2025.10.30

【原文】第9帖「葵」（全文）

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　世の中変はりて後のち、よろづもの憂うく思おぼされ、御身のやむごとなさも添そふにや、軽々かるがるしき御忍しのび歩ありきもつつましうて、ここもかしこも、おぼつかなさの嘆きを重ねたまふ報むくいにや、なほ我につれなき人の御心を、尽きせずのみ思おぼし嘆く。今はましてひまなう、ただ人のやうにて添そひおはしますを、今いま后きさきは心やましう思おぼすにや、内裏うちにのみさぶらひたまへば、立ち並ぶ人なう心やすげなり。折節をりふしに従ひては、御遊びなどを好ましう、世の響くばかりせさせたまひつつ、今の御ありさましもめでたし。ただ春宮とうぐうをぞ、いと恋しう思おもひきこえたまふ。御後見うしろみのなきを、うしろめたう思おもひきこえて、大たい将しやうの君によろづ聞こえつけたまふも、かたはらいたきものから嬉しと思おぼす。

　まことや、かの六条御息所ろくでうのみやすんどころの御腹の前坊せんばうの姫君、斎宮さいくうにゐたまひにしかば、大たい将しやうの御心ばへもいと頼もしげなきを、幼をさなき御ありさまのうしろめたさにことづけて下りやしなましと、かねてより思おぼしけり。院ゐんにも、かかることなむと聞こし召して、

「故宮のいとやむごとなく思おぼし時めかしたまひしものを、軽々かるがるしうおしなべたるさまにもてなすなるが、いとほしきこと。斎宮さいくうをも、この御子みこたちの列になむ思おもへば、いづかたにつけても、おろかならざらむこそよからめ。心のすさびにまかせて、かくすきわざするは、いと世のもどき負ひぬべきことなり」

　など、御けしき悪しければ、わが御心ここ地ちにも、げにと思おもひ知らるれば、かしこまりてさぶらひたまふ。

「人のため、恥ぢがましきことなく、いづれをもなだらかにもてなして、女をんなの怨みな負ひそ」

　とのたまはするにも、けしからぬ心のおほけなさを聞こし召しつけたらむ時と、恐ろしければ、かしこまりてまかでたまひぬ。

　また、かく院ゐんにも聞こし召しのたまはするに、人の御名も、わがためも、すきがましういとほしきに、いとどやむごとなく、心苦しき筋すぢには思おもひきこえたまへど、まだあらはれては、わざともてなし聞こえたまはず。女をんなも、似げなき御年のほどを恥づかしう思おぼして、心とけたまはぬけしきなれば、それにつつみたるさまにもてなして、院ゐんに聞こし召し入れ、世の中の人も知らぬなくなりにたるを、深うしもあらぬ御心のほどをいみじう思おぼし嘆きけり。かかることを聞きたまふにも、朝顔あさがほの姫君は、いかで、人に似じ、と深う思おぼせば、はかなきさまなりし御返かへりなども、をさをさなし。さりとて、人憎く、はしたなくはもてなしたまはぬ御けしきを、君も、なほことなりと思おぼしわたる。

　大おほい殿とのには、かくのみ定めなき御心を、心づきなしと思おぼせど、あまりつつまぬ御けしきの言ふかひなければにやあらむ、深うも怨ゑじ聞こえたまはず。心苦しきさまの御心ここ地ちに悩みたまひて、もの心細げに思いたり。めづらしくあはれと思おもひ聞こえたまふ。誰たれも誰たれも嬉しきものからゆゆしう思おぼして、さまざまの御つつしみせさせたてまつりたまふ。かやうなるほど、いとど御心のいとまなくて、思おぼしおこたるとはなけれど、とだえ多おほかるべし。

　そのころ、斎院さいゐんも下おりゐたまひて、后きさき腹ばらの女をんな三宮ゐたまひぬ。帝みかど、后、いとことに思おもひ聞こえたまへる宮なれば、筋すぢことになりたまふを、いと苦しう思おぼしたれど、異宮ことみやたちのさるべきおはせず、儀式など、常の神かむわざなれど、いかめしうののしる。祭のほど、限りある公事おほやけごとに添そふこと多おほく、見所みどころこよなし。人からと見えたり。御ご禊けいの日、上達かむだち部めなど数定まりて仕つかうまつりたまふわざなれど、おぼえことに、容貌かたちある限り、下した襲がさねの色、表うへの袴はかまの紋もん、馬鞍むまくらまでみなととのへたり。とりわきたる宣せん旨じにて、大たい将しやうの君も仕つかうまつりたまふ。かねてより、物見車心づかひしけり。一条の大おほ路ち、所なくむくつけきまで騒ぎたり。所々の御桟さ敷じき、心々にし尽くしたるしつらひ、人の袖口そでぐちさへ、いみじき見物なり。

　大おほい殿とのには、かやうの御歩ありきもをさをさしたまはぬに、御心ここ地ちさへ悩ましければ、思おぼしかけざりけるを、若き人々、

「いでや、おのがどちひき忍しのびて見はべらむこそ、栄はえなかるべけれ。おほよそ人だに、今日けふの物見には、大たい将しやう殿をこそは、あやしき山がつさへ見たてまつらむとすなれ。遠き国々より、妻子めこを引き具しつつも参まうで来くなるを御覧ぜぬは、いとあまりもはべるかな」

　と言ふを、大宮おほみや聞こしめして、

「御心ここ地ちもよろしき隙ひまなり。さぶらふ人々もさうざうしげなめり」

　とて、にはかにめぐらし仰おほせたまひて見たまふ。

　日たけゆきて、儀式もわざとならぬさまにて出いでたまへり。隙ひまもなう立ちわたりたるに、よそほしう引き続きて立ちわづらふ。よき女をんな房車多おほくて、雑々ざふざふの人なき隙ひまを思おもひ定めて、皆さし退のけさするなかに、網代あむしろのすこしなれたるが、下した簾すだれのさまなどよしばめるに、いたう引き入りて、ほのかなる袖口そでぐち、裳もの裾すそ、汗衫かざみなど、ものの色いときよらにて、ことさらにやつれたるけはひしるく見ゆる車二つあり。

「これは、さらに、さやうにさし退のけなどすべき御車にもあらず」

　と、口ごはくて、手触れさせず。いづかたにも、若き者ども酔ゑひ過ぎ、立ち騒ぎたるほどのことは、えしたためあへず。おとなおとなしき御ご前ぜんの人々は「かくな」など言へど、えとどめあへず。斎宮さいくうの御母御息所みやすんどころ、もの思おぼし乱るる慰なぐさめにもやと、忍しのびて出いでたまへるなりけり。つれなしつくれど、おのづから見知りぬ。

「さばかりにては、さな言はせそ。大たい将しやう殿をぞ、豪家には思おもひ聞こゆらむ」

　など言ふを、その御方の人も混じれれば、いとほしと見ながら、用意せむもわづらはしければ、知らず顔をつくる。

　つひに、御車ども立て続けつれば、ひとだまひの奥におしやられてものも見えず。心やましきをばさるものにて、かかるやつれをそれと知られぬるが、いみじうねたきこと限りなし。榻しぢなどもみな押し折られて、すずろなる車の筒どうにうちかけたれば、またなう人悪ろく、くやしう、何に来つらむと思おもふにかひなし。ものも見で帰らむとしたまへど、通り出いでむ隙ひまもなきに「事なりぬ」と言へば、さすがにつらき人の御ご前ぜん渡りの待たるるも、心弱しや。笹ささの隈くまにだにあらねばにや、つれなく過ぎたまふにつけても、なかなか御心づくしなり。

　げに、常よりも好みととのへたる車どもの、我も我もと乗りこぼれたる下した簾すだれの隙ひま間どもも、さらぬ顔なれど、ほほ笑ゑみつつ後のち目にとどめたまふもあり。大おほい殿とののは、しるければ、まめだちて渡りたまふ。御供の人びとうちかしこまり、心ばへありつつ渡るを、おし消たれたるありさま、こよなう思おぼさる。

