原文

【原文】第10帖「賢木」(全文)

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 斎宮さいくうの御くだり近うなりゆくままに、御息所みやすんどころもの心細くおもほす。やむごとなくわづらはしきものにおぼえたまへりし大殿おほいとのの君も亡せたまひてのち、さりともとひとも聞こえあつかひ、宮のうちにも心ときめきせしを、そののちしもかき絶え、あさましき御もてなしを見たまふに、まことにしとおぼすことこそありけめ、と知り果てたまひぬれば、よろづのあはれをおぼし捨てて、ひたみちにで立ちたまふ。

 親添ひてくだりたまふ例も、ことになけれど、いと見放ちがたき御ありさまなるにことつけて、憂き世をき離れむとおぼすに、大将たいしやうの君、さすがに、今はとかけ離れたまひなむも、くちしくおぼされて、御消息せうそこばかりはあはれなるさまにてたびたび通ふ。たいしたまはむことをば、今さらにあるまじきことと女君もおぼす。人は心づきなしと、おもひ置きたまふこともあらむに、我は、今すこしおもひ乱るることのまさるべきを、あいなし、と心強くおぼすなるべし。

 もとの殿には、あからさまに渡りたまふ折々あれど、いたう忍びたまへば、大将たいしやう殿え知りたまはず。たはやすく御心にまかせて、うでたまふべき御住処にはたあらねば、おぼつかなくて月日も隔たりぬるに、院の上、おどろおどろしき御悩みにはあらで、例ならず、時々悩ませたまへば、いとど御心のいとまなけれど、つらき者におもひ果てたまひなむも、いとほしく、人聞き情けなくや、とおぼし起して、野の宮にうでたまふ。九月七日ばかりなれば、むげに今日けふ明日、とおぼすに、女方も心あわたたしけれど、立ちながら、とたびたび御消息せうそこありければ、いでや、とはおぼしわづらひながら、いとあまり埋もれいたきを、物越ばかりのたいは、と人知れず待ちきこえたまひけり。

 はるけき野辺を分け入りたまふより、いとものあはれなり。秋の花、みな衰へつつ、あさが原も枯れ枯れなる虫の音に、松風すごく吹きあはせて、そのこととも聞き分かれぬほどに、物の音ども絶え絶え聞こえたる、いとえんなり。むつましき御前、十余人ばかり、御随身ずいじんことことしき姿ならで、いたう忍びたまへれど、ことにひきつくろひたまへる御用意、いとめでたく見えたまへば、御供なる好き者ども、所からさへ身にしみて思へり。御心にも、などて今まで立ちならさざりつらむと、過ぎぬる方悔しうおぼさる。

 ものはかなげなる小柴垣を大垣にて、板屋どもあたりあたりいとかりそめなり。黒木の鳥居ども、さすがに神々かうがうしう見わたされて、わづらはしきけしきなるに、神司かむづかさの者ども、ここかしこにうちしはぶきて、おのがどち、物うち言ひたるけはひなども、他にはさま変はりて見ゆ。たきかすかに光りて、ひとすくなく、しめじめとして、ここにものおもはしき人の、月日を隔てたまへらむほどをおぼしやるに、いといみじうあはれに心苦し。

 北のたいのさるべき所に立ち隠れたまひて、御消息せうそこ聞こえたまふに、遊びはみなやめて、心にくきけはひ、あまた聞こゆ。何くれの人づての御消息せうそこばかりにて、みづからはたいしたまふべきさまにもあらねば、いとものしとおぼして、

「かうやうのありきも、今はつきなきほどになりにてはべるを、おもほし知らば、かう注連しめのほかにはもてなしたまはで。いぶせうはべることをも、あきらめはべりにしがな」

 と、まめやかに聞こえたまへば、人々、

「げに、いとかたはらいたう。立ちわづらはせたまふに、いとほしう」

 など、あつかひきこゆれば、いさや、ここの人目も見苦しう、かのおぼさむことも、若々しう、でゐむが、今さらにつつましきこと、とおぼすに、いともの憂けれど、情けなうもてなさむにもたけからねば、とかくうち嘆き、やすらひて、ゐざりでたまへる御けはひ、いと心にくし。

「こなたは、簀子すのこばかりの許されははべりや」

 とて、上りゐたまへり。はなやかにさしでたる夕月ゆふづくに、うち振る舞ひたまへるさま、匂ひに、似るものなくめでたし。月ごろのつもりを、つきづきしう聞こえたまはむも、まばゆきほどになりにければ、さかきをいささか折りて持たまへりけるを、挿し入れて、

「変らぬ色をしるべにてこそ、がきも越えはべりにけれ。さも心憂く」

 と聞こえたまへば、

「神垣はしるしの杉もなきものをいかにまがへて折れるさかきぞ」

 と聞こえたまへば、

「少女子があたりと思へばさかき葉の香をなつかしみとめてこそ折れ」

 おほかたのけはひわづらはしけれど、御簾みすばかりはひき着て、長押なげしにおしかかりてゐたまへり。

 心にまかせて見たてまつりつべく、人も慕ひざまにおぼしたりつる年月としつきは、のどかなりつる御心おごりに、さしもおぼされざりき。また、心のうちに、いかにぞや、きずありて、おもひきこえたまひにしのち、はた、あはれもさめつつ、かく御仲も隔たりぬるを、めづらしき御たいの昔おぼえたるに、あはれとおぼし乱るること限りなし。来し方、行く先、おぼし続けられて、心弱く泣きたまひぬ。

 女は、さしも見えじとおぼしつつむめれど、え忍びたまはぬ御けしきを、いよいよ心苦しう、なほおぼしとまるべきさまにぞ、聞こえたまふめる。月も入りぬるにや、あはれなる空を眺めつつ、怨みきこえたまふに、ここらおもひ集めたまへるつらさも消えぬべし。やうやう、今はと、おもひ離れたまへるに、さればよとなかなか心動きて、おぼし乱る。殿上てんじやうの若君達などうち連れて、とかく立ちわづらふなる庭のたたずまひも、げにえんなるかたに、うけばりたるありさまなり。おもほし残すことなき御仲らひに、聞こえ交はしたまふことども、まねびやらむかたなし。

 やうやう明けゆく空のけしき、ことさらに作りでたらむやうなり。

「暁の別れはいつも露けきをこは世に知らぬ秋の空かな」

 でがてに、御手をとらへてやすらひたまへる、いみじうなつかし。風、いと冷やかに吹きて、松虫の鳴きからしたる声も、折知り顔なるを、さしておもふことなきだに、聞き過ぐしがたげなるに、まして、わりなき御心惑ひどもに、なかなか、こともゆかぬにや。

「おほかたの秋の別れも悲しきに鳴く音な添へそ野辺の松虫」

 悔しきこと多かれど、かひなければ、明け行く空もはしたなうて、でたまふ。道のほどいと露けし。女もえ心強からず、名残あはれにて眺めたまふ。ほの見たてまつりたまへる月影の御容貌かたち、なほとまれる匂ひなど、若き人々は身にしめて、あやまちもしつべく、めできこゆ。

「いかばかりの道にてか、かかる御ありさまを見捨てては、別れきこえむ」

 と、あいなく涙ぐみあへり。

 御文、常よりもこまやかなるは、おぼしなびくばかりなれど、またうち返し、定めかねたまふべきことならねば、いとかひなし。男は、さしもおぼさぬことをだに、情けのためにはよく言ひ続けたまふべかめれば、まして、おしなべての列にはおもひきこえたまはざりし御仲の、かくてそむきたまひなむとするを、くちしうもいとほしうも、おぼし悩むべし。旅の御装束さうぞくよりはじめ、人々のまで、何くれの御調でうなど、いかめしうめづらしきさまにて、とぶらひきこえたまへど、何ともおぼされず。あはあはしう心憂き名をのみ流して、あさましき身のありさまを、今はじめたらむやうに、ほど近くなるままに、起き臥し嘆きたまふ。斎宮さいくうは、若き御心地に、不定なりつる御で立ちの、かく定まりゆくを、うれし、とのみおぼしたり。ひとは、例なきことと、もどきもあはれがりも、さまざまに聞こゆべし。何ごとも、人にもどきあつかはれぬきははやすげなり。なかなか世に抜けでぬる人の御あたりは、所狭きこと多くなむ。

