思へどもなほ飽かざりし夕顔の露におくれし心地を、年月経れどおぼし忘れず、ここもかしこも、うちとけぬ限りの、けしきばみ心深き方の御いどましさに、け近くうちとけたりしあはれに似る物なう恋しく思ほえたまふ。
いかで、ことことしきおぼえはなく、いとらうたげならむ人のつつましき事なからむ、見つけてしかな、と懲りずまにおぼしわたれば、すこしゆゑづきて聞こゆるわたりは御耳とどめたまはぬ隈なきに、さてもや、とおぼし寄るばかりのけはひあるあたりにこそ、一くだりをもほのめかしたまふめるに、なびききこえずもて離れたるはをさをさあるまじきぞ、いと目馴れたるや。つれなう心強きは、たとしへなう情けおくるるまめやかさなど、あまり物のほど知らぬやうに、さてしも過ぐし果てず、名残なくくづほれて、なほなほしき方に定まりなどするもあれば、のたまひさしつるも多かりける。
かの空蝉を、ものの折々にはねたうおぼし出づ。荻の葉も、さりぬべき風のたよりある時は、おどろかしたまふ折もあるべし。火影の乱れたりしさまは、またさやうにても見まほしくおぼす。大方、名残なきもの忘れをぞえしたまはざりける。
左衛門の乳母とて大弐のさしつぎにおぼいたるがむすめ、大輔の命婦とて内裏にさぶらふ、わかむどほりの兵部大輔なるむすめなりけり。いといたう色好める若人にてありけるを、君も召し使ひなどしたまふ。母は筑前守の妻にて下りにければ、父君のもとを里にて行き通ふ。
故常陸親王の、末にまうけていみじうかなしうかしづきたまひし御むすめ、心細くて残りゐたるを、もののついでに語りきこえければ、あはれのことや、とて御心とどめて問ひ聞きたまふ。
「心ばへ、かたちなど、深き方はえ知りはべらず。かいひそめ、人疎うもてなしたまへば、さべき宵など、物越しにてぞ語らひはべる。琴をぞなつかしき語らひ人と思へる」
と聞こゆれば、
「三つの友にて、いま一種やうたてあらむ」
とて、
「我に聞かせよ。父親王のさやうの方にいとよしづきてものしたまうければ、おしなべての手にはあらじ、となむ思ふ」
とのたまへば、
「さやうに聞こし召すばかりにはあらずやはべらむ」
と言へど、御心とまるばかり聞こえなすを、
「いたうけしきばましや。このごろの朧月夜に忍びてものせむ。まかでよ」
とのたまへば、わづらはし、と思へど、内裏わたりものどやかなる春のつれづれにまかでぬ。
父の大輔の君はほかにぞ住みける。ここには時々ぞ通ひける。命婦は、継母のあたりは住みもつかず、姫君の御あたりをむつびて、ここには来るなりけり。
のたまひしもしるく、十六夜の月をかしきほどにおはしたり。
「いとかたはらいたきわざかな。ものの音澄むべき夜のさまにもはべらざめるに」
と聞こゆれど、
「なほあなたに渡りて、ただ一声ももよほしきこえよ。むなしくて帰らむがねたかるべきを」
とのたまへば、うちとけたる住み処に据ゑたてまつりて、うしろめたうかたじけなしと思へど、寝殿に参りたれば、まだ格子もさながら、梅の香をかしきを見出だしてものしたまふ。よき折かな、と思ひて、
「御琴の音、いかにまさりはべらむ、と思ひたまへらるる夜のけしきに誘はれはべりてなむ。心あわたたしき出で入りに、えうけたまはらぬこそ口惜しけれ」
と言へば、
「聞き知る人こそあなれ。百敷に行きかふ人の聞くばかりやは」
とて召し寄するも、あいなう、いかが聞きたまはむと胸つぶる。
ほのかにかき鳴らしたまふ、をかしう聞こゆ。なにばかり深き手ならねど、ものの音がらの筋ことなるものなれば、聞きにくくもおぼされず。いといたう荒れわたりてさびしき所に、さばかりの人の、古めかしうところせくかしづき据ゑたりけむ名残なく、いかに思ほし残す事なからむ、かやうの所にこそは、昔物語にもあはれなる事どもありけれ、など思ひ続けても、物や言ひ寄らましとおぼせど、うちつけにやおぼさむと心恥づかしくて、やすらひたまふ。
命婦、かどある者にて、いたう耳ならさせたてまつらじと思ひければ、
「曇りがちにはべるめり。客人の来むとはべりつる、いとひ顔にもこそ。いま心のどかにを。御格子参りなむ」
とて、いたうもそそのかさで帰りたれば、
「なかなかなるほどにてもやみぬるかな。もの聞き分くほどにもあらで、ねたう」
とのたまふけしき、をかしとおぼしたり。
「同じくは、け近きほどの立ち聞きせさせよ」
とのたまへど、心にくくてと思へば、
「いでや、いとかすかなるありさまに思ひ消えて、心苦しげにものしたまふめるを、うしろめたきさまにや」