「影をのみ御手洗みたらし川がはのつれなきに身の憂うきほどぞいとど知らるる」

　と、涙のこぼるるを、人の見るもはしたなけれど、目もあやなる御さま、容貌かたちの、いとどしう出いでばえを見ざらましかばと思おぼさる。

　ほどほどにつけて、装束さうぞく、人のありさま、いみじくととのへたりと見ゆるなかにも、上達かむだち部めはいと異なるを、一所ひとところの御光にはおし消たれためり。大たい将しやうの御仮かりの随身ずいじんに、殿上てんじやうの将監ぞうなどのすることは常のことにもあらず、めづらしき行幸などの折のわざなるを、今日けふは右近の蔵人の将監ぞう仕つかうまつれり。さらぬ御随身ずいじんどもも、容貌かたち、姿、まばゆくととのへて、世にもてかしづかれたまへるさま、木き草くさもなびかぬはあるまじげなり。壺装束さうぞくなどいふ姿にて女をんな房の卑しからぬや、また尼などの世を背きけるなども、倒れ転まろびつつ、物見に出いでたるも、例は、あながちなりや、あなにく、と見ゆるに、今日けふはことわりに、口うちすげみて、髪着こめたるあやしの者どもの、手をつくりて、額ひたひにあてつつ見たてまつりあげたるも。をこがましげなる賤しづの男をまで、おのが顔のならむさまをば知らで笑ゑみさかえたり。何とも見入れたまふまじき、えせ受領ずりやうの娘などさへ、心の限り尽くしたる車どもに乗り、さまことさらび、心げさうしたるなむ、をかしきやうやうの見物なりける。

　まして、ここかしこにうち忍しのびて通ひたまふ所々は、人知れずのみ、数ならぬ嘆きまさるも、多おほかり。式部卿しきぶきやうの宮、桟さ敷じきにてぞ見たまひける。いとまばゆきまでねびゆく人の容貌かたちかな、神などは目もこそとめたまへと、ゆゆしく思おぼしたり。姫君は、年ごろ聞こえわたりたまふ御心ばへの世の人に似ぬを、なのめならむにてだにあり、ましてかうしもいかでと、御心とまりけり。いとど近くて見えむまでは思おぼしよらず。若き人々は、聞きにくきまでめできこえあへり。

　祭の日は、大おほい殿とのにはもの見たまはず。大たい将しやうの君、かの御車の所争ひを、まねび聞こゆる人ありければ、いといとほしう憂しと思おぼして、なほ、あたら重りかにおはする人の、ものに情けおくれ、すくすくしきところつきたまへるあまりに、みづからはさしも思おぼさざりけめども、かかる仲らひは情け交はすべきものとも思いたらぬ御掟おきてに従ひて、次々よからぬ人のせさせたるならむかし、御息所は、心ばせのいと恥づかしく、よしありておはするものを、いかに思おぼしむじにけむ、と、いとほしくて、参まうでたまへりけれど、斎宮さいくうのまだ本の宮におはしませば、榊さかきの憚はばかりにことつけて、心やすくも対面したまはず。ことわりとは思おぼしながら、「なぞや、かくかたみにそばそばしからでおはせかし」と、うちつぶやかれたまふ。

　今日けふは、二条院ゐんに離れおはして、祭見に出いでたまふ。西の対に渡りたまひて、惟光これみつに車のこと仰おほせたり。

「女をんな房出いで立つや」

　とのたまひて、姫君のいとうつくしげにつくろひたてておはするを、うち笑ゑみて見たてまつりたまふ。

「君は、いざたまへ。もろともに見むよ」

　とて、御髪の常よりもきよらに見ゆるを、かきなでたまひて、

「久しう削ぎたまはざめるを、今日けふは吉き日ならむかし」

　とて、暦の博士召して、時問はせなどしたまふほどに、

「まづ女をんな房出いでね」

　とて、童の姿どものをかしげなるを御覧ず。いとらうたげなる髪どもの末はなやかに削ぎわたして、浮紋もんの表うへの袴はかまにかかれるほど、けざやかに見ゆ。

「君の御髪は、我削がむ」とて、

「うたて、所狭うもあるかな。いかに生ひやらむとすらむ」と、削ぎわづらひたまふ。

「いと長き人も、額ひたひ髪はすこし短うぞあめるを、むげに後のちれたる筋すぢのなきや、あまり情けなからむ」

　とて、削ぎ果てて、「千ち尋ひろ」と祝ひきこえたまふを、少納言、あはれにかたじけなしと見たてまつる。

「はかりなき千ち尋ひろの底の海松みるぶさの生ひゆくすゑは我のみぞ見む」

　と聞こえたまへば、

「千ち尋ひろともいかでか知らむ定めなく満ち干る潮ののどけからぬに」

　と、ものに書きつけておはするさま、らうらうじきものから、若うをかしきを、めでたしと思おぼす。

　今日けふも、所もなく立ちにけり。馬むま場ばの御殿のほどに立てわづらひて、

「上達かむだち部めの車ども多おほくて、もの騒がしげなるわたりかな」

　と、やすらひたまふに、よろしき女をんな車の、いたう乗りこぼれたるより、扇あふぎをさし出いでて、人を招き寄せて、

「ここにやは立たせたまはぬ。所避さりきこえむ」

　と聞こえたり。いかなる好色者ならむと思おぼされて、所もげによきわたりなれば、引き寄せさせたまひて、

「いかで得たまへる所ぞと、ねたさになむ」

　とのたまへば、よしある扇あふぎのつまを折りて、

「はかなしや人のかざせる葵ゆゑ神の許しの今日けふを待ちける。注連しめの内には」

　とある手を思おぼし出いづれば、かの典侍ないしのすけなりけり。あさましう、旧ふりがたくも今めくかなと、憎さに、はしたなう、

「かざしける心ぞあだにおもほゆる八十やそ氏人うぢびとになべて逢ふ日を」

　女をんなは、つらしと思おもひきこえけり。

「悔しくもかざしけるかな名のみして人だのめなる草葉ばかりを」

　と聞こゆ。人と相ひ乗りて、簾をだに上げたまはぬを、心やましう思おもふ人多おほかり。一日の御ありさまのうるはしかりしに、今日けふうち乱れて歩ありきたまふかし、誰ならむ。乗り並ぶ人、けしうはあらじはや、と、推し量りきこゆ。挑ましからぬかざし争ひかなと、さうざうしく思おぼせど、かやうにいと面なからぬ人はた、人相ひ乗りたまへるにつつまれて、はかなき御いらへも、心やすく聞こえむも、まばゆしかし。

　御息所は、ものを思おぼし乱るること、年ごろよりも多おほく添そひにけり。つらき方に思おもひ果てたまへど、今はとてふり離れ下りたまひなむは、いと心細かりぬべく、世の人聞きも人笑ゑへにならむことと思おぼす。さりとて立ち止まるべく思おぼしなるには、かくこよなきさまに皆思おもひくたすべかめるも、やすからず、

「釣する海人あまの浮けなれや」

　と、起き臥し思おぼしわづらふけにや、御心ここ地ちも浮きたるやうに思おぼされて、悩ましうしたまふ。大たい将しやう殿には、下りたまはむことを、もて離れてあるまじきことなども、妨さまたげきこえたまはず、

「数ならぬ身を、見ま憂うく思おぼし捨てむもことわりなれど、今はなほ、言ふかひなきにても、御覧じ果てむや、浅からぬにはあらむ」

　と、聞こえかかづらひたまへば、定めかねたまへる御心もや慰なぐさむと、立ち出いでたまへりし御ご禊けい河の荒かりし瀬に、いとど、よろづいと憂うく思おぼし入れたり。

　大おほい殿とのには、御もののけめきていたうわづらひたまへば、誰も誰も思おぼし嘆くに、御歩ありきなど便びんなきころなれば、二条院ゐんにも時々ぞ渡りたまふ。さはいへど、やむごとなき方は、異に思おもひ聞こえたまへる人の、めづらしきことさへ添そひたまへる御悩みなれば、心苦しう思おぼし嘆きて、御修みず法ほふや何やなど、わが御方にて、多おほく行はせたまふ。もののけ、生霊いきすだまなどいふもの多おほく出いで来て、さまざまの名のりするなかに、人にさらに移らず、ただみづからの御身につと添そひたるさまにて、ことにおどろおどろしうわづらはしきこゆることもなけれど、また、片時離るる折もなきもの一つあり。いみじき験げん者ざどもにも従はず、執しふ念ねきけしき、おぼろけのものにあらずと見えたり。大たい将しやうの君の御通ひ所、ここかしこと思おぼし当つるに、