 十六日、桂川かつらがはにて御はらへしたまふ。常の儀式にまさりて、長奉送使ちやうぶそうしなど、さらぬ上達部かむだちめも、やむごとなく、おぼえあるを選らせたまへり。院の御心寄せもあればなるべし。でたまふほどに、大将たいしやう殿より例の尽きせぬことども聞こえたまへり。

「かけまくもかしこき御前にて」

 とて、木綿につけて、

「鳴る神だにこそ、八洲やしまもる国つ御神も心あらば飽かぬ別れの仲をことわれ。おもうたまふるに、飽かぬ心地しはべるかな」

 とあり。いとさわがしきほどなれど、御返りあり。宮の御をば、女別当べたうしてふみかせたまへり。

「国つ神空にことわる仲ならばなほざりごとをまづや糾さむ」

 大将たいしやうは、御ありさまゆかしうて、内裏うちにもまゐらまほしくおぼせど、うち捨てられて見送らむも、人悪ろき心地したまへば、おぼしとまりて、つれづれに眺めゐたまへり。宮の御返りのおとなおとなしきを、ほほみて見ゐたまへり。御年のほどよりは、をかしうもおはすべきかなと、ただならず。かうやうに例にたがへるわづらはしさに、かならず心かかる御くせにて、いとよう見たてまつりつべかりしいはけなき御ほどを、見ずなりぬるこそねたけれ。世の中定めなければ、たいするやうもありなむかし、などおぼす。

 心にくくよしある御けはひなれば、物見車多かる日なり。まうの時に内裏うちまゐりたまふ。御息所みやすんどころ、御輿こしに乗りたまへるにつけても、父大臣おとどの限りなき筋におぼし志して、いつきたてまつりたまひしありさま、変はりて、末の世に内裏うちを見たまふにも、もののみ尽きせず、あはれにおぼさる。十六にて故宮こみやまゐりたまひて、二十にてのちれたてまつりたまふ。三十にてぞ、今日けふまた九重ここのへを見たまひける。

「そのかみを今日けふはかけじと忍ぶれど心のうちにものぞ悲しき」

 斎宮さいくうは、十四にぞなりたまひける。いとうつくしうおはするさまを、うるはしうしたてたてまつりたまへるぞ、いとゆゆしきまで見えたまふを、帝、御心動きて、別れのくしたてまつりたまふほど、いとあはれにて、しほたれさせたまひぬ。

 でたまふを待ちたてまつるとて、八省はつしやうに立て続けたる車どもの袖口、色あひも、目馴れぬさまに、心にくきけしきなれば、殿上てんじやう人どもも、私の別れ惜しむ多かり。暗うでたまひて、二条より洞院とうゐんの大路を折れたまふほど、二条の院の前なれば、大将たいしやうの君、いとあはれにおぼされて、さかきにさして、

「振り捨てて今日けふは行くとも鈴鹿川八十瀬やそせの波に袖は濡れじや」

 と聞こえたまへれど、いと暗う、ものさわがしきほどなれば、またの日、関のあなたよりぞ、御返しある。

「鈴鹿川八十瀬やそせの波に濡れ濡れず伊勢まで誰れかおもひおこせむ」

 ことそぎてふみきたまへるしも、御手いとよしよししくなまめきたるに、あはれなるけをすこし添へたまへらましかば、とおぼす。霧いたう降りて、ただならぬ朝ぼらけに、うち眺めて独りごちおはす。

「行く方を眺めもやらむこの秋は逢坂あふさか山を霧な隔てそ」

 西のたいにも渡りたまはで、人やりならず、もの寂しげに眺め暮らしたまふ。まして、旅の空は、いかに御心尽くしなること多かりけむ。

 院の御悩み、神無月かむなづきになりては、いと重くおはします。世の中に惜しみきこえぬ人なし。内裏うちにも、おぼし嘆きてさいはぎやうがうあり。弱き御心地にも、春宮とうぐうの御事を、返す返す聞こえさせたまひて、次には大将たいしやうの御こと、

「はべりつる世に変はらず、大小のことを隔てず、何ごとも御のち見とおぼせ。齢のほどよりは、世をまつりごたむにも、をさをさはばかりあるまじうなむ、見たまふる。かならず世の中たもつべき相ある人なり。さるによりて、わづらはしさに、親王みこにもなさず、ただ人にて、朝廷の御のち見をせさせむと、おもひたまへしなり。その心たがへさせたまふな」

 と、あはれなる御遺言ゆいごんども多かりけれど、女のまねぶべきことにしあらねば、この片端だにかたはらいたし。帝もいと悲しとおぼして、さらにたがへきこえさすまじきよしを、返す返す聞こえさせたまふ。御容貌かたちも、いときよらにねびまさらせたまへるを、うれしく頼もしく見たてまつらせたまふ。限りあれば、急ぎ帰らせたまふにも、なかなかなること多くなむ。

 春宮とうぐうも、一度にとおぼし召しけれど、ものさわがしきにより、日を変へて、渡らせたまへり。御年のほどよりは、大人びうつくしき御さまにて、恋しとおもひきこえさせたまひけるつもりに、何心もなくうれしとおぼし、見たてまつりたまふ御けしき、いとあはれなり。中宮は、涙に沈みたまへるを、見たてまつらせたまふも、さまざま御心乱れておぼし召さる。よろづのことを聞こえ知らせたまへど、いとものはかなき御ほどなれば、うしろめたく悲しと見たてまつらせたまふ。大将たいしやうにも、朝廷に仕うまつりたまふべき御心づかひ、この宮の御のち見したまふべきことを、返す返すのたまはす。夜更けてぞ帰らせたまふ。残る人なく仕うまつりてののしるさま、さいはぎやうがうに劣るけぢめなし。飽かぬほどにて帰らせたまふを、いみじうおぼし召す。

 大后おほきさきも、まゐりたまはむとするを、中宮のかく添ひおはするに、御心置かれて、おぼしやすらふほどに、おどろおどろしきさまにもおはしまさで、隠れさせたまひぬ。足を空に、おもひ惑ふ人多かり。御位を去らせたまふといふばかりにこそあれ、世のまつりごとをしづめさせたまへることも、我が御世の同じことにておはしまいつるを、帝はいと若うおはします、祖父おほぢ大臣おとど、いと急にさがなくおはして、その御ままになりなむ世を、いかならむと、上達部かむだちめ殿上てんじやう人、皆おもひ嘆く。

 中宮、大将たいしやう殿などは、ましてすぐれて、ものもおぼしわかれず、のち々の御わざなど、孝じ仕うまつりたまふさまも、そこらの親王みこたちの御中にすぐれたまへるを、ことわりながら、いとあはれに、ひとも見たてまつる。藤の御衣にやつれたまへるにつけても、限りなくきよらに心苦しげなり。去年、今年とうち続き、かかることを見たまふに、世もいとあぢきなうおぼさるれど、かかるついでにも、まづおぼし立たるることはあれど、また、さまざまの御ほだし多かり。

 御四十九日までは、女御、御息所みやすんどころたち、みな、院に集ひたまへりつるを、過ぎぬれば、散り散りにまかでたまふ。師走の二十日なれば、おほかたの世の中とぢむる空のけしきにつけても、まして晴るる世なき、中宮の御心のうちなり。大后おほきさきの御心も知りたまへれば、心にまかせたまへらむ世の、はしたなく住み憂からむをおぼすよりも、馴れきこえたまへる年ごろの御ありさまを、おもできこえたまはぬ時の間なきに、かくてもおはしますまじう、みな他々へとでたまふほどに、悲しきこと限りなし。

 宮は、三条の宮に渡りたまふ。御迎へに兵部卿ひやうぶきやうまゐりたまへり。雪うち散り、風はげしうて、院の内、やうやう人目かれゆきて、しめやかなるに、大将たいしやう殿、こなたにまゐりたまひて、古き御物語聞こえたまふ。御前の五葉の雪にしをれて、下葉枯れたるを見たまひて、親王みこ

「蔭ひろみ頼みし松や枯れにけむ下葉散りゆく年の暮かな」

 何ばかりのことにもあらぬに、折から、ものあはれにて、大将たいしやうの御袖、いたう濡れぬ。池の隙なう氷れるに、

「さえわたる池の鏡のさやけきに見なれし影を見ぬぞ悲しき」

 と、おぼすままに、あまり若々しうぞあるや。王命婦みやうぶ

「年暮れて岩井の水もこほりとぢ見し人影のあせもゆくかな」

 そのついでに、いと多かれど、さのみふみき続くべきことかは。渡らせたまふ儀式、変はらねど、おもひなしにあはれにて、旧き宮は、かへりて旅心地したまふにも、御里住み絶えたる年月としつきのほど、おぼしめぐらさるべし。