と言へば、げにさもある事、にはかに我も人もうちとけて語らふべき人の際は際とこそあれ、などあはれにおぼさるる人の御ほどなれば、
「なほさやうのけしきをほのめかせ」
と語らひたまふ。また契りたまへる方やあらむ、いと忍びて帰りたまふ。
「上の、まめにおはしますともてなやみきこえさせたまふこそ、をかしう思うたまへらるる折々はべれ。かやうの御やつれ姿を、いかでかは御覧じつけむ」
と聞こゆれば、立ち返り、うち笑ひて、
「異人の言はむやうに、咎なあらはされそ。これをあだあだしきふるまひと言はば、女のありさま苦しからむ」
とのたまへば、あまり色めいたりとおぼして、折々かうのたまふを恥づかし、と思ひてものも言はず。
寝殿の方に、人のけはひ聞くやうもやとおぼして、やをら立ち退きたまふ。透垣のただすこし折れ残りたる隠れの方に立ち寄りたまふに、もとより立てるをとこありけり。誰れならむ、心かけたる好き者ありけり、とおぼして、陰につきて立ち隠れたまへば、頭中将なりけり。
この夕つ方、内裏よりもろともにまかでたまひける、やがて大殿にも寄らず、二条院にもあらで引き別れたまひけるを、いづちならむとただならで、我も行く方あれど、あとにつきてうかがひけり。あやしき馬に、狩衣姿のないがしろにて来ければ、え知りたまはぬに、さすがに、かう異方に入りたまひぬれば、心も得ず思ひけるほどに、ものの音に聞きついて立てるに、帰りや出でたまふ、と下待つなりけり。
君は、誰ともえ見分きたまはで、我と知られじと抜き足に歩みたまふに、ふと寄りて、
「ふり捨てさせたまへるつらさに、御送り仕うまつりつるは。
もろともに大内山は出でつれど入る方見せぬいさよひの月」
と恨むるもねたけれど、この君と見たまふ、すこしをかしうなりぬ。
「人の思ひよらぬ事よ」
と憎む憎む、
「里わかぬかげをば見れどゆく月のいるさの山を誰れか尋ぬる
かう慕ひありかば」
「いかにせさせたまはむ」
と聞こえたまふ。
「まことは、かやうの御歩きには、随身からこそはかばかしきこともあるべけれ。おくらさせたまはでこそあらめ。やつれたる御歩きは、軽々しき事も出で来なん」
と、おし返しいさめたてまつる。かうのみ見つけらるるをねたしとおぼせど、かの撫子はえ尋ね知らぬを、重き功に御心のうちに思し出づ。
おのおの契れる方にもあまえて、え行き別れたまはず、一つ車に乗りて、月のをかしきほどに雲隠れたる道のほど、笛吹き合はせて大殿におはしぬ。前駆なども追はせたまはず、忍び入りて、人見ぬ廊に御直衣ども召して着替へたまふ。つれなう、いま来るやうにて、御笛ども吹きすさびておはすれば、大臣、例の聞き過ぐしたまはで、高麗笛取り出でたまへり。いと上手におはすれば、いとおもしろう吹きたまふ。御琴召して、内にも、この方に心得たる人々に弾かせたまふ。
中務の君、わざと琵琶は弾けど、頭の君心かけたるをもて離れて、ただこのたまさかなる御けしきのなつかしきをばえ背ききこえぬに、おのづから隠れなくて、大宮などもよろしからずおぼしなりたれば、もの思はしくはしたなき心地して、すさまじげに寄り臥したり。絶えて見たてまつらぬ所にかけ離れなむも、さすがに心細く思ひ乱れたり。
君たちは、ありつる琴の音をおぼし出でて、あはれげなりつる住まひのさまなども、様変へてをかしう思ひつづけ、あらまし事に、いとをかしうらうたき人の、さて年月を重ねゐたらむ時、見そめていみじう心苦しくは、人にももて騒がるばかりや、わが心もさま悪しからむ、などさへ中将は思ひけり。この君のかうけしきばみありきたまふを、まさにさては過ぐしたまひてむや、となまねたう危ふがりけり。
そののち、こなたかなたより文などやりたまふべし。いづれも返り事見えず、おぼつかなく心やましきに、あまりうたてもあるかな、さやうなる住まひする人は、もの思ひ知りたるけしき、はかなき木草、空のけしきにつけてもとりなしなどして、心ばせ推し測らるる折々あらむこそあはれなるべけれ、重しとても、いとかうあまり埋もれたらむは心づきなく悪びたり、と中将はまいて心いられしけり。例の隔てきこえたまはぬ心にて、
「しかしかの返り事は見たまふや。こころみにかすめたりしこそ、はしたなくてやみにしか」
と憂ふれば、さればよ、言ひ寄りにけるをや、とほほ笑まれて、
「いさ、見むとしも思はねばにや、見るとしもなし」
と答へたまふを、人わきしけると思ふにいとねたし。