「この御息所、二条の君などばかりこそは、おしなべてのさまには思おぼしたらざめれば、怨みの心も深からめ」

　とささめきて、ものなど問はせたまへど、さして聞こえ当つることもなし。もののけとても、わざと深き御敵かたきと聞こゆるもなし。過ぎにける御乳母めのとだつ人、もしは親の御方につけつつ伝はりたるものの、弱目に出いで来たるなど、むねむねしからずぞ乱れあらはるる。ただつくづくと、音をのみ泣きたまひて、折々は胸をせき上げつつ、いみじう堪へがたげに惑ふわざをしたまへば、いかにおはすべきにかと、ゆゆしう悲しく思おぼしあわてたり。

　院ゐんよりも、御とぶらひ隙ひまなく、御祈りのことまで思おぼし寄らせたまふさまのかたじけなきにつけても、いとど惜しげなる人の御身なり。世の中あまねく惜しみきこゆるを聞きたまふにも、御息所はただならず思おぼさる。年ごろはいとかくしもあらざりし御いどみ心を、はかなかりし車の所争ひに、人の御心の動きにけるを、かの殿には、さまでも思おぼし寄らざりけり。

　かかる御もの思おもひの乱れに、御心ここ地ちなほ例ならずのみ思おぼさるれば、ほかに渡りたまひて、御修みず法ほふなどせさせたまふ。大たい将しやう殿聞きたまひて、いかなる御心ここ地ちにかと、いとほしう、思おぼし起して渡りたまへり。例ならぬ旅所たびどころなれば、いたう忍しのびたまふ。心よりほかなるおこたりなど、罪ゆるされぬべく聞こえ続けたまひて、悩みたまふ人の御ありさまも、憂へきこえたまふ。

「みづからはさしも思おもひ入れはべらねど、親たちのいとことことしう思おもひまどはるるが心苦しさに、かかるほどを見過ぐさむとてなむ。よろづを思おぼしのどめたる御心ならば、いとうれしうなむ」

　など、語らひきこえたまふ。常よりも心苦しげなる御けしきを、ことわりに、あはれに見たてまつりたまふ。

　うちとけぬ朝ぼらけに、出いでたまふ御さまのをかしきにも、なほふり離れなむことは思おぼし返かへさる。やむごとなき方に、いとど心ざし添そひたまふべきことも出いで来にたれば、一つ方に思おぼししづまりたまひなむを、かやうに待ちきこえつつあらむも、心のみ尽きぬべきこと、なかなかもの思おもひのおどろかさるる心ここ地ちしたまふに、御文ばかりぞ、暮れつ方ある。

「日ごろ、すこしおこたるさまなりつる心ここ地ちの、にはかにいといたう苦しげにはべるを、え引きよかでなむ」

　とあるを、例のことつけと見たまふものから、

「袖濡るる恋路とかつは知りながらおりたつ田子たごのみづからぞ憂うき。山の井の水もことわりに」

　とぞある。御手は、なほここらの人のなかにすぐれたりかしと見たまひつつ、いかにぞやもある世かな、心も容貌かたちも、とりどりに捨つべくもなく、また思おもひ定むべきもなきを、苦しう思おぼさる。御返かへり、いと暗うなりにたれど、

　「袖のみ濡るるや、いかに。深からぬ御ことになむ。浅みにや人はおりたつわが方は身もそぼつまで深き恋路を。おぼろけにてや、この御返かへりを、みづから聞こえさせぬ」などあり。

　大おほい殿とのには、御もののけいたう起こりて、いみじうわづらひたまふ。この御生霊いきすだま、故父大臣の御霊など言ふものありと聞きたまふにつけて、思おぼし続くれば、身一つの憂うき嘆きよりほかに、人を悪しかれなど思おもふ心もなけれど、もの思おもひにあくがるなる魂は、さもやあらむと思おぼし知らるることもあり。

　年ごろ、よろづに思おもひ残すことなく過ぐしつれど、かうしも砕けぬを、はかなきことの折に、人の思おもひ消ち、なきものにもてなすさまなりし御ご禊けいの後のち、ひとふしに思おぼし浮かれにし心、鎮まりがたう思おぼさるるけにや、すこしうちまどろみたまふ夢には、かの姫君とおぼしき人の、いときよらにてある所に行きて、とかく引きまさぐり、うつつにも似ず、たけくいかきひたぶる心出いで来て、うちかなぐるなど見えたまふこと、度かさなりにけり。あな心憂や、げに身を捨ててや往いにけむと、うつし心ならずおぼえたまふ折々もあれば、さならぬことだに、人の御ためには、よさまのことをしも言ひ出いでぬ世なれば、ましてこれは、いとよう言ひなしつべきたよりなりと思おぼすに、いと名だたしう、ひたすら世に亡くなりて、後のちに怨み残すは世の常のことなり、それだに人の上にては、罪深うゆゆしきを、うつつのわが身ながら、さる疎うとましきことを言ひつけらるる宿世の憂うきこと、すべて、つれなき人にいかで心もかけきこえじと思おぼし返かへせど、「思おもふもものを」なり。

　斎宮さいくうは、去年こぞ内裏うちに入りたまふべかりしを、さまざまさはることありて、この秋入りたまふ。九月には、やがて野の宮に移ろひたまふべければ、ふたたびの御祓はらへのいそぎ、とりかさねてあるべきに、ただあやしうほけほけしうて、つくづくと臥し悩みたまふを、宮人いみじき大事にて、御祈りなど、さまざま仕つかうまつる。おどろおどろしきさまにはあらず、そこはかとなくて、月日を過ぐしたまふ。大たい将しやう殿も、常にとぶらひきこえたまへど、まさる方のいたうわづらひたまへば、御心のいとまなげなり。

　まださるべきほどにもあらずと、皆人もたゆみたまへるに、にはかに御けしきありて、悩みたまへば、いとどしき御祈りの数を尽くしてせさせたまへれど、例の執しふ念ねき御もののけ一つ、さらに動かず、やむごとなき験げん者ざども、めづらかなりともてなやむ。さすがにいみじう調ぜられて、心苦しげに泣きわびて、

「すこしゆるべたまへや。大たい将しやうに聞こゆべきことあり」とのたまふ。

「さればよ。あるやうあらむ」

　とて、近き御み几帳きやうのもとに入れたてまつりたり。むげに限りのさまにものしたまふを、聞こえ置かまほしきこともおはするにやとて、大臣も宮もすこし退のきたまへり。加持かぢの僧ども、声しづめて法華経を誦みたる、いみじう尊し。御み几帳きやうの帷かたびら子引き上げて見たてまつりたまへば、いとをかしげにて、御腹はいみじう高うて臥したまへるさま、よそ人だに、見たてまつらむに心乱れぬべし。まして惜しう悲しう思おぼす、ことわりなり。白き御衣に、色あひいとはなやかにて、御髪のいと長うこちたきを、引き結ひてうち添そへたるも、かうてこそ、らうたげになまめきたる方添そひてをかしかりけれと見ゆ。御手をとらへて、

「あないみじ。心憂うきめを見せたまふかな」

　とて、ものも聞こえたまはず泣きたまへば、例はいとわづらはしう恥づかしげなる御まみを、いとたゆげに見上げて、うちまもりきこえたまふに、涙のこぼるるさまを見たまふは、いかがあはれの浅からむ。