 年かへりぬれど、世の中今めかしきことなく静かなり。まして大将たいしやう殿は、もの憂くて籠もりゐたまへり。除目のころなど、院の御時をばさらにもいはず、年ごろ劣るけぢめなくて、御門のわたり、所なく立ち込みたりし馬、車うすらぎて、宿直とのゐ物の袋をさをさ見えず、親しき家司どもばかり、ことに急ぐことなげにてあるを見たまふにも、今よりは、かくこそはとおもひやられて、ものすさまじくなむ。

 御匣殿みくしげどのは、二月に、尚侍ないしのかみになりたまひぬ。院の御おもひにやがて尼になりたまへる、替はりなりけり。やむごとなくもてなし、人がらもいとよくおはすれば、あまたまゐり集りたまふなかにも、すぐれて時めきたまふ。后は、里がちにおはしまいて、まゐりたまふ時の御つぼねには梅壺むめつぼをしたれば、弘徽こき殿でんには尚侍ないしのかみの君住みたまふ。登花とうくわ殿でんの埋れたりつるに、晴れ晴れしうなりて、女房なども数知らず集ひまゐりて、今めかしう花やぎたまへど、御心のうちは、おもひのほかなりしことどもを忘れがたく嘆きたまふ。いと忍びて通はしたまふことは、なほ同じさまなるべし。ものの聞こえもあらばいかならむとおぼしながら、例の御くせなれば、今しも御心ざしまさるべかめり。

 院のおはしましつる世こそはばかりたまひつれ、后の御心いちはやくて、かたがたおぼしつめたることどものむくいせむ、とおぼすべかめり。ことにふれて、はしたなきことのみで来れば、かかるべきこととはおぼししかど、見知りたまはぬ世の憂さに、立ちまふべくもおぼされず。

 左の大殿おほいとのも、すさまじき心地したまひて、ことに内裏うちにもまゐりたまはず。故姫君を、引きよきて、この大将たいしやうの君に聞こえつけたまひし御心を、后はおぼしおきて、よろしうもおもひきこえたまはず。大臣おとどの御仲も、もとよりそばそばしうおはするに、故院の御世にはわがままにおはせしを、時移りて、したり顔におはするを、あぢきなしとおぼしたる、ことわりなり。

 大将たいしやうは、ありしに変はらず渡り通ひたまひて、さぶらひし人々をも、なかなかにこまかにおぼしおきて、若君をかしづきおもひきこえたまへること、限りなければ、あはれにありがたき御心と、いとどいたつききこえたまふことども、同じさまなり。限りなき御おぼえの、あまりもの騒がしきまで、いとまなげに見えたまひしを、通ひたまひし所々も、かたがたに絶えたまふことどもあり、軽々しき御忍びありきも、あいなうおぼしなりて、ことにしたまはねば、いとのどやかに、今しもあらまほしき御ありさまなり。

 西のたいの姫君の御さいはひを、ひともめできこゆ。少納言なども、人知れず、故尼上の御祈りのしるしと見たてまつる。父親王みこおもふさまに聞こえ交はしたまふ。嫡腹むかひばらの、限りなくとおぼすは、はかばかしうもえあらぬに、ねたげなること多くて、継母ままははの北の方は、やすからずおぼすべし。物語にことさらに作りでたるやうなる御ありさまなり。

 斎院は、御服にてくだりゐたまひにしかば、朝顔の姫君は、替はりにゐたまひにき。賀茂のいつきには、孫王そんわうのゐたまふ例、多くもあらざりけれど、さるべき女御子みこやおはせざりけむ。大将たいしやうの君、年月としつき経れど、なほ御心離れたまはざりつるを、かう筋ことになりたまひぬれば、くちしくとおぼす。中将におとづれたまふことも、同じことにて、御文などは絶えざるべし。昔に変はる御ありさまなどをば、ことに何ともおぼしたらず、かやうのはかなしごとどもを、まぎるることなきままに、こなたかなたとおぼし悩めり。

 帝は院の御遺言ゆいごんたがへず、あはれにおぼしたれど、若うおはしますうちにも、御心なよびたるかたに過ぎて、強きところおはしまさぬなるべし、母后、祖父おほぢ大臣おとどとりどりしたまふことは、えそむかせたまはず、世のまつりごと、御心にかなはぬやうなり。

 わづらはしさのみまされど、尚侍ないしのかみの君は、人知れぬ御心し通へば、わりなくてと、おぼつかなくはあらず。だん御修みずほふの初めにて、慎しみおはします隙をうかがひて、例の、夢のやうに聞こえたまふ。かの、昔おぼえたる細殿ほそどのつぼねに、中納言の君、まぎらはして入れたてまつる。人目もしげきころなれば、常よりも端近はしぢかなる、そら恐ろしうおぼゆ。

 朝夕あさゆふに見たてまつる人だに、飽かぬ御さまなれば、まして、めづらしきほどにのみある御たいの、いかでかはおろかならむ。女の御さまも、げにぞめでたき御盛りなる。重りかなるかたは、いかがあらむ、をかしうなまめき若びたる心地して、見まほしき御けはひなり。

 ほどなく明け行くにや、とおぼゆるに、ただここにしも、

宿直とのゐまうし、さぶらふ」

 と、声づくるなり。また、このわたりに隠ろへたる近衛司このゑづかさぞあるべき、腹ぎたなきかたへの教へおこするぞかし、と、大将たいしやうは聞きたまふ。をかしきものから、わづらはし。ここかしこ尋ねありきて、

とら一つ」

 とまうすなり。女君、

「心からかたがた袖を濡らすかな明くと教ふる声につけても」

 とのたまふさま、はかなだちて、いとをかし。

「嘆きつつわが世はかくて過ぐせとや胸のあくべき時ぞともなく」

 静心なくて、でたまひぬ。夜深き暁月夜あかつきづくよの、えもいはず霧りわたれるに、いといたうやつれて、振る舞ひなしたまへるしも、似るものなき御ありさまにて、承香殿しようきやうでんの御せうと藤少将とうせうしやう藤壺ふぢつぼよりでて、月の少し隈ある立蔀たてじとみのもとに立てりけるを、知らで過ぎたまひけむこそいとほしけれ。もどききこゆるやうもありなむかし。

 かやうのことにつけても、もて離れつれなき人の御心を、かつはめでたしとおもひきこえたまふものから、わが心の引くかたにては、なほつらう心し、とおぼえたまふ折多かり。内裏うちまゐりたまはむことは、うひうひしく、所狭くおぼしなりて、春宮とうぐうを見たてまつりたまはぬを、おぼつかなくおもほえたまふ。また、頼もしき人もものしたまはねば、ただこの大将たいしやうの君をぞ、よろづに頼みきこえたまへるに、なほ、この憎き御心のやまぬに、ともすれば御胸をつぶしたまひつつ、いささかもけしきを御覧じ知らずなりにしをおもふだに、いと恐ろしきに、今さらにまた、さる事の聞こえありて、わが身はさるものにて、春宮とうぐうの御ためにかならずよからぬことで来なむ、とおぼすに、いと恐ろしければ、御祈りをさへせさせて、このことおもひやませたてまつらむと、おぼしいたらぬことなく逃れたまふを、いかなる折にかありけむ、あさましうて、近づきまゐりたまへり。心深くたばかりたまひけむことを、知る人なかりければ、夢のやうにぞありける。

 まねぶべきやうなく聞こえ続けたまへど、宮、いとこよなくもて離れきこえたまひて、果て果ては、御胸をいたう悩みたまへば、近うさぶらひつる命婦みやうぶ、弁などぞ、あさましう見たてまつりあつかふ。男は、し、つらし、とおもひきこえたまふこと、限りなきに、来し方行く先、かきくらす心地して、うつし心失せにければ、明け果てにけれど、でたまはずなりぬ。

 御悩みにおどろきて、人々近うまゐりて、しげうまがへば、我にもあらで、塗籠ぬりごめに押し入れられておはす。御衣ども隠し持たる人の心地ども、いとむつかし。宮は、ものをいとわびし、とおぼしけるに、御気上がりて、なほ悩ましうせさせたまふ。兵部卿ひやうぶきやう宮、大夫などまゐりて、