君は、深うしも思はぬ事のかう情けなきを、すさまじく思ひなりたまひにしかど、かうこの中将の言ひありきけるを、言多く言ひなれたらむ方にぞなびかむかし。したり顔にて、もとの事を思ひ放ちたらむけしきこそ憂はしかるべけれ、とおぼして、命婦をまめやかに語らひたまふ。
「おぼつかなくもて離れたる御けしきなむいと心憂き。好き好きしき方に疑ひ寄せたまふにこそあらめ。さりとも短き心ばへつかはぬものを。人の心ののどやかなる事なくて、思はずにのみあるになむ、おのづからわが過ちにもなりぬべき。心のどかにて、親はらからのもてあつかひ恨むるもなう心やすからむ人は、なかなかなむらうたかるべきを」
とのたまへば、
「いでや、さやうにをかしき方の御笠宿りにはえしもやと、つきなげにこそ見えはべれ。ひとへにものづつみし、引き入りたる方はしもありがたうものしたまふ人になむ」
と、見るありさま語りきこゆ。
「らうらうじう、かどめきたる心はなきなめり。いと子めかしうおほどかならむこそ、らうたくはあるべけれ」
とおぼし忘れずのたまふ。
わらわ病にわづらひたまひ、人知れぬもの思ひの紛れも、御心の暇なきやうにて春夏過ぎぬ。
秋のころほひ、静かにおぼしつづけて、かの砧の音も耳につきて聞きにくかりしさへ、恋しうおぼし出でらるるままに、常陸宮にはしばしば聞こえたまへど、なほおぼつかなうのみあれば、世づかず心やましう、負けてはやまじの御心さへ添ひて、命婦を責めたまふ。
「いかなるやうぞ。いとかかる事こそまだ知らね」
と、いとものしと思ひてのたまへば、いとほしと思ひて、
「もて離れて、似げなき御事ともおもむけはべらず。ただ大方の御ものづつみのわりなきに、手をえさし出でたまはぬとなむ見たまふる」
と聞こゆれば、
「それこそは世づかぬ事なれ。物思ひ知るまじきほど、独り身をえ心にまかせぬほどこそことわりなれ、何事も思ひしづまりたまへらむと思ふこそ。そこはかとなく、つれづれに心細うのみおぼゆるを、同じ心に答へたまはむは、願ひかなふ心地なむすべき。何やかやと世づける筋ならで、その荒れたる簀子すのこにたたずままほしきなり。いとうたて心得ぬ心地するを、かの御許しなくともたばかれかし。心いられし、うたてあるもてなしにはよもあらじ」
など語らひたまふ。
なほ世にある人のありさまを、大方なるやうにて聞き集め、耳とどめたまふ癖のつきたまへるを、さうざうしき宵居など、はかなきついでに、さる人こそ、とばかり聞こえ出でたりしに、かくわざとがましうのたまひわたれば、なまわづらはしく、女君の御ありさまも、世づかはしくよしめきなどもあらぬを、なかなかなる導きに、いとほしき事や見えむなむど思ひけれど、君のかうまめやかにのたまふに、聞き入れざらむもひがひがしかるべし、父親王おはしける折にだに、古りにたるあたりとて、おとなひきこゆる人もなかりけるを、ましていまは浅茅分くる人も跡絶えたるに、かく世にめづらしき御けはひの漏りにほひくるをば、なま女ばらなども笑みまけて、
「なほ聞こえたまへ」
と、そそのかしたてまつれど、あさましうものづつみしたまふ心にて、ひたぶるに見も入れたまはぬなりけり。
命婦は、さらばさりぬべからん折に、物越しに聞こえたまはむほど、御心につかずはさてもやみねかし。またさるべきにて、仮にもおはし通はむを咎めたまふべき人なし、などあだめきたるはやり心はうち思ひて、父君にもかかる事なども言はざりけり。
八月廿余日、宵過ぐるまで待たるる月の心もとなきに、星の光ばかりさやけく、松の梢吹く風の音心細くて、いにしへの事語り出でてうち泣きなどしたまふ。いとよき折かなと思ひて、御消息や聞こえつらむ、例のいと忍びておはしたり。
月やうやう出でて、荒れたる籬のほどうとましくうち眺めたまふに、琴そそのかされて、ほのかにかき鳴らしたまふほど、けしうはあらず。すこしけ近ういまめきたるけをつけばや、とぞ乱れたる心には、心もとなく思ひゐたる。人目しなき所なれば、心やすく入りたまふ。命婦を呼ばせたまふ。いましもおどろき顔に、
「いとかたはらいたきわざかな。しかしかこそおはしましたなれ。常にかう恨みきこえたまふを、心にかなはぬ由をのみいなびきこえはべれば、『みづからことわりも聞こえ知らせむ』とのたまひわたるなり。いかが聞こえ返さむ。なみなみのたはやすき御ふるまひならねば心苦しきを、物越しにて聞こえたまはむ事聞こしめせ」
と言へば、いと恥づかしと思ひて、
「人にもの聞こえむやうも知らぬを」
とて奥ざまへゐざり入りたまふさま、いとうひうひしげなり。うち笑ひて、