　あまりいたう泣きたまへば、心苦しき親たちの御ことを思おぼし、また、かく見たまふにつけて、口惜しうおぼえたまふにやと思おぼして、

「何ごとも、いとかうな思おぼし入れそ。さりともけしうはおはせじ。いかなりとも、かならず逢ふ瀬あなれば、対面はありなむ。大臣、宮なども、深き契りある仲は、めぐりても絶えざなれば、あひ見るほどありなむと思おぼせ」と、慰なぐさめたまふに、

「いで、あらずや。身の上のいと苦しきを、しばしやすめたまへと聞こえむとてなむ。かく参り来むともさらに思おもはぬを、もの思おもふ人の魂は、げにあくがるるものになむありける」と、なつかしげに言ひて、

「嘆きわび空に乱るるわが魂を結びとどめよしたがへのつま」

　とのたまふ声、けはひ、その人にもあらず、変はりたまへり。いとあやしと思おぼしめぐらすに、ただかの御息所なりけり。あさましう、人のとかく言ふを、よからぬ者どもの言ひ出いづることも、聞きにくく思おぼしてのたまひ消つを、目に見す見す、世にはかかることこそはありけれと、疎うとましうなりぬ。あな、心憂と思おぼされて、

「かくのたまへど、誰とこそ知らね。たしかにのたまへ」

　とのたまへば、ただそれなる御ありさまに、あさましとは世の常なり。人々近う参るも、かたはらいたう思おぼさる。

　すこし御声もしづまりたまへれば、隙ひまおはするにやとて、宮の御湯持て寄せたまへるに、かき起こされたまひて、ほどなく生まれたまひぬ。嬉しと思おぼすこと限りなきに、人に駆り移したまへる御もののけども、ねたがりまどふけはひ、いともの騒がしうて、後のちの事、またいと心もとなし。言ふ限りなき願ども立てさせたまふけにや、たひらかに事なり果てぬれば、山の座主ざす、何くれやむごとなき僧ども、したり顔に汗おしのごひつつ、急ぎまかでぬ。多おほくの人の心を尽くしつる日ごろの名残、すこしうちやすみて、今はさりともと思おぼす。御修みず法ほふなどは、またまた始め添そへさせたまへど、まづは、興あり、めづらしき御かしづきに、皆人ゆるべり。院ゐんをはじめたてまつりて、親王たち、上達かむだち部め、残るなき産養うぶやしなひどもの、めづらかにいかめしきを、夜ごとに見ののしる。男をにてさへおはすれば、そのほどの作法、にぎははしくめでたし。

　かの御息所は、かかる御ありさまを聞きたまひても、ただならず。かねてはいと危ふく聞こえしを、たひらかにもはた、とうち思おぼしけり。あやしう、我にもあらぬ御心ここ地ちを思おぼし続くるに、御衣なども、ただ芥子けしの香かに染み返かへりたるあやしさに、御ゆする参り、御衣着かへなどしたまひて、こころみたまへど、なほ同じやうにのみあれば、わが身ながらだに疎うとましう思おぼさるるに、まして、人の言ひ思おもはむことなど、人にのたまふべきことならねば、心ひとつに思おぼし嘆くに、いとど御心変はりもまさりゆく。

　大たい将しやう殿は、心ここ地ちすこしのどめたまひて、あさましかりしほどの問はず語りも、心憂うく思おぼし出いでられつつ、いとほど経にけるも心苦しう、また気近う見たてまつらむには、いかにぞや、うたておぼゆべきを、人の御ためいとほしう、よろづに思おぼして、御文ばかりぞありける。

　いたうわづらひたまひし人の御名残ゆゆしう、心ゆるびなげに、誰も思おぼしたれば、ことわりにて、御歩ありきもなし。なほいと悩ましげにのみしたまへば、例のさまにてもまだ対面したまはず。若君のいとゆゆしきまで見えたまふ御ありさまを、今から、いとさまことにもてかしづききこえたまふさま、おろかならず、ことあひたる心ここ地ちして、大臣も嬉しういみじと思おもひきこえたまへるに、ただ、この御心ここ地ちおこたり果てたまはぬを、心もとなく思おぼせど、さばかりいみじかりし名残にこそはと思おぼして、いかでかは、さのみは心をも惑はしたまはむ。

　若君の御まみのうつくしさなどの、春宮とうぐうにいみじう似たてまつりたまへるを、見たてまつりたまひても、まづ恋しう思おもひ出いでられさせたまふに、忍しのびがたくて、参りたまはむとて、

「内裏うちなどにもあまり久しう参りはべらねば、いぶせさに、今日けふなむ初立ちしはべるを、すこし気近きほどにて聞こえさせばや。あまりおぼつかなき御心の隔てかな」

　と、恨みきこえたまへれば、

「げに、ただひとへに艶にのみあるべき御仲にもあらぬを、いたう衰へたまへりと言ひながら、物越にてなどあべきかは」

　とて、臥したまへる所に御座近う参りたれば、入りてものなど聞こえたまふ。御いらへ、時々聞こえたまふも、なほいと弱げなり。されど、むげに亡き人と思おもひきこえし御ありさまを思おぼし出いづれば、夢の心ここ地ちして、ゆゆしかりしほどのことどもなど聞こえたまふついでにも、かのむげに息も絶えたるやうにおはせしが、引き返かへし、つぶつぶとのたまひしことども思おぼし出いづるに、心憂ければ、

「いさや、聞こえまほしきこといと多おほかれど、まだいとたゆげに思おぼしためればこそ」とて、

「御湯参れ」

　などさへ、扱ひきこえたまふを、いつならひたまひけむと、人々あはれがりきこゆ。

　いとをかしげなる人の、いたう弱りそこなはれて、あるかなきかのけしきにて臥したまへるさま、いとらうたげに心苦しげなり。御髪の乱れたる筋すぢもなく、はらはらとかかれる枕のほど、ありがたきまで見ゆれば、年ごろ、何ごとを飽かぬことありて思おもひつらむと、あやしきまでうちまもられたまふ。

「院ゐんなどに参りて、いととうまかでなむ。かやうにて、おぼつかなからず見たてまつらば、うれしかるべきを、宮のつとおはするに、心ここ地ちなくやと、つつみて過ぐしつるも苦しきを、なほやうやう心強く思おぼしなして、例の御座所にこそ。あまり若くもてなしたまへば、かたへは、かくもものしたまふぞ」

　など、聞こえおきたまひて、いときよげにうち装束さうぞくきて出いでたまふを、常よりは目とどめて、見出いだして臥したまへり。秋の司召あるべき定めにて、大おほい殿とのも参りたまへば、君達もいたはり望みたまふことどもありて、殿の御あたり離れたまはねば、皆ひき続き出いでたまひぬ。

　殿の内、人少なにしめやかなるほどに、にはかに例の御胸をせきあげて、いといたう惑ひたまふ。内裏うちに御消息聞こえたまふほどもなく、絶え入りたまひぬ。足を空にて、誰も誰も、まかでたまひぬれば、除目の夜なりけれど、かくわりなき御障りなれば、みな事破れたるやうなり。ののしり騒ぐほど、夜中ばかりなれば、山の座主ざす、何くれの僧都たちも、え請じあへたまはず。今はさりともと思おもひたゆみたりつるに、あさましければ、殿の内の人、ものにぞあたる。所々の御とぶらひの使など、立ちこみたれど、え聞こえつかず、ゆすりみちて、いみじき御心惑ひども、いと恐ろしきまで見えたまふ。

　御もののけのたびたび取り入れたてまつりしを思おぼして、御枕などもさながら、二、三日見たてまつりたまへど、やうやう変はりたまふことどものあれば、限り、と思おぼし果つるほど、誰も誰もいといみじ。

　大たい将しやう殿は、悲しきことにことを添そへて、世の中をいと憂うきものに思おぼし染みぬれば、ただならぬ御あたりのとぶらひどもも、心憂しとのみぞ、なべて思おぼさるる。院ゐんに思おぼし嘆き、とぶらひきこえさせたまふさま、かへりて面立たしげなるを、嬉しき瀬もまじりて、大臣は御涙のいとまなし。人の申すに従ひて、いかめしきことどもを、生きや返かへりたまふと、さまざまに残ることなく、かつ損なはれたまふことどものあるを見る見るも、尽きせず思おぼし惑へど、かひなくて日ごろになれば、いかがはせむとて、鳥とり部野べのに率ゐてたてまつるほど、いみじげなること多おほかり。