「僧召せ」

 など騒ぐを、大将たいしやう、いとわびしう聞きおはす。からうして、暮れゆくほどにぞおこたりたまへる。

 かく籠もりゐたまへらむとはおぼしもかけず、人々も、また御心惑はさじとて、かくなむともまうさぬなるべし。昼の御座にゐざりでておはします。よろしうおぼさるるなめりとて、宮もまかでたまひなどして、御前人少なになりぬ。例もけ近くならさせたまふ人少なければ、ここかしこの物のうしろなどにぞさぶらふ。命婦みやうぶの君などは、

「いかにたばかりて、だしたてまつらむ。今宵こよひさへ、御気上がらせたまはむ、いとほしう」

 など、うちささめき扱ふ。君は、塗籠ぬりごめの戸の細めに開きたるを、やをらおし開けて、御屏風のはさまに伝ひ入りたまひぬ。めづらしくうれしきにも、涙落ちて見たてまつりたまふ。

「なほ、いと苦しうこそあれ。世や尽きぬらむ」

 とて、外の方を見だしたまへるかたはら目、言ひ知らずなまめかしう見ゆ。御くだものをだに、とてまゐり据ゑたり。箱の蓋などにも、なつかしきさまにてあれど、見入れたまはず。世の中をいたうおぼし悩めるけしきにて、のどかに眺め入りたまへる、いみじうらうたげなり。髪ざし、頭つき、御髪のかかりたるさま、限りなき匂はしさなど、ただ、かのたいの姫君にたがふところなし。年ごろ、すこしおもひ忘れたまへりつるを、あさましきまでおぼえたまへるかな、と見たまふままに、すこしものおもひのはるけどころある心地したまふ。

 気高う恥づかしげなるさまなども、さらに異人ともおもひ分きがたきを、なほ、限りなく昔よりおもひしめきこえてし心のおもひなしにや、さまことに、いみじうねびまさりたまひにけるかなと、たぐひなくおぼえたまふに、心惑ひして、やをら御帳みちやうのうちにかかづらひ入りて、御衣の褄を引きならしたまふ。けはひしるく、さと匂ひたるに、あさましうむくつけうおぼされて、やがてひれ伏したまへり。「見だに向きたまへかし」と心やましうつらうて、引き寄せたまへるに、御衣をすべし置きて、ゐざりのきたまふに、心にもあらず、御髪の取り添へられたりければ、いと心憂く、宿世のほど、おぼし知られて、いみじ、とおぼしたり。

 男も、ここら世をもてしづめたまふ御心、みな乱れて、うつしざまにもあらず、よろづのことを泣く泣く怨みきこえたまへど、まことに心づきなし、とおぼして、いらへも聞こえたまはず。ただ、

「心地の、いと悩ましきを。かからぬ折もあらば、聞こえてむ」

 とのたまへど、尽きせぬ御心のほどを言ひ続けたまふ。さすがに、いみじと聞きたまふふしもまじるらむ。あらざりしことにはあらねど、改めて、いとくちしうおぼさるれば、なつかしきものから、いとようのたまひ逃れて、今宵こよひも明け行く。

 せめて従ひきこえざらむもかたじけなく、心恥づかしき御けはひなれば、

「ただ、かばかりにても、時々、いみじき愁へをだに、はるけはべりぬべくは、何のおほけなき心もはべらじ」

 など、たゆめきこえたまふべし。なのめなることだに、かやうなる仲らひは、あはれなることも添ふなるを、まして、たぐひなげなり。

 明け果つれば、二人して、いみじきことどもを聞こえ、宮は、半ばは亡きやうなる御けしきの心苦しければ、

「世の中にありと聞こし召されむも、いと恥づかしければ、やがて亡せはべりなむも、また、この世ならぬ罪となりはべりぬべきこと」

 など聞こえたまふも、むくつけきまでおぼし入れり。

「逢ふことのかたきを今日けふに限らずは今幾世をか嘆きつつ経む。御ほだしにもこそ」

 と聞こえたまへば、さすがに、うち嘆きたまひて、

「長き世の恨みを人に残してもかつは心をあだと知らなむ」

 はかなく言ひなさせたまへるさまの、言ふよしなき心地すれど、人のおぼさむところも、わが御ためも苦しければ、我にもあらで、でたまひぬ。

 いづこをにてかは、またも見えたてまつらむ、いとほしとおぼし知るばかり、とおぼして、御文も聞こえたまはず。うち絶えて、内裏うち春宮とうぐうにもまゐりたまはず、籠もりおはして、起き臥し、いみじかりける人の御心かなと、人悪ろく恋しう悲しきに、心魂も失せにけるにや、悩ましうさへおぼさる。もの心細く、なぞや、世に経れば憂さこそまされと、おぼし立つには、この女君のいとらうたげにて、あはれにうち頼みきこえたまへるを、振り捨てむこと、いとかたし。宮もその名残、例にもおはしまさず。かうことさらめきて籠もりゐ、おとづれたまはぬを、命婦みやうぶなどはいとほしがりきこゆ。宮も、春宮とうぐうの御ためをおぼすには、御心置きたまはむこと、いとほしく、世をあぢきなきものにおもひなりたまはば、ひたみちにおぼし立つこともや、とさすがに苦しうおぼさるべし。

 かかること絶えずは、いとどしき世に、憂き名さへ漏りでなむ。大后おほきさきの、あるまじきことにのたまふなる位をも去りなむ、とやうやうおぼしなる。院のおぼしのたまはせしさまの、なのめならざりしをおぼづるにも、よろづのこと、ありしにもあらず、変はりゆく世にこそあめれ。戚夫人せきふじんの見けむ目のやうにはあらずとも、かならず、人へなることは、ありぬべき身にこそあめれ、など、世の疎ましく、過ぐしがたうおぼさるれば、そむきなむことをおぼし取るに、春宮とうぐう、見たてまつらで変はりせむこと、あはれにおぼさるれば、忍びやかにてまゐりたまへり。大将たいしやうの君は、さらぬことだに、おぼし寄らぬことなく仕うまつりたまふを、御心地悩ましきにことつけて、御送りにもまゐりたまはず。おほかたの御とぶらひは、同じやうなれど、むげに、おぼし屈しにける、心知るどちは、いとほしがりきこゆ。

 宮は、いみじううつくしうおとなびたまひて、めづらしううれしとおぼして、むつれきこえたまふを、かなしと見たてまつりたまふにも、おぼし立つ筋はいとかたけれど、内裏うちわたりを見たまふにつけても、世のありさま、あはれにはかなく、移り変はることのみ多かり。大后おほきさきの御心もいとわづらはしくて、かくで入りたまふにも、はしたなく、事に触れて苦しければ、宮の御ためにも危ふくゆゆしう、よろづにつけておもほし乱れて、

「御覧ぜで、久しからむほどに、容貌かたちの異ざまにてうたてげに変はりてはべらば、いかがおぼさるべき」

 と聞こえたまへば、御顔うちまもりたまひて、

「式部がやうにや。いかでか、さはなりたまはむ」

 と、みてのたまふ。いふかひなくあはれにて、

「それは、老いてはべれば醜きぞ。さはあらで、髪はそれよりも短くて、黒き衣などを着て、夜居よゐの僧のやうになりはべらむとすれば、見たてまつらむことも、いとど久しかるべきぞ」

 とて泣きたまへば、まめだちて、

「久しうおはせぬは、恋しきものを」

 とて、涙の落つれば、恥づかしとおぼして、さすがにそむきたまへる、御髪はゆらゆらときよらにて、まみのなつかしげに匂ひたまへるさま、おとなびたまふままに、ただかの御顔を脱ぎすべたまへり。御歯のすこし朽ちて、口の内黒みて、みたまへる薫りうつくしきは、女にて見たてまつらまほしうきよらなり。いと、かうしもおぼえたまへるこそ、心憂けれと、玉の瑕におぼさるるも、世のわづらはしさの、空恐ろしうおぼえたまふなりけり。

大将たいしやうの君は、宮をいと恋しうおもひきこえたまへど、「あさましき御心のほどを、時々は、おもひ知るさまにも見せたてまつらむ」と、念じつつ過ぐしたまふに、人悪ろく、つれづれにおぼさるれば、秋の野も見たまひがてら、雲林院うりんゐんに詣でたまへり。故母御息所みやすんどころの御せうと律師りしの籠もりたまへる坊にて、法文ほふもんなど読み、行なひせむとおぼして、二、三日おはするに、あはれなること多かり。