「いと若々しうおはしますこそ心苦しけれ。限りなき人も、親などおはしてあつかひ後見きこえたまふほどこそ、若びたまふもことわりなれ、かばかり心細き御ありさまに、なほ世を尽きせず思しはばかるはつきなうこそ」
と教へきこゆ。
さすがに人の言ふことは強うもいなびぬ御心にて、
「答へきこえで、ただ聞けとあらば、格子など鎖してはありなむ」
とのたまふ。
「簀子などは便なうはべりなむ。おし立ちてあはあはしき御心などは、よも」
などいとよく言ひなして、二間の際なる障子、手づからいと強く鎖して、御褥うち置き引きつくろふ。
いとつつましげにおぼしたれど、かやうの人にもの言ふらむ心ばへなども、夢に知りたまはざりければ、命婦のかう言ふを、あるやうこそはと思ひてものしたまふ。乳母だつ老い人などは、曹司に入り臥して、夕まどひしたるほどなり。若き人、二、三人あるは、世にめでられたまふ御ありさまをゆかしきものに思ひきこえて、心げさうしあへり。よろしき御衣たてまつり替へ、つくろひきこゆれば、正身は、何の心げさうもなくておはす。
をとこはいと尽きせぬ御さまを、うち忍び用意したまへる御けはひ、いみじうなまめきて、見知らむ人にこそ見せめ、はえあるまじきわたりを、あないとほし、と命婦は思へど、ただおほどかにものしたまふをぞ、うしろやすう、さし過ぎたる事は見えたてまつりたまはじ、と思ひける。わが常に責められたてまつる罪さりごとに、心苦しき人の御もの思ひや出で来む、などやすからず思ひゐたり。
君は人の御ほどをおぼせば、されくつがへる今様のよしばみよりは、こよなう奥ゆかしう、とおぼさるるに、いたうそそのかされて、ゐざり寄りたまへるけはひ忍びやかに、衣被の香いとなつかしう薫り出でて、おほどかなるを、さればよ、とおぼす。年ごろ思ひわたるさまなどいとよくのたまひつづくれど、まして近き御答へは絶えてなし。わりなのわざやとうち嘆きたまふ。
「いくそたび君がしじまにまけぬらんものな言ひそと言はぬ頼みに
のたまひも捨ててよかし。玉だすき苦し」
とのたまふ。女君の御乳母子、侍従とてはやりかなる若人、いと心もとなうかたはらいたしと思ひて、さし寄りて聞こゆ。
「鐘つきてとぢめむことはさすがにて答へまうきぞかつはあやなき」
いと若びたる声のことに重りかならぬを、人伝てにはあらぬやうに聞こえなせば、ほどよりはあまえてと聞きたまへど、
「めづらしきが、なかなか口ふたがるわざかな。
言はぬをも言ふにまさると知りながらおしこめたるは苦しかりけり」
何やかやとはかなき事なれど、をかしきさまにも、まめやかにものたまへど、何のかひなし。いとかかるも、さまかはり思ふ方ことにものしたまふ人にや、とねたくて、やをら押し開けて入りたまひにけり。
命婦、あなうたて、たゆめたまへる、といとほしければ、知らず顔にてわが方へ往にけり。この若人どもはた世にたぐひなき御ありさまの音聞きに、罪ゆるしきこえておどろおどろしうも嘆かれず、ただ思ひもよらずにはかにて、さる御心もなきをぞ思ひける。
正身はただ我にもあらず、恥づかしくつつましきよりほかの事またなければ、いまはかかるぞあはれなるかし、まだ世馴れぬ人、うちかしづかれたると見ゆるしたまふものから、心得ず、なまいとほし、おぼゆる御さまなり。
何事につけてかは御心のとまらむ、うちうめかれて、夜深う出でたまひぬ。命婦は、いかならむと目覚めて聞き臥せりけれど、知り顔ならじとて、御送りにとも声づくらず。君も、やをら忍びて出でたまひにけり。
二条院におはしてうち臥したまひても、なほ思ふにかなひがたき世にこそ、とおぼしつづけて、軽らかならぬ人の御ほどを心苦しとぞおぼしける。思ひ乱れておはするに、頭中将おはして、
「こよなき御朝寝かな。ゆゑあらむかしとこそ思ひたまへらるれ」
と言へば、起き上がりたまひて、
「心やすき独り寝の床にてゆるびにけりや。内裏よりか」
とのたまへば、
「しか、まかではべるままなり。朱雀院の行幸、今日なむ、楽人、舞人定めらるべきよし、昨夜うけたまはりしを、大臣にも伝へ申さむとてなむまかではべる。やがて帰り参りぬべうはべる」
と、いそがしげなれば、
「さらば、もろともに」
とて、御粥、強飯召して、客人にも参りたまひて、引き続けたれど、一つにたてまつりて、
「なほ、いとねぶたげなり」
と、咎め出でつつ、
「隠いたまふこと多かり」
とぞ恨みきこえたまふ。
事ども多く定めらるる日にて、内裏にさぶらひ暮らしたまひつ。