　こなたかなたの御送りの人ども、寺々の念仏僧ねんぶつそうなど、そこら広き野に所もなし。院ゐんをばさらにも申さず、后の宮、春宮とうぐうなどの御使、さらぬ所々のも参りちがひて、飽かずいみじき御とぶらひを聞こえたまふ。大臣はえ立ち上がりたまはず、

「かかる齢よはひ/rt>の末に、若く盛りの子に後のちれたてまつりて、もごよふこと」

　と恥ぢ泣きたまふを、ここらの人悲しう見たてまつる。夜もすがらいみじうののしりつる儀式なれど、いともはかなき御屍ばかりを御名残にて、暁深く帰りたまふ。常のことなれど、人一人か、あまたしも見たまはぬことなればにや、類ひなく思おぼし焦がれたり。八月二十余日の有明なれば、空もけしきもあはれ少なからぬに、大臣の闇に暮れ惑ひたまへるさまを見たまふも、ことわりにいみじければ、空のみ眺められたまひて、

「のぼりぬる煙けぶりはそれとわかねどもなべて雲くも居ゐのあはれなるかな」

　殿におはし着きて、つゆまどろまれたまはず。年ごろの御ありさまを思おぼし出いでつつ、などて、つひにはおのづから見直したまひてむと、のどかに思おもひて、なほざりのすさびにつけても、つらしとおぼえられたてまつりけむ、世を経て、疎うとく恥づかしきものに思おもひて過ぎ果てたまひぬる、など、悔しきこと多おほく、思おぼし続けらるれど、かひなし。にばめる御衣たてまつれるも、夢の心ここ地ちして、われ先立たましかば、深くぞ染めたまはましと思おぼすさへ、

「限りあれば薄墨うすずみ衣ころも浅けれど涙ぞ袖を淵となしける」

　とて、念ねん誦ずしたまへるさま、いとどなまめかしさまさりて、経忍しのびやかに誦みたまひつつ、「法界三昧普賢大士ほふかいさんまいふげんたいし」とうちのたまへる、行ひ馴れたる法師よりはけなり。若君を見たてまつりたまふにも、「何に忍しのぶの」と、いとど露けけれど、かかる形見さへなからましかばと、思おぼし慰なぐさむ。

　宮はしづみ入りて、そのままに起き上がりたまはず、危ふげに見えたまふを、また思おぼし騒ぎて、御祈りなどせさせたまふ。はかなう過ぎゆけば、御わざのいそぎなどせさせたまふも、思おぼしかけざりしことなれば、尽きせずいみじうなむ。なのめにかたほなるをだに、人の親はいかが思おもふめる、ましてことわりなり。また、類ひおはせぬをだに、さうざうしく思おぼしつるに、袖の上の玉の砕けたりけむよりも、あさましげなり。

　大たい将しやうの君は、二条院ゐんにだに、あからさまにも渡りたまはず、あはれに心深う思おもひ嘆きて、行ひをまめにしたまひつつ、明かし暮らしたまふ。所々には、御文ばかりぞたてまつりたまふ。かの御息所は、斎宮さいくうは左衛門の司に入りたまひにければ、いとどいつくしき御きよまはりにことつけて、聞こえも通ひたまはず。憂しと思おもひ染みにし世も、なべて厭はしうなりたまひて、かかるほだしだに添そはざらましかば、願はしきさまにもなりなましと思おぼすには、まづ対の姫君の、さうざうしくてものしたまふらむありさまぞ、ふと思おぼしやらるる。

　夜は、御帳の内に一人臥したまふに、宿直とのゐの人びとは近うめぐりてさぶらへど、かたはら寂しくて、「時しもあれ」と寝覚めがちなるに、声すぐれたる限り選りさぶらはせたまふ念仏の暁方など、忍しのびがたし。

　深き秋のあはれまさりゆく風の音、身にしみけるかなと、ならはぬ御独寝ひとりねに明かしかねたまへる朝ぼらけの霧りわたれるに、菊のけしきばめる枝に、濃き青鈍あをにびの紙なる文つけて、さし置きて往いにけり。今めかしうもとて、見たまへば、御息所の御手なり。

「聞こえぬほどは、思おぼし知るらむや。人の世をあはれと聞くも露けきに後のちるる袖を思おもひこそやれ。ただ今の空に思おもひたまへあまりてなむ」

　とあり。常よりも優にも書いたまへるかなと、さすがに置きがたう見たまふものから、つれなの御とぶらひやと心憂し。さりとて、かき絶え音なう聞こえざらむもいとほしく、人の御名の朽ちぬべきことを思おぼし乱る。過ぎにし人は、とてもかくても、さるべきにこそはものしたまひけめ、何にさることを、さださだとけざやかに見聞きけむと悔しきは、わが御心ながら、なほえ思おぼし直すまじきなめりかし。斎宮さいくうの御きよまはりもわづらはしくやなど、久しう思おもひわづらひたまへど、わざとある御返かへりなくは、情けなくやとて、紫のにばめる紙に、

「こよなうほど経はべりにけるを、思おもひたまへおこたらずながら、つつましきほどは、さらば、思おぼし知るらむやとてなむ。とまる身も消えしもおなじ露の世に心置くらむほどぞはかなき。かつは思おぼし消ちてよかし。御覧ぜずもやとて、誰たれにも」

　と聞こえたまへり。

　里におはするほどなりければ、忍しのびて見たまひて、ほのめかしたまへるけしきを、心の鬼にしるく見たまひて、さればよと思おぼすも、いといみじ。なほ、いと限りなき身の憂さなりけり。かやうなる聞こえありて、院ゐんにもいかに思おぼさむ、故前坊せんばうの、同じき御はらからといふなかにも、いみじう思おもひかはしきこえさせたまひて、この斎宮さいくうの御ことをも、ねむごろに聞こえつけさせたまひしかば、その御代はりにも、やがて見たてまつり扱はむなど、常にのたまはせて、やがて内裏うち住みしたまへと、たびたび聞こえさせたまひしをだに、いとあるまじきこと、と思おもひ離れにしを、かく心よりほかに若々しきもの思おもひをして、つひに憂うき名をさへ流し果てつべきこと、と、思おぼし乱るるに、なほ例のさまにもおはせず。さるは、おほかたの世につけて、心にくくよしある聞こえありて、昔より名高くものしたまへば、野の宮の御移ろひのほどにも、をかしう今めきたること多おほくしなして、殿上てんじやう人どもの好ましきなどは、朝夕の露分けありくを、そのころの役になむする、など聞きたまひても、大たい将しやうの君は、ことわりぞかし。ゆゑは飽くまでつきたまへるものを。もし、世の中に飽き果てて下りたまひなば、さうざうしくもあるべきかなと、さすがに思おぼされけり。

　御法事など過ぎぬれど、正日まではなほ籠もりおはす。ならはぬ御つれづれを心苦しがりたまひて、三位中将は常に参りたまひつつ、世の中の御物語など、まめやかなるも、また例の乱りがはしきことをも聞こえ出いでつつ、慰なぐさめきこえたまふに、かの内侍ぞ、うち笑ゑひたまふくさはひにはなるめる。大たい将しやうの君は、

「あな、いとほしや。祖母殿の上、ないたう軽めたまひそ」

　といさめたまふものから、常にをかしと思おぼしたり。かの十六夜のさやかならざりし秋のことなど、さらぬも、さまざまの好色事どもを、かたみに隈くまなく言ひあらはしたまふ果て果ては、あはれなる世を言ひ言ひてうち泣きなどもしたまひけり。

　時雨うちして、ものあはれなる暮つ方、中将の君、鈍色の直衣、指貫、うすらかに衣がへして、いと雄々しうあざやかに、心恥づかしきさまして参りたまへり。君は、西のつまの高欄におしかかりて、霜枯れの前栽見たまふほどなりけり。風荒らかに吹き、時雨さとしたるほど、涙もあらそふ心ここ地ちして、