 紅葉もみぢやうやう色づきわたりて、秋の野のいとなまめきたるなど見たまひて、故里も忘れぬべくおぼさる。法師ばらの、ざえある限り召しでて、論議せさせて聞こしめさせたまふ。所からに、いとど世の中の常なさをおぼし明かしても、なほ、憂き人しもぞと、おぼでらるるおし明け方の月影に、法師ばらの閼伽あかたてまつるとて、からからと鳴らしつつ、菊の花、濃き薄き紅葉もみぢなど、折り散らしたるも、はかなげなれど、

「このかたのいとなみは、この世もつれづれならず、のちの世はた、頼もしげなり。さも、あぢきなき身をもて悩むかな」

 など、おぼし続けたまふ。律師りしの、いと尊き声にて、

念仏ねんぶつ衆生しゆじやう摂取せつしゆ不捨ふしや

 と、うちのべて行なひたまへるは、いとうらやましければ、なぞやとおぼしなるに、まづ、姫君の心にかかりておもでられたまふぞ、いと悪ろき心なるや。

 例ならぬ日数も、おぼつかなくのみおぼさるれば、御文ばかりぞ、しげう聞こえたまふめる。

き離れぬべしやと、試みはべる道なれど、つれづれも慰めがたう、心細さまさりてなむ。聞きさしたることありて、やすらひはべるほど、いかに」

 など、陸奥紙みちのくにがみにうちとけふみきたまへるさへぞ、めでたき。

あさ生の露のやどりに君をおきて四方の嵐ぞ静心なき」

 など、こまやかなるに、女君もうち泣きたまひぬ。御返し、白き色紙に、

「風吹けばまづぞ乱るる色変はるあさが露にかかるささがに」

 とのみありて、

「御手はいとをかしうのみなりまさるものかな」

 と独りごちて、うつくしとほほみたまふ。常にふみき交はしたまへば、わが御手にいとよく似て、今すこしなまめかしう、女しきところふみき添へたまへり。何ごとにつけても、けしうはあらず生ほし立てたりかし、とおもほす。

 吹き交ふ風も近きほどにて、斎院にも聞こえたまひけり。中将の君に、

「かく、旅の空になむ、ものおもひにあくがれにけるを、おぼし知るにもあらじかし」

 など、怨みたまひて、御前には、

「かけまくはかしこけれどもそのかみの秋おもほゆる木綿欅ゆふだすきかな。昔を今に、とおもひたまふるもかひなく、とり返されむもののやうに」

 と、なれなれしげに、唐の浅緑の紙に、さかきに木綿つけなど、神々かうがうしうしなしてまゐらせたまふ。御返り、中将、

まぎるることなくて、来し方のことをおもひたまへづるつれづれのままには、おもひやりきこえさすること多くはべれど、かひなくのみなむ」

 と、すこし心とどめて多かり。御前のは、木綿の片端に、

「そのかみやいかがはありし木綿欅ゆふだすき心にかけてしのぶらむゆゑ、近き世に」

 とぞある。御手こまやかにはあらねど、らうらうじう、草などをかしうなりにけり。まして、朝顔もねびまさりたまへらむかし、とおもほゆるも、ただならず、恐ろしや。あはれ、このころぞかし。野の宮のあはれなりしこととおぼでて、あやしう、やうのものと、神恨めしうおぼさるる御くせの、見苦しきぞかし。わりなうおぼさば、さもありぬべかりし年ごろは、のどかに過ぐいたまひて、今は悔しうおぼさるべかめるも、あやしき御心なりや。院も、かくなべてならぬ御心ばへを見知りきこえたまへれば、たまさかなる御返りなどは、えしももて離れきこえたまふまじかめり。すこしあいなきことなりかし。

 六十巻といふふみ、読みたまひ、おぼつかなきところどころ解かせなどしておはしますを、山寺には、いみじき光行なひだしたてまつれりと、仏の御目ありと、あやしの法師ばらまでよろこびあへり。しめやかにて、世の中をおもほしつづくるに、帰らむことももの憂かりぬべけれど、人一人の御ことおぼしやるがほだしなれば、久しうもえおはしまさで、寺にも御誦経ずきやういかめしうせさせたまふ。あるべき限り、上下の僧ども、そのわたりの山賤やまがつまで物び、尊きことの限りを尽くしてでたまふ。見たてまつり送るとて、このもかのもに、あやしきしはふるひどもも集りてゐて、涙を落としつつ見たてまつる。黒き御車のうちにて、藤の御たもとにやつれたまへれば、ことに見えたまはねど、ほのかなる御ありさまを、世になくおもひきこゆべかめり。

 女君は、日ごろのほどに、ねびまさりたまへる心地して、いといたうしづまりたまひて、世の中いかがあらむと思へるけしきの、心苦しうあはれにおぼえたまへば、あいなき心のさまざま乱るるやしるからむ、色変はるとありしもらうたうおぼえて、常よりことに語らひきこえたまふ。山づとに持たせたまへりし紅葉もみぢ、御前のに御覧じ比ぶれば、ことに染めましける露の心も見過ぐしがたう、おぼつかなさも、人悪るきまでおぼえたまへば、ただおほかたにて宮にまゐらせたまふ。命婦みやうぶのもとに、

「入らせたまひにけるを、めづらしきこととうけたまはるに、宮の間の事、おぼつかなくなりはべりにければ、静心なくおもひたまへながら、行ひもつとめむなど、おもひ立ちはべりし日数を、心ならずやとてなむ、日ごろになりはべりにける。紅葉もみぢは、一人見はべるに、錦暗うおもひたまふればなむ。折よくて御覧ぜさせたまへ」

 などあり。げに、いみじき枝どもなれば、御目とまるに、例の、いささかなるものありけり。人々見たてまつるに、御顔の色も移ろひて、

「なほ、かかる心の絶えたまはぬこそ、いと疎ましけれ。あたらおもひやり深うものしたまふ人の、ゆくりなく、かうやうなること、折々混ぜたまふを、人もあやしと見るらむかし」

 と、心づきなくおぼされて、瓶に挿させて、ひさしの柱のもとにおしやらせたまひつ。おほかたのことども、宮の御事に触れたることなどをば、うち頼めるさまに、すくよかなる御返りばかり聞こえたまへるを、さも心かしこく、尽きせずもと、恨めしうは見たまへど、何ごとものち見きこえならひたまひにたれば、人あやしと、見とがめもこそすれとおぼして、まかでたまふべき日、まゐりたまへり。

 まづ内裏うちの御方にまゐりたまへれば、のどやかにおはしますほどにて、昔今の御物語聞こえたまふ。御容貌かたちも、院にいとよう似たてまつりたまひて、今すこしなまめかしき気添ひて、なつかしうなごやかにぞおはします。かたみにあはれと見たてまつりたまふ。尚侍ないしのかみの君の御ことも、なほ絶えぬさまに聞こし召し、けしき御覧ずる折もあれど、

「何かは、今はじめたることならばこそあらめ。さも心交はさむに、似げなかるまじき人のあはひなりかし」

 とぞおぼしなして、とがめさせたまはざりける。よろづの御物語、文の道のおぼつかなくおぼさるることどもなど、問はせたまひて、また、好き好きしき歌語りなども、かたみに聞こえ交はさせたまふついでに、かの斎宮さいくうくだりたまひし日のこと、容貌かたちのをかしくおはせしなど、語らせたまふに、我もうちとけて、野の宮のあはれなりし曙も、みな聞こえでたまひてけり。

 二十日の月、やうやうさしでて、をかしきほどなるに、

「遊びなども、せまほしきほどかな」

 とのたまはす。

「中宮の、今宵こよひ、まかでたまふなる、とぶらひにものしはべらむ。院ののたまはせおくことはべりしかば。また、のち見仕うまつる人もはべらざめるに。春宮とうぐうの御ゆかり、いとほしうおもひたまへられはべりて」

 と奏したまふ。

春宮とうぐうをば、今の皇子になしてなど、のたまはせ置きしかば、とりわきて心ざしものすれど、ことにさしわきたるさまにも、何ごとをかはとてこそ。年のほどよりも、御手などのわざとかしこうこそものしたまふべけれ。何ごとにも、はかばかしからぬみづからの起こしになむ」

 と、のたまはすれば、

「おほかた、したまふわざなど、いとさとく大人びたるさまにものしたまへど、まだ、いと片なりに」

 など、その御ありさまも奏したまひて、まかでたまふに、大宮の御せうとの藤大納言の子の、頭の弁といふが、世にあひ、はなやかなる若人わかうどにて、おもふことなきなるべし、妹の麗景殿れいけいでんの御方に行くに、大将たいしやうの御前駆さきを忍びやかに追へば、しばし立ちとまりて、