かしこには文をだにといとほしくおぼし出でて、夕つ方ぞありける。雨降り出でて所せくもあるに、笠宿りせむとはたおぼされずやありけむ。かしこには待つほど過ぎて、命婦も、いといとほしき御さまかな、と心憂く思ひけり。正身は、御心のうちに恥づかしう思ひたまひて、今朝の御文の暮れぬれど、なかなか咎とも思ひ分きたまはざりけり。
「夕霧の晴るるけしきもまだ見ぬにいぶせさ添ふる宵の雨かな
雲間待ち出でむほど、いかに心もとなう」
とあり。おはしますまじき御けしきを、人びと胸つぶれて思へど、
「なほ聞こえさせたまへ」
と、そそのかしあへれど、いとど思ひ乱れたまへるほどにて、えかたのやうにも続けたまはねば、夜更けぬとて、侍従ぞ例の教へきこゆる。
「晴れぬ夜の月待つ里を思ひやれ同じ心に眺めせずとも」
口々に責められて、紫の紙の年経にければ、灰おくれ古めいたるに、手はさすがに文字強う、中さだの筋にて、上下等しく書いたまへり。見るかひなううち置きたまふ。
いかに思ふらむと思ひやるも安からず。かかることを悔やしなどは言ふにやあらむ。さりとていかがはせむ。我はさりとも心長く見果ててむ、とおぼしなす御心を知らねば、かしこにはいみじうぞ嘆いたまひける。
大臣夜に入りてまかでたまふに、引かれたてまつりて大殿におはしましぬ。行幸のことを興ありと思ほして、君たち集りてのたまひ、おのおの舞ども習ひたまふを、そのころの事にて過ぎゆく。ものの音ども常よりも耳かしかましくて、方々いどみつつ、例の御遊びならず、大篳篥、尺八の笛などの大声を吹き上げつつ、太鼓をさへ高欄のもとにまろばし寄せて、手づから打ち鳴らし、遊びおはさうず。御暇なきやうにて、せちにおぼす所ばかりにこそ盗まはれたまへれ、かのわたりにはいとおぼつかなくて、秋暮れ果てぬ。なほ頼み来しかひなくて過ぎゆく。
行幸近くなりて、試楽などののしるころぞ、命婦は参れる。
「いかにぞ」
など問ひたまひて、いとほしとはおぼしたり。ありさま聞こえて、
「いとかうもて離れたる御心ばへは、見たまふる人さへ心苦しく」
など、泣きぬばかり思へり。心にくくもてなしてやみなむと思へりし事を朽たいてける、心もなくこの人の思ふらむをさへおぼす。正身の、ものは言はでおぼしうづもれたまふらむさま、思ひやりたまふもいとほしければ、
「暇なきほどぞや。わりなし」
と、うち嘆いたまひて、
「もの思ひ知らぬやうなる心ざまを、懲らさむと思ふぞかし」
とほほ笑みたまへる、若ううつくしげなれば、我もうち笑まるる心地して、わりなの、人に恨みられたまふ御齢や、思ひやり少なう、御心のままならむもことわりと思ふ。この御いそぎのほど過ぐしてぞ、時々おはしける。
かの紫のゆかり尋ねとりたまひて、そのうつくしみに心入りたまひて、六条わたりにだに離れまさりたまふめれば、まして荒れたる宿は、あはれにおぼしおこたらずながら、もの憂きぞわりなかりけると、所せき御もの恥ぢを見あらはさむの御心もことになうて過ぎゆくを、またうちかへし、見まさりするやうもありかし、手さぐりのたどたどしきに、あやしう心得ぬ事もあるにや、見てしかな、と思ほせど、けざやかにとりなさむもまばゆし、うちとけたる宵居のほど、やをら入りたまひて、格子のはさまより見たまひけり。
されど、みづからは見えたまふべくもあらず。几帳など、いたく損なはれたるものから、年経にける立ちど変はらず、おしやりなど乱れねば、心もとなくて、御達四、五人ゐたり。御台、秘色やうの唐土のものなれど、人悪ろきに、何のくさはひもなくあはれげなる、まかでて人々食ふ。隅の間ばかりにぞ、いと寒げなる女ばら、白き衣の言ひ知らず煤けたるに、きたなげなる褶引き結ひつけたる腰つき、かたくなしげなり。さすがに櫛おし垂れて挿したる額つき、内教坊、内侍所のほどに、かかるものどもあるはや、とをかし。かけても、人のあたりに近うふるまふものとも知りたまはざりけり。
「あはれ、さも寒き年かな。命長ければ、かかる世にもあふものなりけり」
とてうち泣くもあり。
「故宮おはしましし世を、などてからしと思ひけむ。かく頼みなくても過ぐるものなりけり」
とて飛び立ちぬべくふるふもあり。
さまざまに人悪ろき事どもを、愁へあへるを聞きたまふも、かたはらいたければ立ち退きて、ただ今おはするやうにてうち叩きたまふ。
「そそや」
など言ひて、火とり直し、格子放ちて入れたてまつる。
侍従は斎院に参り通ふ若人にて、この頃はなかりけり。いよいよあやしうひなびたる限りにて、見ならはぬ心地ぞする。