「雨となり雲とやなりにけむ、今は知らず」

　と、うちひとりごちて、頬杖つきたまへる御さま、女をんなにては、見捨てて亡くならむ魂かならずとまりなむかしと、色めかしき心ここ地ちに、うちまもられつつ、近うついゐたまへれば、しどけなくうち乱れたまへるさまながら、紐ばかりをさし直したまふ。これは、今すこしこまやかなる夏の御直衣に、紅のつややかなるひき重ねて、やつれたまへるしも、見ても飽かぬ心ここ地ちぞする。中将も、いとあはれなるまみに眺めたまへり。

「雨となりしぐるる空の浮雲をいづれの方とわきて眺めむ。行方なしや」

　と、独り言のやうなるを、

「見し人の雨となりにし雲くも居ゐさへいとど時雨にかき暮らすころ」

　とのたまふ御けしきも、浅からぬほどしるく見ゆれば、あやしう、年ごろはいとしもあらぬ御心ざしを、院ゐんなど、居立ちてのたまはせ、大臣の御もてなしも心苦しう、大宮おほみやの御方ざまに、もて離るまじきなど、かたがたにさしあひたれば、えしもふり捨てたまはで、もの憂げなる御けしきながら、あり経たまふなめりかしと、いとほしう見ゆる折々ありつるを、まことに、やむごとなく重きかたは、ことに思おもひきこえたまひけるなめり、と見知るに、いよいよ口惜しうおぼゆ。よろづにつけて光失せぬる心ここ地ちして、屈じいたかりけり。

　枯れたる下草のなかに、龍胆、撫子などの、咲き出いでたるを折らせたまひて、中将の立ちたまひぬる後のちに、若君の御乳母めのとの宰相の君して、

「草枯れのまがきに残る撫子を別れし秋のかたみとぞ見る。にほひ劣りてや御覧ぜらるらむ」

　と聞こえたまへり。げに何心なき御笑ゑみ顔ぞ、いみじううつくしき。宮は、吹く風につけてだに、木の葉よりけにもろき御涙は、まして、とりあへたまはず。

「今も見てなかなか袖を朽たすかな垣ほ荒れにし大和撫子」

　なほ、いみじうつれづれなれば、朝顔あさがほの宮に、今日けふのあはれは、さりとも見知りたまふらむ、と推し量らるる御心ばへなれば、暗きほどなれど、聞こえたまふ。絶え間遠けれど、さのものとなりにたる御文なれば、咎なくて御覧ぜさす。空の色したる唐の紙に、

「わきてこの暮こそ袖は露けけれもの思おもふ秋はあまた経ぬれど。いつも時雨は」

　とあり。御手などの心とどめて書きたまへる、常よりも見どころありて、「過ぐしがたきほどなり」と人も聞こえ、みづからも思おぼされければ、

「大内山を、思おもひやりきこえながら、えやは」とて、

「秋霧に立ちおくれぬと聞きしよりしぐるる空もいかがとぞ思おもふ」

　とのみ、ほのかなる墨つきにて、思おもひなし心にくし。何ごとにつけても、見まさりはかたき世なめるを、つらき人しもこそと、あはれにおぼえたまふ人の御心ざまなる。つれなながら、さるべき折々のあはれを過ぐしたまはぬ、これこそ、かたみに情けも見果つべきわざなれ。なほ、ゆゑづきよしづきて、人目に見ゆばかりなるは、あまりの難も出いで来けり。対の姫君を、さは生ほし立てじと思おぼす。つれづれにて恋しと思おもふらむかしと、忘るる折なけれど、ただ女をんな親なき子を、置きたらむ心ここ地ちして、見ぬほど、うしろめたく、いかが思おもふらむとおぼえぬぞ、心やすきわざなりける。

　暮れ果てぬれば、御殿油近く参らせたまひて、さるべき限りの人びと、御ご前ぜんにて物語などせさせたまふ。中納言の君といふは、年ごろ忍しのび思おぼししかど、この御思おもひのほどは、なかなかさやうなる筋すぢにもかけたまはず。あはれなる御心かなと見たてまつる。おほかたにはなつかしううち語らひたまひて、

「かう、この日ごろ、ありしよりけに、誰も誰も紛るるかたなく、見なれ見なれて、えしも常にかからずは、恋しからじや。いみじきことをばさるものにて、ただうち思おもひめぐらすこそ、耐へがたきこと多おほかりけれ」

　とのたまへば、いとどみな泣きて、

「いふかひなき御ことは、ただかきくらす心ここ地ちしはべるは、さるものにて、名残なきさまにあくがれ果てさせたまはむほど、思おもひたまふるこそ」

　と、聞こえもやらず。あはれと見わたしたまひて、

「名残なくは、いかがは。心浅くも取りなしたまふかな。心長き人だにあらば、見果てたまひなむものを。命こそはかなけれ」

　とて、燈をうち眺めたまへるまみの、うち濡れたまへるほどぞめでたき。とりわきてらうたくしたまひし小さき童の、親どももなく、いと心細げに思おもへる、ことわりに見たまひて、

「あてきは、今は我をこそは思おもふべき人なめれ」

　とのたまへば、いみじう泣く。ほどなき衵、人よりは黒う染めて、黒き汗衫かざみ、萱草の袴はかまなど着たるも、をかしき姿なり。

「昔を忘れざらむ人は、つれづれを忍しのびても、幼をさななき人を見捨てず、ものしたまへ。見し世の名残なく、人びとさへ離れなば、たづきなさもまさりぬべくなむ」

　など、みな心長かるべきことどもをのたまへど、いでや、いとど待遠にぞなりたまはむと思おもふに、いとど心細し。大おほい殿とのは、人々に、際々、ほど置きつつ、はかなきもてあそびものども、また、まことにかの御形見なるべきものなど、わざとならぬさまに取りなしつつ、皆配らせたまひけり。

　君は、かくてのみも、いかでかはつくづくと過ぐしたまはむとて、院ゐんへ参りたまふ。御車さし出いでて、御ご前ぜんなど参り集るほど、折知り顔なる時雨うちそそきて、木の葉さそふ風、あわたたしう吹き払ひたるに、御ご前ぜんにさぶらふ人びと、ものいと心細くて、すこし隙ひまありつる袖ども湿ひわたりぬ。夜さりは、やがて二条院ゐんに泊りたまふべしとて、侍ひの人びとも、かしこにて待ちきこえむとなるべし、おのおの立ち出いづるに、今日けふにしもとぢむまじきことなれど、またなくもの悲し。大臣も宮も、今日けふのけしきに、また悲しさ改めて思おぼさる。宮の御ご前ぜんに御消息聞こえたまへり。

「院ゐんにおぼつかながりのたまはするにより、今日けふなむ参りはべる。あからさまに立ち出いではべるにつけても、今日けふまでながらへはべりにけるよと、乱り心ここ地ちのみ動きてなむ、聞こえさせむもなかなかにはべるべければ、そなたにも参りはべらぬ」

　とあれば、いとどしく宮は、目も見えたまはず、沈み入りて、御返かへりも聞こえたまはず。大臣ぞ、やがて渡りたまへる。いと堪へがたげに思おぼして、御袖も引き放ちたまはず。見たてまつる人びともいと悲し。

　大たい将しやうの君は、世を思おぼしつづくること、いとさまざまにて、泣きたまふさま、あはれに心深きものから、いとさまよくなまめきたまへり。大臣、久しうためらひたまひて、

「齢よはひ/rt>のつもりには、さしもあるまじきことにつけてだに、涙もろなるわざにはべるを、まして、干る世なう思おもひたまへ惑はれはべる心を、えのどめはべらねば、人目も、いと乱りがはしう、心弱きさまにはべるべければ、院ゐんなどにも参りはべらぬなり。ことのついでには、さやうにおもむけ奏せさせたまへ。いくばくもはべるまじき老いの末に、うち捨てられたるが、つらうもはべるかな」