白虹はくこう日を貫けり。太子畏ぢたり」

 と、いとゆるるかにうち誦じたるを、大将たいしやう、いとまばゆしと聞きたまへど、とがむべきことかは。后の御けしきは、いと恐ろしう、わづらはしげにのみ聞こゆるを、かう親しき人々も、けしきだち言ふべかめることどももあるに、わづらはしうおぼされけれど、つれなうのみもてなしたまへり。

「御前にさぶらひて、今まで、更かしはべりにける」

 と、聞こえたまふ。

 月のはなやかなるに、昔、かうやうなる折は、御遊びせさせたまひて、今めかしうもてなさせたまひしなど、おぼづるに、同じ御垣の内ながら、変はれること多く悲し。

九重ここのへに霧や隔つる雲の上の月をはるかにおもひやるかな」

 と、命婦みやうぶして、聞こえ伝へたまふ。ほどなければ、御けはひも、ほのかなれど、なつかしう聞こゆるに、つらさも忘られて、まづ涙ぞ落つる。

「月影は見し世の秋に変はらぬを隔つる霧のつらくもあるかな。かすみも人のとか、昔もはべりけることにや」

 など聞こえたまふ。宮は、春宮とうぐうを飽かずおもひきこえたまひて、よろづのことを聞こえさせたまへど、深うもおぼし入れたらぬを、いとうしろめたくおもひきこえたまふ。例は、いととく大殿おほいとの籠もるを、でたまふまでは起きたらむとおぼすなるべし。恨めしげにおぼしたれど、さすがに、え慕ひきこえたまはぬを、いとあはれと、見たてまつりたまふ。

 大将たいしやう、頭の弁の誦じつることをおもふに、御心の鬼に、世の中わづらはしうおぼえたまひて、尚侍ないしのかみの君にも訪れきこえたまはで、久しうなりにけり。初時雨しぐれ、いつしかとけしきだつに、いかがおぼしけむ、かれより、

木枯こがらしの吹くにつけつつ待ちし間におぼつかなさのころも経にけり」

 と聞こえたまへり。折もあはれに、あながちに忍びふみきたまへらむ御心ばへも、憎からねば、御使とどめさせて、唐の紙ども入れさせたまへる御厨子みずし開けさせたまひて、なべてならぬを選りでつつ、筆なども心ことにひきつくろひたまへるけしき、えんなるを、御前なる人々、誰ればかりならむとつきしろふ。

「聞こえさせても、かひなきもの懲りにこそ、むげにくづほれにけれ。身のみもの憂きほどに、あひ見ずてしのぶるころの涙をもなべての空の時雨しぐれとや見る。心の通ふならば、いかに眺めの空ももの忘れしはべらむ」

 など、こまやかになりにけり。

 かうやうにおどろかしきこゆるたぐひ多かめれど、情けなからずうち返りごちたまひて、御心には深う染まざるべし。

 中宮は、院の御はてのことにうち続き、御八講はこうのいそぎをさまざまに心づかひせさせたまひけり。霜月しもつき朔日ついたちごろ、御国忌こきなるに、雪いたう降りたり。大将たいしやう殿より宮に聞こえたまふ。

「別れにし今日けふは来れども見し人にき逢ふほどをいつと頼まむ」

 いづこにも、今日けふはもの悲しうおぼさるるほどにて、御返りあり。

「ながらふるほどは憂けれどきめぐり今日けふはその世に逢ふ心地して」

 ことにつくろひてもあらぬ御ふみきざまなれど、あてに気高きはおもひなしなるべし。筋変はり今めかしうはあらねど、人にはことにふみかせたまへり。今日けふは、この御こともおもひ消ちて、あはれなる雪の雫に濡れ濡れ行ひたまふ。

 十二月十余日ばかり、中宮の御八講はこうなり。いみじう尊し。日々に供養ぜさせたまふ御経よりはじめ、玉の軸、羅の表紙、帙簀ぢすの飾りも、世になきさまにととのへさせたまへり。さらぬことのきよらだに、世の常ならずおはしませば、ましてことわりなり。仏の御飾り、花机はなづくゑのおほひなどまで、まことの極楽おもひやらる。初めの日は、先帝せんだいの御れう。次の日は、母后の御ため。またの日は、院の御れう。五巻の日なれば、上達部かむだちめなども、世のつつましさをえしもはばかりたまはで、いとあまたまゐりたまへり。今日けふの講師は、心ことに選らせたまへれば、たきぎこるほどよりうちはじめ、同じう言ふ言の葉も、いみじう尊し。親王みこたちも、さまざまの捧物ほうもちささげてめぐりたまふに、大将たいしやう殿の御用意など、なほ似るものなし。常におなじことのやうなれど、見たてまつるたびごとに、めづらしからむをば、いかがはせむ。

 果ての日、わが御ことを結願けちぐわんにて、世をそむきたまふよし、仏にまうさせたまふに、皆人々驚きたまひぬ。兵部卿ひやうぶきやう宮、大将たいしやうの御心も動きて、あさましとおぼす。親王みこは、なかばのほどに立ちて、入りたまひぬ。心強うおぼし立つさまのたまひて、果つるほどに、山の座主召して、忌むこと受けたまふべきよし、のたまはす。御伯父をぢ横川よかはの僧都、近うまゐりたまひて、御髪下ろしたまふほどに、宮の内ゆすりて、ゆゆしう泣きみちたり。何となき老い衰へたる人だに、今はと世をそむくほどは、あやしうあはれなるわざを、まして、かねての御けしきにもだしたまはざりつることなれば、親王みこもいみじう泣きたまふ。まゐりたまへる人々も、おほかたのことのさまも、あはれに尊ければ、みな、袖濡らしてぞ帰りたまひける。

 故院の御子みこたちは、昔の御ありさまをおぼづるに、いとど、あはれに悲しうおぼされて、みな、とぶらひきこえたまふ。大将たいしやうは、立ちとまりたまひて、聞こえでたまふべきかたもなく、暮れまどひておぼさるれど、などか、さしもと、人見たてまつるべければ、親王みこなどでたまひぬるのちにぞ、御前にまゐりたまへる。

 やうやう人静まりて、女房ども、鼻うちかみつつ、所々に群れゐたり。月は隈なきに、雪の光りあひたる庭のありさまも、昔のことおもひやらるるに、いと堪へがたうおぼさるれど、いとようおぼし静めて、

「いかやうにおぼし立たせたまひて、かうにはかには」

 と聞こえたまふ。

「今はじめて、おもひたまふることにもあらぬを、ものさわがしきやうなりつれば、心乱れぬべく」

 など、例の、命婦みやうぶして聞こえたまふ。御簾みすのうちのけはひ、そこら集ひさぶらふ人の衣の音なひ、しめやかに振る舞ひなして、うち身じろきつつ、悲しげさの慰めがたげに漏り聞こゆるけしき、ことわりに、いみじと聞きたまふ。

 風はげしう吹きふぶきて、御簾みすのうちの匂ひ、いともの深き黒方にしみて、名香の煙もほのかなり。大将たいしやうの御匂ひさへ薫りあひ、めでたく、極楽おもひやらるる夜のさまなり。春宮とうぐうの御使も参れり。のたまひしさま、おもできこえさせたまふにぞ、御心強さも堪へがたくて、御返りも聞こえさせやらせたまはねば、大将たいしやうぞ、言加はへ聞こえたまひける。

 誰も誰も、ある限り心収まらぬほどなれば、おぼすことどもも、えうちでたまはず。

「月のすむ雲居くもゐをかけて慕ふともこの世の闇になほや惑はむ、とおもひたまへらるるこそ、かひなく。おぼし立たせたまへる恨めしさは、限りなう」

 とばかり聞こえたまひて、人々近うさぶらへば、さまざま乱るる心のうちをだに、え聞こえあらはしたまはず、いぶせし。

「おほふかたの憂きにつけては厭へどもいつかこの世をそむき果つべき、かつ、濁りつつ」

 など、かたへは御使の心しらひなるべし。あはれのみ尽きせねば、胸苦しうてまかでたまひぬ。にても、わが御方に一人うち臥したまひて、御目もあはず、世の中厭はしうおぼさるるにも、春宮とうぐうの御ことのみぞ心苦しき。母宮をだに朝廷がたざまにと、おぼしおきしを、世の憂さに堪へず、かくなりたまひにたれば、もとの御位にてもえおはせじ。我さへ見たてまつり捨ててはなど、おぼし明かすこと限りなし。今は、かかるかたざまの御調でうどもをこそはとおぼせば、年の内にと、急がせたまふ。命婦みやうぶの君も御供になりにければ、それも心深うとぶらひたまふ。詳しう言ひ続けむに、ことことしきさまなれば、漏らしてけるなめり。さるは、かうやうの折こそ、をかしき歌などで来るやうもあれ、さうざうしや。まゐりたまふも、今はつつましさ薄らぎて、御みづから聞こえたまふ折もありけり。おもひしめてしことは、さらに御心に離れねど、まして、あるまじきことなりかし。