いとど愁ふなりつる雪、かきたれいみじう降りけり。空のけしきはげしう、風吹き荒れて、大殿油消えにけるを、ともしつくる人もなし。かのものに襲はれし折おぼし出でられて、荒れたるさまは劣らざめるを、ほどの狭う、人気のすこしあるなどに慰めたれど、すごう、うたていざとき心地する夜のさまなり。をかしうもあはれにも、様変へて心とまりぬべきありさまを、いと埋れすくよかにて、何のはえなきをぞ口惜しうおぼす。
からうして明けぬるけしきなれば、格子手づから上げたまひて、前の前栽の雪を見たまふ。踏みあけたる跡もなく、はるばると荒れわたりて、いみじう寂しげなるに、ふり出でてゆかむ事もあはれにて、
「をかしきほどの空も見たまへ。尽きせぬ御心の隔てこそわりなけれ」
と、恨みきこえたまふ。まだほの暗けれど、雪の光にいとどきよらに若う見えたまふを、老い人ども笑みさかえて見たてまつる。
「はや、出でさせたまへ。あぢきなし。心うつくしきこそ」
など教へきこゆれば、さすがに人の聞こゆる事をえいなびたまはぬ御心にて、とかう引きつくろひてゐざり出でたまへり。見ぬやうにて外の方を眺めたまへれど、後目はただならず、いかにぞ、うちとけまさりのいささかもあらばうれしからむ、とおぼすも、あながちなる御心なりや。
まづ、居丈の高く、を背長に見えたまふに、さればよ、と胸つぶれぬ。うちつぎて、あなかたはと見ゆるものは鼻なりけり。ふと目ぞとまる。普賢菩薩の乗物とおぼゆ。あさましう高うのびらかに、先の方すこし垂りて色づきたる事、ことのほかにうたてあり。色は雪恥づかしく白うてさをに、額つきこよなうはれたるになほ下がちなる面やうは、大方おどろおどろしう長きなるべし。痩せたまへる事、いとほしげにさらぼひて、肩のほどなどは痛げなるまで衣の上まで見ゆ。何に残りなう見あらはしつらむ、と思ふものから、めづらしきさまのしたれば、さすがにうち見やられたまふ。
頭つき、髪のかかりはしも、うつくしげにめでたしと思ひきこゆる人々にも、をさをさ劣るまじう、袿の裾にたまりて引かれたるほど、一尺ばかり余りたらむと見ゆ。着たまへるものどもをさへ言ひたつるも、もの言ひさがなきやうなれど、昔物語にも人の御装束をこそまづ言ひためれ。聴し色のわりなう上白みたる一襲、 なごりなう黒き袿重ねて、表着には黒貂の皮衣、いときよらに香ばしきを着たまへり。古体のゆゑづきたる御装束なれど、なほ若やかなる女の御よそひには似げなうおどろおどろしき事、いともてはやされたり。されど、げにこの皮なうてはた寒からましと見ゆる御顔ざまなるを、心苦しと見たまふ。
何事も言はれたまはず、我さへ口閉ぢたる心地したまへど、例のしじまも心みむと、とかう聞こえたまふに、いたう恥ぢらひて、口おほひしたまへるさへひなび古めかしう、ことことしく儀式官の練り出でたる肘もちおぼえて、さすがにうち笑みたまへるけしき、はしたなうすずろびたり。いとほしくあはれにて、いとど急ぎ出でたまふ。
「頼もしき人なき御ありさまを見そめたる人には、疎からず思ひむつびたまはむこそ本意ある心地すべけれ。ゆるしなき御けしきなれば、つらう」
などことつけて、
「朝日さす軒の垂氷は解けながらなどかつららの結ぼほるらむ」
とのたまへど、ただ、
「むむ」
とうち笑ひて、いと口重げなるもいとほしければ出でたまひぬ。
御車寄せたる中門の、いといたうゆがみよろぼひて、夜目にこそしるきながらもよろづ隠ろへたる事多かりけれ、いとあはれにさびしく荒れまどへるに、松の雪のみ暖かげに降りつめる、山里の心地してものあはれなるを、かの人々の言ひし葎の門は、かうやうなる所なりけむかし。げに心苦しくらうたげならん人をここに据ゑて、うしろめたう恋しと思はばや。あるまじきもの思ひは、それに紛れなむかし、と思ふやうなる住みかに合はぬ御ありさまは、取るべきかたなし、と思ひながら、我ならぬ人はまして見忍びてむや。わがかうて見馴れけるは、故親王のうしろめたしとたぐへ置きたまひけむ魂のしるべなめ、とぞおぼさるる。
橘の木の埋もれたる、御随身召して払はせたまふ。うらやみ顔に、松の木のおのれ起き返りて、さとこぼるる雪も、名に立つ末の、と見ゆるなどを、いと深からずとも、なだらかなるほどにあひしらはむ人もがな、と見たまふ。
御車出づべき門はまだ開けざりければ、鍵の預かり尋ね出でたれば、翁のいといみじきぞ出で来たる。むすめにや、孫にや、はしたなる大きさの女の、衣は雪にあひて煤けまどひ、寒しと思へるけしき深うて、あやしきものに火をただほのかに入れて袖ぐくみに持たり。翁、門をえ開けやらねば、寄りて引き助くる、いとかたくななり。御供の人、寄りてぞ開けつる。