　と、せめて思おもひ静めてのたまふけしき、いとわりなし。君も、たびたび鼻うちかみて、

「後のちれ先立つほどの定めなさは、世のさがと見たまへ知りながら、さしあたりておぼえはべる心惑ひは、類ひあるまじきわざとなむ。院ゐんにも、ありさま奏しはべらむに、推し量らせたまひてむ」と聞こえたまふ。

「さらば、時雨も隙ひまなくはべるめるを、暮れぬほどに」と、そそのかしきこえたまふ。

　うち見まはしたまふに、御み几帳きやうの後のち、障子のあなたなどのあき通りたるなどに、女をんな房三十人ばかりおしこりて、濃き、薄き鈍色どもを着つつ、皆いみじう心細げにて、うちしほたれつつゐ集りたるを、いとあはれ、と見たまふ。

「思おぼし捨つまじき人もとまりたまへれば、さりとも、もののついでには立ち寄らせたまはじやなど、慰なぐさめはべるを、ひとへに思おもひやりなき女をんな房などは、今日けふを限りに、思おぼし捨てつる故里と思おもひ屈じて、長く別れぬる悲しびよりも、ただ時々馴れ仕つかうまつる年月の名残なかるべきを、嘆きはべるめるなむ、ことわりなる。うちとけおはしますことははべらざりつれど、さりともつひにはと、あいな頼めしはべりつるを。げにこそ、心細き夕べにはべれ」とても、泣きたまひぬ。

「いと浅はかなる人びとの嘆きにもはべるなるかな。まことに、いかなりともと、のどかに思おもひたまへつるほどは、おのづから御目離るる折もはべりつらむを、なかなか今は、何を頼みにてかはおこたりはべらむ。今御覧じてむ」

　とて出いでたまふを、大臣見送りきこえたまひて、入りたまへるに、御しつらひよりはじめ、ありしに変はることもなけれど、空蝉のむなしき心ここ地ちぞしたまふ。

　御帳の前に、御硯などうち散らして、手習ひ捨てたまへるを取りて、目をおししぼりつつ見たまふを、若き人びとは、悲しきなかにも、ほほ笑ゑむあるべし。あはれなる古言ども、唐のも大和のも書きけがしつつ、草にも真名にも、さまざまめづらしきさまに書き混ぜたまへり。

「かしこの御手や」

　と、空を仰おほぎて眺めたまふ。よそ人に見たてまつりなさむが惜しきなるべし。「旧ふき枕故き衾、誰と共にか」とある所に、

「なき魂ぞいとど悲しき寝し床のあくがれがたき心ならひに」

　また、「霜の花白し」とある所に、

「君なくて塵つもりぬる常夏の露うち払ひいく夜寝ぬらむ」

　一日の花なるべし、枯れて混じれり。宮に御覧ぜさせたまひて、

「いふかひなきことをばさるものにて、かかる悲しき類ひ、世になくやはと、思おもひなしつつ、契り長からで、かく心を惑はすべくてこそはありけめと、かへりてはつらく、前の世を思おもひやりつつなむ、覚ましはべるを、ただ、日ごろに添そへて、恋しさの堪へがたきと、この大たい将しやうの君の、今はとよそになりたまはむなむ、飽かずいみじく思おもひたまへらるる。一日、二日も見えたまはず、かれがれにおはせしをだに、飽かず胸いたく思おもひはべりしを、朝夕の光失ひては、いかでかながらふべからむ」

　と、御声もえ忍しのびあへたまはず泣いたまふに、御ご前ぜんなるおとなおとなしき人など、いと悲しくて、さとうち泣きたる、そぞろ寒き夕べのけしきなり。若き人々は、所々に群れゐつつ、おのがどち、あはれなることどもうち語らひて、

「殿の思おぼしのたまはするやうに、若君を見たてまつりてこそは、慰なぐさむべかめれと思おもふも、いとはかなきほどの御形見にこそ」とて、おのおの、

「あからさまにまかでて、参らむ」

　と言ふもあれば、かたみに別れ惜しむほど、おのがじしあはれなることども多おほかり。

　院ゐんへ参りたまへれば、

「いといたう面痩せにけり。精進にて日を経るけにや」

　と、心苦しげに思おぼし召して、御ご前ぜんにて物など参らせたまひて、とやかくやと思おぼし扱ひきこえさせたまへるさま、あはれにかたじけなし。中宮の御方に参りたまへれば、人びと、めづらしがり見たてまつる。命婦の君して、

「思おもひ尽きせぬことどもを、ほど経るにつけてもいかに」

　と、御消息聞こえたまへり。

「常なき世は、おほかたにも思うたまへ知りにしを、目に近く見はべりつるに、厭はしきこと多おほく思うたまへ乱れしも、たびたびの御消息に慰なぐさめはべりてなむ、今日けふまでも」

　とて、さらぬ折だにある御けしき取り添そへて、いと心苦しげなり。無紋もんの表うへの御衣に、鈍色の御下した襲がさね、纓巻きたまへるやつれ姿、はなやかなる御装ひよりも、なまめかしさまさりたまへり。春宮とうぐうにも久しう参らぬおぼつかなさなど、聞こえたまひて、夜更けてぞ、まかでたまふ。

　二条院ゐんには、方々払ひみがきて、男を女をんな、待ちきこえたり。上臈ども皆参まう上りて、我も我もと装束さうぞくき、化粧じたるを見るにつけても、かのゐ並み屈じたりつるけしきどもぞ、あはれに思おもひ出いでられたまふ。御装束さうぞくたてまつり替へて、西の対に渡りたまへり。衣更への御しつらひ、くもりなくあざやかに見えて、よき若人童女をんなの、形、姿めやすくととのへて、少納言がもてなし、心もとなきところなう、心にくし、と見たまふ。

　姫君、いとうつくしうひきつくろひておはす。

「久しかりつるほどに、いとこよなうこそ大人びたまひにけれ」

　とて、小さき御み几帳きやうひき上げて見たてまつりたまへば、うちそばみて笑ゑひたまへる御さま、飽かぬところなし。火影の御かたはらめ、頭つきなど、ただ、かの心尽くしきこゆる人に、違ふところなくなりゆくかな、と見たまふに、いとうれし。近く寄りたまひて、おぼつかなかりつるほどのことどもなど聞こえたまひて、

「日ごろの物語、のどかに聞こえまほしけれど、忌ま忌ましうおぼえはべれば、しばし異方にやすらひて、参り来む。今は、とだえなく見たてまつるべければ、いとはしうさへや思おぼされむ」

　と、語らひきこえたまふを、少納言はうれしと聞くものから、なほ危ふく思おもひきこゆ。やむごとなき忍しのび所多おほうかかづらひたまへれば、またわづらはしきや立ち代はりたまはむと思おもふぞ、憎き心なるや。

　御方に渡りたまひて、中将の君といふ、御足など参りすさびて、大おほい殿との籠もりぬ。朝には、若君の御もとに御文たてまつりたまふ。あはれなる御返かへりを見たまふにも、尽きせぬことどものみなむ。いとつれづれに眺めがちなれど、何となき御歩ありきも、もの憂うく思おぼしなられて、思おぼしも立たれず。

　姫君の、何ごともあらまほしうととのひ果てて、いとめでたうのみ見えたまふを、似げなからぬほどに、はた、見なしたまへれば、けしきばみたることなど、折々聞こえ試みたまへど、見も知りたまはぬけしきなり。つれづれなるままに、ただこなたにて碁打ち、偏つぎなどしつつ、日を暮らしたまふに、心ばへのらうらうじく愛敬あいぎやうづき、はかなき戯れごとのなかにも、うつくしき筋すぢをし出いでたまへば、思おぼし放ちたる年月こそ、たださるかたのらうたさのみはありつれ、しのびがたくなりて、心苦しけれど、いかがありけむ、人のけぢめ見たてまつりわくべき御仲にもあらぬに、男を君はとく起きたまひて、女をんな君はさらに起きたまはぬ朝あり。人々、

