしや」とのたまへば、

「けしうははべらざるべし。もて離はなれてうとうとしくはべれば、世のたとひにて睦むつびはべらず」と申す。

　さて、五六日ありて、この子率ゐて参まゐれり。こまやかにをかしとはなけれど、なまめきたるさましてあて人と見みえたり。召めし入れていとなつかしく語らひたまふ。童わらは心地ここちわらはここちにいとめでたくうれしと思おもふ。いもうとの君のことも詳くはくはしく問ひたまふ。さるべきことは答いらへ聞きこえなどして、恥はづかしげに静しづまりたれば、うち出いでにくし。されど、いとよく言いひ知しらせたまふ。かかることこそはと、ほの心得うるも思おもひのほかなれど、幼心地をさなごこちに深くしもたどらず。

　御文ふみを持て来たれば、女、あさましきに涙も出いで来きぬ。この子の思おもふらむこともはしたなくて、さすがに御文ふみを面隠おもがくしに広げたり。いと多おほくて、

　　見みし夢を逢ふ夜ありやと嘆くまに目さへ合はでぞころも経へにける

「寝ぬる夜なければ」

　など、目も及ばぬ御書きざまも、霧きり塞ふたがりて、心得えぬ宿世すくせうち添そへりける身を思おもひ続けて臥ふしたまへり。

　またの日、小君召めしたれば、参まゐるとて御返かへり乞こふ。

「かかる御文ふみ見みるべき人もなし、と聞きこえよ」

　とのたまへば、うち笑ゑみて、

「違たがふべくものたまはざりしものを。いかがさは申さむ」

　と言いふに、心やましく、残りなくのたまはせ、知しらせてけると思おもふに、つらきこと限かぎりなし。

「いで、およすげたることは言いはぬぞよき。さは、な参まゐりたまひそ」とむつかられて、

「召めすにはいかでか」とて参まゐりぬ。

　紀伊きの守かみ、すき心にこのまま母ははのありさまをあたらしきものに思おもひて追従ついそうしありけば、この子をもてかしづきて率ゐてありく。君、召めし寄よせて、

「昨日きのふ待ち暮らししを。なほあひ思おもふまじきなめり」

　と怨ゑんじたまへば、顔かほうち赤あかめてゐたり。

「いづら」とのたまふに、しかしかと申すに、

「言いふかひなのことや。あさまし」とて、またもたまへり。

「あこは知しらじな。その伊予いよの翁おきなよりは先さきに見みし人ぞ。されど頼もしげなく頚細くびほそしとて、ふつつかなる後見うしろみまうけて、かくあなづりたまふなめり。さりとも、あこはわが子にてをあれよ。この頼もし人は行ゆく先短さきみじかかりなむ」

　とのたまへば、さもやありけん、いみじかりけることかなと思おもへる、をかしとおぼす。この子をまつはしたまひて、内裏うちにも率ゐて参まゐりなどしたまふ。わが御匣殿みくしげどのにのたまひて、装束さうぞくなどもせさせ、まことに親おやめきてあつかひたまふ。

　御文ふみは常つねにあり。されど、この子もいと幼をさなし、心よりほかに散りもせば軽々かろがろしき名さへ取とり添そへん身のおぼえをいとつきなかるべく思おもへば、めでたきこともわが身からこそと思おもひて、うちとけたる御答いらへも聞きこえず。ほのかなりし御けはひありさまは、げになべてにやはと思おもひ出いできこえぬにはあらねど、をかしきさまを見みえたてまつりても、何にかはなるべき、など思おもひ返かへすなりけり。

　君はおぼしおこたる時の間もなく、心苦ぐるしくも恋こひしくもおぼし出いづ。思おもへりしけしきなどのいとほしさも、晴はるけん方かたなくおぼしわたる。軽々かろがろしくはひ紛まぎれ立たち寄よりたまはんも、人目しげからむ所に便びんなきふるまひやあらはれんと、人のためもいとほしくとおぼしわづらふ。

　例れいの、内裏うちに日数経ひかずへたまふころ、さるべき方かたの忌いみ待ち出いでたまふ。にはかにまかでたまふまねして、道みちのほどよりおはしましたり。紀伊きの守かみおどろきて、遣水やりみづやりみづの面目めいぼくとかしこまり喜ぶ。小君こぎみには、昼より、

「かくなむ思おもひ寄よれる」

　とのたまひ契ちぎれり。明け暮れまつはしならはしたまひければ、今宵こよひもまづ召めし出いでたり。女もさる御消息せうそこありけるに、おぼしたばかりつらむほどは、浅くしも思おもひなされねど、さりとてうちとけ人げなきありさまを見みえたてまつりても、あぢきなく夢のやうにて過すぎにし嘆きをまたや加くはへん、と思おもひ乱みだれて、なほさて待ちつけきこえさせんことのまばゆければ、小君こぎみが出いでて去いぬるほどに、

「いとけ近ければかたはらいたし。なやましければ、忍しのしのびてうちたたかせなどせむに、ほど離はなれてを」

　とて、渡殿わたどのに中将といひしが局つぼねしたる隠かくれに移うつろひぬ。

　さる心して、人とく静しづめて、御消息せうそこあれど、小君こぎみは尋たづね合あはず。よろづの所求め歩ありありきて、渡殿わたどのに分わけ入いりて、からうしてたどり来きたり。いとあさましくつらしと思おもひて、

「いかにかひなしとおぼさむ」

　と、泣きぬばかり言いへば、

「かくけしからぬ心ばへは使ふものか。幼をさなき人のかかること言いひ伝つたふるは、いみじく忌いむなるものを」と言いひおどして、

「『心地ここち悩ましければ、人々避さけずおさへさせてなむ』と聞きこえさせよ。あやしと誰たれも誰たれも見みるらむ」

　と言いひ放はなちて、心のうちには、いとかく品定しなさだまりぬる身のおぼえならで、過すぎにし親の御けはひとまれる古里ふるさとながら、たまさかにも待ちつけたてまつらば、をかしうもやあらまし。しひて思おもひ知しらぬ顔がほに見み消みけつも、いかにほど知しらぬやうにおぼすらむ、と心ながらも胸いたく、さすがに思おもひ乱みだる。とてもかくても、今は言いふかひなき宿世すくせなりければ、無心むしんに心づきなくてやみなむ、と思おもひ果はてたり。