「降りにける頭の雪を見る人も劣らず濡らす朝の袖かな
幼き者は形蔽れず」
とうち誦じたまひても、花の色に出でて、いと寒しと見えつる御面影、ふと思ひ出でられてほほ笑まれたまふ。頭中将にこれを見せたらむ時、いかなる事をよそへ言はむ、常にうかがひ来れば、今見つけられなむ、と術なうおぼす。
世の常なるほどの、異なる事なさならば、思ひ捨ててもやみぬべきを、さだかに見たまひてのちは、なかなかあはれにいみじくて、まめやかなるさまに、常に訪れたまふ。黒貂の皮ならぬ、絹、綾、綿など、老い人どもの着るべきもののたぐひ、かの翁のためまで、上下おぼしやりてたてまつりたまふ。かやうのまめやか事も恥づかしげならぬを、心やすく、さる方の後見にて育まと思ほしとりて、さまことにさならぬうちとけわざもしたまひけり。
かの空蝉のうちとけたりし宵の側目には、いと悪ろかりしかたちざまなれど、もてなしに隠されて、口惜しうはあらざりきかし。劣るべきほどの人なりやは、げに品にもよらぬわざなりけり。心ばせのなだらかに、ねたげなりしを、負けてやみにしかな、と、ものの折ごとにはおぼし出づ。
年も暮れぬ。内裏の宿直所におはしますに、大輔の命婦参れり。御梳櫛などには、懸想だつ筋なく心やすきものの、さすがにのたまひたはぶれなどして、使ひならしたまへれば、召しなき時も聞こゆべき事ある折は参う上りけり。
「あやしき事のはべるを、聞こえさせざらむもひがひがしう、思ひたまへわづらひて」
と、ほほ笑みて聞こえやらぬを、
「何ざまの事ぞ。我にはつつむ事あらじとなむ思ふ」
とのたまへば、
「いかがは。みづからの愁へは、かしこくともまづこそは。これはいと聞こえさせにくくなむ」
と、いたう言籠めたれば、
「例の、艶なる」
と憎みたまふ。
「かの宮よりはべる御文」
とて取り出でたり。
「まして、これは取り隠すべきことかは」
とて取りたまふも、胸つぶる。
陸奥紙の厚肥えたるに、匂ひばかりは深うしめたまへり。いとよう書きおほせたり。歌も、
「唐衣君が心のつらければ袂はかくぞそほちつつのみ」
心得ずうちかたぶきたまへるに、包みに、衣筥の重りかに古体なる置きておし出でたり。
「これを、いかでかはかたはらいたく思ひたまへざらむ。されど、ついたちの御よそひとてわざとはべるめるを、はしたなうはえ返しはべらず。ひとり引き籠めはべらむも、人の御心違ひはべるべければ、御覧ぜさせてこそは」
と聞こゆれば、
「引き籠められなむは、からかりなまし。 袖まきほさむ人もなき身に、いとうれしき心ざしにこそは」
とのたまひて、ことにもの言はれたまはず。さてもあさましの口つきや、これこそは手づからの御ことの限りなめれ、侍従こそとり直すべかめれ、また筆のしりとる博士ぞなかべき、と言ふかひなくおぼす。心を尽くして詠み出でたまひつらむほどをおぼすに、
「いともかしこき方とは、これをも言ふべかりけり」
と、ほほ笑みて見たまふを、命婦、面赤みて見たてまつる。
今様色の、えゆるすまじく艶なう古めきたる直衣の、裏表ひとしうこまやかなる、いとなほなほしう、つまづまぞ見えたる、あさましおぼすに、この文をひろげながら、端に手習ひすさびたまふを側目に見れば、
「なつかしき色ともなしに何にこの末摘花を袖に触れけむ
色濃き花と見しかども」
など書きけがしたまふ。花の咎めを、なほあるやうあらむと思ひ合はする折々の月影などを、いとほしきものからをかしう思ひなりぬ。
「紅のひと花衣うすくともひたすら朽たす名をし立てずは
心苦しの世や」
と、いといたう馴れてひとりごつを、よきにはあらねど、かうやうのかい撫でにだにあらましかば、と返す返す口惜し。人のほどの心苦しきに、名の朽ちなむはさすがなり。人々参れば、
「取り隠さむや。かかるわざは人のするものにやあらむ」
とうちうめきたまふ。何に御覧ぜさせつらむ、我さへ心なきやうにと、いと恥づかしくてやをら下りぬ。
またの日、上にさぶらへば、台盤所にさしのぞきたまひて、
「くはや、昨日の返り事、あやしく心ばみ過ぐさるる」
とて投げたまへり。女房たち、何事ならむとゆかしがる。
「ただ梅の花の色のごと、三笠の山のをとめをば捨てて」
と、歌ひすさびて出でたまひぬるを、命婦はいとをかしと思ふ。心知らぬ人々は、
「なぞ、御ひとり笑みは」
と咎めあへり。
「あらず。寒き霜朝に、掻練好める花の色あひや見えつらむ。御つづしり歌のいとほしき」
と言へば、
「あながちなる御事かな。このなかには、にほへる花もなかめり。左近の命婦、肥後の采女やまじらひつらむ」