「いかなれば、かくおはしますならむ。御心ここ地ちの例ならず思おぼさるるにや」

　と、見たてまつり嘆くに、君は渡りたまふとて、御硯の箱を、御帳のうちにさし入れておはしにけり。人間にからうして頭もたげたまへるに、引き結びたる文、御枕のもとにあり。何心もなく、ひき開けて見たまへば、

「あやなくも隔てけるかな夜をかさねさすがに馴れし夜の衣を」

　と、書きすさびたまへるやうなり。かかる御心おはすらむとは、かけても思おぼし寄らざりしかば、などてかう心憂かりける御心を、うらなく頼もしきものに思おもひきこえけむと、あさましう思おぼさる。

　昼つかた、渡りたまひて、

「悩ましげにしたまふらむは、いかなる御心ここ地ちぞ。今日けふは、碁も打たで、さうざうしや」

　とて、覗きたまへば、いよいよ御衣ひきかづきて臥したまへり。人々は退のきつつさぶらへば、寄りたまひて、

「などかくいぶせき御もてなしぞ。思おもひのほかに心憂うくこそおはしけれな。人もいかにあやしと思おもふらむ」

　とて、御衾をひきやりたまへれば、汗におしひたして、額ひたひ髪もいたう濡れたまへり。

「あなうたて。これはいとゆゆしきわざぞよ」

　とて、よろづにこしらへきこえたまへど、まことに、いとつらしと思おもひたまひて、つゆの御いらへもしたまはず。

「よしよし。さらに見えたてまつらじ。いと恥づかし」

　など怨ゑじたまひて、御硯開けて見たまへど、物もなければ、若の御ありさまやと、らうたく見たてまつりたまひて、日一日、入りゐて、慰なぐさめきこえたまへど、解けがたき御けしき、いとどらうたげなり。

　その夜さり、亥の子餅参らせたり。かかる御思おもひのほどなれば、ことことしきさまにはあらで、こなたばかりに、をかしげなる桧破籠ひわりこなどばかりを、色々にて参れるを見たまひて、君、南のかたに出いでたまひて、惟光これみつを召して、

「この餅、かう数々に所狭きさまにはあらで、明日の暮れに参らせよ。今日けふは忌ま忌ましき日なりけり」

　と、うちほほ笑ゑみてのたまふ御けしきを、心とき者にて、ふと思おもひ寄りぬ。惟光これみつ、たしかにも承らで、

「げに愛敬あいぎやうの初めは、日選りして聞こし召すべきことにこそ。さても、子の子はいくつか仕つかうまつらすべうはべらむ」と、まめだちて申せば、

「三つが一つかにてもあらむかし」

　とのたまふに、心得果てて、立ちぬ。もの馴れのさまや、と君は思おぼす。人にも言はで、手づからといふばかり、里にてぞ、作りゐたりける。

　君は、こしらへわびたまひて、今はじめ盗みもて来たらむ人の心ここ地ちするも、いとをかしくて、年ごろあはれと思おもひきこえつるは、片端にもあらざりけり、人の心こそうたてあるものはあれ、今は一夜も隔てむことのわりなかるべきこと、と思おぼさる。のたまひし餅、忍しのびて、いたう夜更かして持て参れり。少納言はおとなしくて、恥づかしくや思おぼさむと、思おもひやり深く心しらひて、娘の弁といふを呼び出いでて、

「これ、忍しのびて参らせたまへ」とて、香か壺の筥を一つ、さし入れたり。

「たしかに、御枕上に参らすべき祝ひの物にはべる。あな、かしこ。あだにな」と言へば、あやしと思おもへど、

「あだなることは、まだならはぬものを」とて取れば、

「まことに、今はさる文字忌ませたまへよ。よも混じりはべらじ」

　と言ふ。若き人にて、けしきもえ深く思おもひ寄らねば、持て参りて、御枕上の御み几帳きやうよりさし入れたるを、君ぞ、例の聞こえ知らせたまふらむかし。

　人はえ知らぬに、翌朝、この筥をまかでさせたまへるにぞ、親しき限りの人々、思おもひ合はすることどもありける。御皿どもなど、いつのまにかし出いでけむ。花足いときよらにして、餅のさまも、ことさらび、いとをかしう調へたり。少納言は、いと、かうしもやとこそ思おもひきこえさせつれ、あはれにかたじけなく、思おぼしいたらぬことなき御心ばへを、まづうち泣かれぬ。

「さても、うちうちにのたまはせよな。かの人も、いかに思おもひつらむ」と、ささめきあへり。

　かくて後のちは、内裏うちにも院ゐんにも、あからさまに参りたまへるほどだに、静心なく、面影に恋しければ、あやしの心やと、我ながら思おぼさる。通ひたまひし所々よりは、うらめしげにおどろかしきこえたまひなどすれば、いとほしと思おぼすもあれど、新手枕にひたまくらの心苦しくて、夜をや隔てむと、思おぼしわづらはるれば、いともの憂うくて、悩ましげにのみもてなしたまひて、

「世の中のいと憂うくおぼゆるほど過ぐしてなむ、人にも見えたてまつるべき」とのみいらへたまひつつ、過ぐしたまふ。

　今いま后きさきは、御匣殿みくしげどの、なほこの大たい将しやうにのみ心つけたまへるを、

「げにはた、かくやむごとなかりつる方も失せたまひぬめるを、さてもあらむに、などか口惜しからむ」

　など、大臣のたまふに、いと憎しと思おもひきこえたまひて、

「宮仕へも、をさをさしくだにしなしたまへらば、などか悪しからむ」

　と、参らせたてまつらむことを思おぼしはげむ。君も、おしなべてのさまにはおぼえざりしを、口惜しとは思おぼせど、ただ今はことざまに分くる御心もなくて、何かは、かばかり短かめる世に。かくて思おもひ定まりなむ。人の怨みも負ふまじかりけりと、いとど危ふく思おぼし懲りにたり。

　かの御息所はいといとほしけれど、まことのよるべと頼みきこえむには、かならず心おかれぬべし、年ごろのやうにて見過ぐしたまはば、さるべき折ふしにもの聞こえあはする人にてはあらむなど、さすがに、ことのほかには思おぼし放たず。

　この姫君を、今まで世人もその人とも知りきこえぬも、物げなきやうなり。父宮に知らせきこえてむと、思おもほしなりて、御裳も着のこと、人にあまねくはのたまはねど、なべてならぬさまに思おぼしまうくる御用意など、いとありがたけれど、女をんな君は、こよなう疎うとみきこえたまひて、年ごろよろづに頼みきこえて、まつはしきこえけるこそ、あさましき心なりけれと、悔しうのみ思おぼして、さやかにも見合はせたてまつりたまはず、聞こえ戯れたまふも、苦しうわりなきものに思おぼしむすぼほれて、ありしにもあらずなりたまへる御ありさまを、をかしうもいとほしうも思おぼされて、

「年ごろ、思おもひきこえし本意なく、馴れはまさらぬ御けしきの、心憂うきこと」と、怨みきこえたまふほどに、年も返かへりぬ。

　朔日ついたちの日は、例の、院ゐんに参りたまひてぞ、内裏うち、春宮とうぐうなどにも参りたまふ。それより大おほい殿とのにまかでたまへり。大臣、新しき年ともいはず、昔の御ことども聞こえ出いでたまひて、さうざうしく悲しと思おぼすに、いとどかくさへわたりたまへるにつけて、念じ返かへしたまへど、堪へがたう思おぼしたり。御年の加はるけにや、ものものしきけさへ添そひたまひて、ありしよりけに、きよらに見えたまふ。立ち出いでて、御方に入りたまへれば、人びともめづらしう見たてまつりて、忍しのびあへず。若君見たてまつりたまへば、こよなうおよすけて、笑ゑひがちにおはするも、あはれなり。まみ、口つき、ただ春宮とうぐうの御同じさまなれば、人もこそ見たてまつりとがむれと見たまふ。御しつらひなども変はらず、御衣掛の御装束さうぞくなど、例のやうにし掛けられたるに、女をんなのが並ばぬこそ、栄はえなくさうざうしく栄はえなけれ。