 年も変はりぬれば、内裏うちわたりはなやかに、内宴ないえん踏歌たふかなど聞きたまふも、もののみあはれにて、御行なひしめやかにしたまひつつ、のちの世のことをのみおぼすに、頼もしく、むつかしかりしこと、離れておもほさる。常の御念誦ねんず堂をば、さるものにて、ことに建てられたる御堂みだうの、西のたいの南にあたりて、すこし離れたるに渡らせたまひて、とりわきたる御行なひせさせたまふ。

 大将たいしやうまゐりたまへり。改まるしるしもなく、宮の内のどかに、人目まれにて、宮司どもの親しきばかり、うちうなだれて、見なしにやあらむ、屈しいたげに思へり。白馬あをむまばかりぞ、なほ牽き変へぬものにて、女房などの見ける。所狭うまゐり集ひたまひし上達部かむだちめなど、道を避きつつひき過ぎて、向かひの大殿おほいとのに集ひたまふを、かかるべきことなれど、あはれにおぼさるるに、千人にも変へつべき御さまにて、深うたづねまゐりたまへるを見るに、あいなく涙ぐまる。

 客人まらうとも、いとものあはれなるけしきに、うち見まはしたまひて、とみに物ものたまはず。さま変はれる御住まひに、御簾みすの端、御几帳みきちやう青鈍あをにびにて、隙々ひまひまよりほの見えたる薄鈍うすにび梔子くちなしの袖口など、なかなかなまめかしう、奥ゆかしうおもひやられたまふ。解けわたる池の薄氷うすごほり、岸の柳のけしきばかりは、時を忘れぬなど、さまざま眺められたまひて、むべも心あると、忍びやかにうち誦じたまへる、またなうなまめかし。

「ながめかる海人のすみかと見るからにまづしほたるる松が浦島」

 と聞こえたまへば、奥深うもあらず、みな仏に譲りきこえたまへる御座所おましどころなれば、すこしけ近き心地して、

「ありし世のなごりだになき浦島に立ち寄る波のめづらしきかな」

 とのたまふも、ほの聞こゆれば、忍ぶれど、涙ほろほろとこぼれたまひぬ。世をおもひ澄ましたる尼君たちの見るらむも、はしたなければ、言少なにてでたまひぬ。

「さも、たぐひなくねびまさりたまふかな。心もとなきところなく世に栄え、時にあひたまひし時は、さる一つものにて、何につけてか世をおぼし知らむと、推し量られたまひしを、今はいといたうおぼししづめて、はかなきことにつけても、ものあはれなるけしきさへ添はせたまへるは、あいなう心苦しうもあるかな」

 など、老いしらへる人々、うち泣きつつ、めできこゆ。宮もおぼづること多かり。

 司召つかさめしのころ、この宮の人は、はるべき官も得ず、おほかたの道理にても、宮の御はりにても、かならずあるべき加階などをだにせずなどして、嘆くたぐひいと多かり。かくても、いつしかと御位を去り、御封などの停まるべきにもあらぬを、ことつけて変はること多かり。皆かねておぼし捨ててし世なれど、宮人どもも、よりどころなげに悲しと思へるけしきどもにつけてぞ、御心動く折々あれど、わが身をなきになしても、春宮とうぐうの御代をたひらかにおはしまさば、とのみおぼしつつ、御行なひたゆみなくつとめさせたまふ。人知れず危ふくゆゆしうおもひきこえさせたまふことしあれば、我にその罪を軽めて、宥したまへと、仏を念じきこえたまふに、よろづを慰めたまふ。大将たいしやうもしか見たてまつりたまひて、ことわりにおぼす。この殿の人どもも、また同じきさまに、からきことのみあれば、世の中はしたなくおぼされて、籠もりおはす。

 左の大臣おとども、公私ひき変へたる世のありさまに、もの憂くおぼして、致仕ちじの表たてまつりたまふを、帝は、故院のやむごとなく重き御のち見とおぼして、長き世のかためと聞こえ置きたまひし御遺言ゆいごんおぼし召すに、捨てがたきものにおもひきこえたまへるに、かひなきことと、たびたび用ゐさせたまはねど、せめて返さひまうしたまひて、籠もりゐたまひぬ。今は、いとど一族のみ、返す返す栄えたまふこと、限りなし。世の重しとものしたまへる大臣おとどの、かく世を逃がれたまへば、朝廷も心細うおぼされ、世の人も、心ある限りは嘆きけり。

 御子みこどもは、いづれともなく人がらめやすく世に用ゐられて、心地よげにものしたまひしを、こよなう静まりて、三位中将なども、世をおもひ沈めるさま、こよなし。かの四の君をも、なほ、かれがれにうち通ひつつ、めざましうもてなされたれば、心解けたる御婿のうちにも入れたまはず。おもひ知れとにや、このたびの司召つかさめしにも漏れぬれど、いとしもおもひ入れず。大将たいしやう殿、かう静かにておはするに、世ははかなきものと見えぬるを、ましてことわり、とおぼしなして、常にまゐり通ひたまひつつ、学問をも遊びをももろともにしたまふ。

 いにしへも、もの狂ほしきまで、挑みきこえたまひしをおぼでて、かたみに今もはかなきことにつけつつ、さすがに挑みたまへり。春秋の御読経みどきやうをばさるものにて、臨時にも、さまざま尊き事どもをせさせたまひなどして、また、いたづらにいとまありげなる博士ども召し集めて、文作り、韻塞ゐんふたぎなどやうのすさびわざどもをもしなど、心をやりて、宮仕へをもをさをさしたまはず、御心にまかせてうち遊びておはするを、世の中には、わづらはしきことどもやうやう言ひづる人々あるべし。

 夏の雨、のどかに降りて、つれづれなるころ、中将、さるべき集どもあまた持たせてまゐりたまへり。殿にも、文殿開けさせたまひて、まだ開かぬ御厨子みずしどもの、めづらしき古集のゆゑなからぬ、すこし選りでさせたまひて、その道の人々、わざとはあらねどあまた召したり。殿上てんじやう人も大学のも、いと多う集ひて、左右にこまどりに方分かせたまへり。賭物かけものどもなど、いと二なくて、挑みあへり。塞ぎもて行くままに、難き韻の文字どもいと多くて、おぼえある博士どもなどの惑ふところどころを、時々うちのたまふさま、いとこよなき御ざえのほどなり。

「いかで、かうしもたらひたまひけむ。なほさるべきにて、よろづのこと、人にすぐれたまへるなりけり」

 と、めできこゆ。つひに、右負けにけり。

 二日ばかりありて、中将負けわざしたまへり。ことことしうはあらで、なまめきたる桧破籠ひわりごども、賭物かけものなどさまざまにて、今日けふも例の人々、多く召して、文など作らせたまふ。階のもとの薔薇さうび、けしきばかり咲きて、春秋の花盛りよりもしめやかにをかしきほどなるに、うちとけ遊びたまふ。中将の御子みこの、今年初めて殿上てんじやうする、八つ、九つばかりにて、声いとおもしろく、さうの笛吹きなどするを、うつくしびもてあそびたまふ。四の君腹の二郎なりけり。世の人の思へる寄せ重くて、おぼえことにかしづけり。心ばへもかどかどしう、容貌かたちもをかしくて、御遊びのすこし乱れゆくほどに、高砂たかさごだして謡ふ、いとうつくし。大将たいしやうの君、御衣脱ぎてかづけたまふ。

 例よりは、うち乱れたまへる御顔の匂ひ、似るものなく見ゆ。薄物うすもの直衣なほし単衣ひとへを着たまへるに、透きたまへる肌つき、ましていみじう見ゆるを、年老いたる博士どもなど、遠く見たてまつりて、涙落しつつゐたり。逢はましものを、小百合さゆりばのと謡ふとぢめに、中将、御土器かはらけまゐりたまふ。