など、心も得ず言ひしろふ。御返りたてまつりたれば、宮には女房つどひて見めでけり。
「逢はぬ夜をへだつるなかの衣手に重ねていとど見もし見よとや」
白き紙に捨て書いたまへるしもぞ、なかなかをかしげなる。
晦日の日、夕つ方、かの御衣箱に御料とて人のたてまつれる御衣一くだり、葡萄染めの織物の御衣、また山吹か何ぞいろいろ見えて、命婦ぞたてまつりたる。ありし色あひを悪ろしとや見たまひけんと思ひ知らるれど、
「かれはた、紅の重々しかりしをや。さりとも消えじ」
と、ねび人どもは定むる。
「御歌も、これよりのは、ことわり聞こえてしたたかにこそあれ。御返りは、ただをかしき方にこそ」
など口々に言ふ。姫君も、おぼろけならでし出でたまひつるわざなれば、ものに書きつけて置きたまへりけり。
朔日のほど過ぎて、今年、男踏歌あるべければ、例の所々遊びののしりたまふに、もの騒がしけれどさびしき所のあはれにおぼしやらるれば、七日の日の節会果てて、夜に入りて御前よりまかでたまひけるを、御宿直所にやがてとまりたまひぬるやうにて、夜更かしておはしたり。例のありさまよりは、けはひうちそよめき世づいたり。君も、すこしたをやぎたまへるけしきもてつけたまへり。いかにぞ、改めてひき変へたらむ時、とぞおぼしつづけらるる。
日さし出づるほどに、やすらひなして出でたまふ。東の妻戸おし開けたれば、向かひたる廊の上もなくあばれたれば、日の脚ほどなくさし入りて、雪すこし降りたる光にいとけざやかに見入れらる。御直衣などたてまつるを見出だして、すこしさし出でてかたはら臥したまへる頭つき、こぼれ出でたるほどいとめでたし。生ひなほりを見出でたらむ時、とおぼされて、格子引き上げたまへり。
いとほしかりしもの懲りに、上げも果てたまはで、脇息をおし寄せて、うちかけて、御鬢ぐきのしどけなきをつくろひたまふ。わりなう古めきたる鏡台の、唐櫛笥、掻上の箱など取り出でたり。さすがに男の御具さへほのぼのあるを、されてをかしと見たまふ。女の御装束、今日は世づきたりと見ゆるは、ありし箱の心葉をさながらなりけり。さもおぼしよらず、興ある紋つきてしるき表着ばかりぞ、あやしとおぼしける。
「今年だに声すこし聞かせたまへかし。侍たるるものはさし置かれて、御けしきの改まらむなむゆかしき」
とのたまへば、
「さへづる春は」
と、からうしてわななかし出でたり。
「さりや。年経ぬるしるしよ」
と、うち笑ひたまひて、
「夢かとぞ見る」
とうち誦じて出でたまふを、見送りて添ひ臥したまへり。口おほひの側目より、なほかの末摘花、いとにほひやかにさし出でたり。見苦しのわざやとおぼさる。
二条院におはしたれば、紫の君、いともうつくしき片生ひにて、紅はかうなつかしきもありけりと見ゆるに、無紋の桜の細長なよらかに着なして、何心もなくてものしたまふさま、いみじうらうたし。古体の祖母君の御なごりにて、歯黒めもまだしかりけるを、引きつくろはせたまへれば、 眉のけざやかになりたるも、うつくしうきよらなり。心から、などかかう憂き世を見あつかふらむ。かく心苦しきものをも見てゐたらで、とおぼしつつ、例の、もろともに雛遊びしたまふ。
絵など描きて、色どりたまふ。よろづにをかしうすさび散らしたまひけり。我も描き添へたまふ。髪いと長き女を描きたまひて、鼻に紅をつけて見たまふに、かたに描きても見まうきさましたり。わが御影の鏡台にうつれるがいときよらなるを見たまひて、手づからこの赤鼻を描きつけ、にほはして見たまふに、かくよき顔だに、さてまじれらむは見苦しかるべかりけり。姫君見て、いみじく笑ひたまふ。
「まろがかくかたはになりなむ時、いかならむ」
とのたまへば、
「うたてこそあらめ」
とて、さもや染みつかむとあやふく思ひたまへり。そらのごひをして、
「さらにこそ白まね。用なきすさびわざなりや。内裏にいかにのたまはむとすらむ」
と、いとまめやかにのたまふを、いといとほしとおぼして、寄りてのごひたまへば、
「平中がやうに色どり添へたまふな。赤からむはあへなむ」
と、戯れたまふさま、いとをかしき妹背と見えたまへり。
日のいとうららかなるに、いつしかと霞みわたれる梢どもの心もとなき中にも、梅はけしきばみ、ほほ笑みわたれる、とりわきて見ゆ。階隠のもとの紅梅、いととく咲く花にて、色づきにけり。
「紅の花ぞあやなくうとまるる梅の立ち枝はなつかしけれど
いでや」
と、あいなくうちうめかれたまふ。
かかる人びとの末々、いかなりけむ。