「それもがと今朝けさ開けたる初花に劣らぬ君が匂ひをぞ見る」

 ほほみて、取りたまふ。

「時ならで今朝けさ咲く花は夏の雨にしをれにけらし匂ふほどなく、衰へにたるものを」

 と、うちさうどきて、らうがはしく聞こし召しなすを、とがでつつ、しひきこえたまふ。多かめりし言どもも、かうやうなる折のまほならぬこと、数々にふみきつくる、心地なきわざとか、貫之つらゆきいさめ、たうるる方にて、むつかしければ、とどめつ。皆、この御ことをほめたる筋にのみ、大和のも唐のも作り続けたり。わが御心地にも、いたうおぼしおごりて、

文王ぶんわうの子、武王ぶわうの弟」

 と、うち誦じたまへる御名のりさへぞ、げに、めでたき。「成王せいわうの何」とか、のたまはむとすらむ。そればかりや、また心もとなからむ。兵部卿ひやうぶきやう宮も常に渡りたまひつつ、御遊びなども、をかしうおはする宮なれば、今めかしき御遊びどもなり。

 そのころ、尚侍ないしのかみの君まかでたまへり。瘧病わらはやみに久しう悩みたまひて、まじなひなども心やすくせむとてなりけり。修法ずほふなど始めて、おこたりたまひぬれば、誰も誰も、うれしうおぼすに、例の、めづらしき隙なるをと、聞こえ交はしたまひて、わりなきさまにて、夜な夜なたいしたまふ。

 いと盛りに、にぎははしきけはひしたまへる人の、すこしうち悩みて、痩せ痩せになりたまへるほど、いとをかしげなり。后の宮も一所におはするころなれば、けはひいと恐ろしけれど、かかることしもまさる御くせなれば、いと忍びて、たび重なりゆけば、けしき見る人々もあるべかめれど、わづらはしうて、宮には、さなむと啓せず。大臣おとど、はたおもひかけたまはぬに、雨にはかにおどろおどろしう降りて、神いたう鳴りさわぐ暁に、殿の君達、宮司など立ちさわぎて、こなたかなたの人目しげく、女房どもも怖ぢまどひて、近う集ひ参るに、いとわりなく、でたまはむ方なくて、明け果てぬ。御帳みちやうのめぐりにも、人々しげく並みゐたれば、いと胸つぶらはしくおぼさる。心知りの人二人ばかり、心を惑はす。

 神鳴り止み、雨すこしを止みぬるほどに、大臣おとど渡りたまひて、まづ、宮の御方におはしけるを、村雨むらさめのまぎれにてえ知りたまはぬに、軽らかにふとはひ入りたまひて、御簾みす引き上げたまふままに、

「いかにぞ。いとうたてありつる夜のさまに、おもひやりきこえながら、まゐり来でなむ。中将、宮の亮など、さぶらひつや」

 など、のたまふけはひの、舌疾にあはつけきを、大将たいしやうは、もののまぎれにも、左の大臣おとどの御ありさま、ふとおぼし比べられて、たとしへなうぞ、ほほまれたまふ。げに、入り果ててものたまへかしな。

 尚侍ないしのかみの君、いとわびしうおぼされて、やをらゐざりでたまふに、のいたう赤みたるを、なほ悩ましうおぼさるるにやと見たまひて、

「など御けしきの例ならぬ。もののけなどのむつかしきを、修法ずほふ延べさすべかりけり」

 とのたまふに、薄二藍うすふたあゐなる帯の、御衣にまつはれて引きでられたるを見つけたまひて、あやしとおぼすに、また、畳紙たたむがみの手習ひなどしたる、御几帳みきちやうのもとに落ちたり。これはいかなる物どもぞと御心おどろかれて、

「かれは、誰れがぞ。けしき異なるもののさまかな。たまへ。それ取りて誰がぞと見はべらむ」

 とのたまふにぞ、うち見返りて、我も見つけたまへる。まぎらはすべきかたもなければ、いかがは応へきこえたまはむ。我にもあらでおはするを、子ながらも恥づかしとおぼすらむかしと、さばかりの人は、おぼはばかるべきぞかし。されど、いと急に、のどめたるところおはせぬ大臣おとどの、おぼしもまはさずなりて、畳紙たたむがみを取りたまふままに、几帳より見入れたまへるに、いといたうなよびて、慎ましからず添ひ臥したる男もあり。今ぞ、やをら顔ひき隠して、とかうまぎらはす。あさましう、めざましう心やましけれど、直には、いかでか現はしたまはむ。目もくるる心地すれば、この畳紙たたむがみを取りて、寝殿に渡りたまひぬ。尚侍ないしのかみの君は、我かの心地して、死ぬべくおぼさる。大将たいしやう殿も、「いとほしう、つひに用なき振る舞ひのつもりて、人のもどきを負はむとすること」とおぼせど、女君の心苦しき御けしきを、とかく慰めきこえたまふ。

 大臣おとどおもひのままに籠めたるところおはせぬ本性に、いとど老いの御ひがみさへ添ひたまふに、これは何ごとにかはとどこほりたまはむ。ゆくゆくと、宮にも愁へきこえたまふ。

「かうかうのことなむはべる。この畳紙たたむがみは、右大将たいしやうの御手なり。昔も、心宥されでありそめにけることなれど、人柄によろづの罪を宥して、さても見むと、言ひはべりし折は、心もとどめず、めざましげにもてなされにしかば、やすからずおもひたまへしかど、さるべきにこそはとて、世に穢れたりとも、おぼし捨つまじきを頼みにて、かく本意ほいのごとくたてまつりながら、なほ、そのはばかりありて、うけばりたる女御なども言はせたまはぬをだに、飽かずくちしうおもひたまふるに、また、かかることさへはべりければ、さらにいと心憂くなむおもひなりはべりぬる。男の例とはいひながら、大将たいしやうもいとけしからぬ御心なりけり。斎院をもなほ聞こえ犯しつつ、忍びに御文通はしなどして、けしきあることなど、人の語りはべりしをも、世のためのみにもあらず、我がためもよかるまじきことなれば、よもさるおもひやりなきわざ、しでられじとなむ、時の有職いうそくと天の下をなびかしたまへるさま、ことなめれば、大将たいしやうの御心を、疑ひはべらざりつる」

 などのたまふに、宮は、いとどしき御心なれば、いとものしき御けしきにて、

「帝と聞こゆれど、昔より皆人おもひ落としきこえて、致仕ちじ大臣おとども、またなくかしづく一つ女を、せうとの坊にておはするにはたてまつらで、弟の源氏にて、いときなきが元服の副臥そひぶしにとり分き、また、この君をも宮仕へにと心ざしてはべりしに、をこがましかりしありさまなりしを、誰れも誰れもあやしとやはおぼしたりし。皆、かの御方にこそ御心寄せはべるめりしを、その本意ほいたがふさまにてこそは、かくてもさぶらひたまふめれど、いとほしさに、いかでさる方にても、人に劣らぬさまにもてなしきこえむ、さばかりねたげなりし人の見るところもあり、などこそはおもひはべりつれど、忍びて我が心の入る方に、なびきたまふにこそははべらめ。斎院の御ことは、ましてさもあらむ。何ごとにつけても、朝廷の御方にうしろやすからず見ゆるは、春宮とうぐうの御世、心寄せ殊なる人なれば、ことわりになむあめる」

 と、すくすくしうのたまひ続くるに、さすがにいとほしう、など聞こえつることぞと、おぼさるれば、

「さはれ、しばし、このこと漏らしはべらじ。内裏うちにも奏せさせたまふな。かくのごと、罪はべりとも、おぼし捨つまじきを頼みにて、あまえてはべるなるべし。うちうちに制しのたまはむに、聞きはべらずは、その罪に、ただみづから当たりはべらむ」

 など、聞こえ直したまへど、ことに御けしきも直らず。かく、一所におはして隙もなきに、つつむところなく、さて入りものせらるらむは、ことさらに軽めろうぜらるるにこそは、とおぼしなすに、いとどいみじうめざましく、このついでに、さるべきことども構へでむに、よきたよりなり、とおぼしめぐらすべし。

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鴨
2024年9月から『源氏物語』の全訳に挑戦しています。10年がかりのライフワークです。
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