【原文】第5帖「若紫」(全文)

 わらはやみにわづらひたまひて、よろづにまじなひ、加持かぢなどまゐらせたまへど、しるしなくてあまたたびおこりたまひければ、ある人、

「北やまになむなにがし寺といふ所に、かしこきおこない人はべる。去年こぞの夏も世におこりて、人々まじなひわづらひしを、やがてとどむるたぐひあまたはべりき。ししこらかしつる時はうたてはべるを、とくこそこころみさせたまはめ」

 などこゆれば、しにつかはしたるに、

いかがまりて、むろにもまかでず」

 と申したれば、

「いかがはせむ。いとしのびてものせん」

 とのたまひて、御ともにむつましき四、五人ばかりして、まだあかつきにおはす。

 ややふかる所なりけり。三月のつごもりなれば、京の花ざかりはみなぎにけり。やまさくらはまだざかりにて、りもておはするままに、かすみのたたずまひもをかしうゆれば、かかるありさまもならひたまはず、所き御身にて、めづらしうおぼされけり。寺のさまもいとあはれなり。みねたかく、ふかき岩の中にぞ、ひじりりゐたりける。上りたまひて、たれともらせたまはず、いといたうやつれたまへれど、しるき御さまなれば、

「あな、かしこや。一日しはべりしにやおはしますらむ。今はこの世のことを思ひたまへねば、験方げんがたのおこなひもわすれてはべるを、いかでかうおはしましつらむ」

 と、おどろき騒ぎ、うちみつつたてまつる。いとたふと大徳だいとこなりけり。さるべきもの作りてすかせたてまつり、加持かぢなどまゐるほど、日たかくさし上がりぬ。

 すこし立ちでつつ渡したまへば、たかき所にて、ここかしこ、僧坊どもあらはにおろさるる、ただこのつづらをりの下に、同じ小柴なれど、うるはしくしわたして、きよげなる屋、らうなど続けて、木立こだちいとよしあるは、

「何人のむにか」

 と問ひたまへば、御ともなる人、

「これなんなにがし僧都そうづ二年ふたとせもりはべるかたにはべるなる」

「心恥づかしき人むなる所にこそあなれ。あやしうも、あまりやつしけるかな。きもこそすれ」などのたまふ。

きよげなるわらはなどあまたで来て、閼伽あかあかたてまつり、花折りなどするもあらはにゆ。

「かしこに、女こそありけれ」

僧都そうづは、よも、さやうには、ゑたまはじを」

「いかなる人ならむ」

 と口々ふ。下りてのぞくもあり。

「をかしげなる女子ども、若き人、わらはべなんゆる」とふ。

 君はおこなひしたまひつつ、 日たくるままに、いかならんとおぼしたるを、

「とかうまぎらはさせたまひて、おぼしれぬなんよくはべる」

 とこゆれば、しりへのやまに立ちでて、京のかたたまふ。はるかにかすみみわたりて、四方よもこずゑそこはかとなうけぶりわたれるほど、

にいとよくもたるかな。かかる所にむ人、心に思ひ残すことはあらじかし」

 とのたまへば、

「これはいと浅くはべり。人のくになどにはべるうみやまのありさまなどを御覧ぜさせてはべらば、いかに御いみじうまさらせたまはむ。富士のやま、なにがしの嶽」

 など語りきこゆるもあり。また西くにのおもしろき浦々、磯の上をひ続くるもありて、よろづにまぎらはしきこゆ。

「近き所にははり明石あかしの浦こそ、なほことにはべれ。何の至りふかき隈はなけれど、ただうみのおもてをわたしたるほどなん、あやしくことどころずゆほびかなる所にはべる。かのくにさきかみ新発意しぼちの、むすめかしづきたるいへいといたしかし。大臣ののちにてで立ちもすべかりける人の、世のひがものにてまじらひもせず、近衛の中将をてて申したまはれりけるつかさなれど、かのくにの人にもすこしあなづられて、『何の面目めいもくにてかまた都にもかへらん』とひて頭も下ろしはべりにけるを、すこし奥まりたるやまみもせで、さるうみづらにでゐたる、ひがひがしきやうなれど、げに、かのくにのうちにさも人のもりゐぬべき所々はありながら、ふかさとは人離れ、心すごく、若き妻子の思ひわびぬべきにより、かつは心をやれるまひになんはべる。さいつころ、まかり下りてはべりしついでに、ありさまたまへにりてはべりしかば、京にてこそ所ぬやうなりけれ、 そこらはるかにいかめしう占めて造れるさま、さはへど、くにつかさにてしおきける事なれば、残りのよはひゆたかに経べき心構へも二なくしたりけり。後の世の勤めもいとよくして、なかなか法師ほふしまさりしたる人になんはべりける」

 と申せば、

「さて、そのむすめは」

 と問ひたまふ。

「けしうはあらず、かたち心ばせなどはべるなり。代々のくにつかさなど、用意ことにして、さる心ばへすなれど、さらにうけひかず。『我が身のかくいたづらに沈めるだにあるを、この人ひとりにこそあれ、思ふさまことなり。もし我におくれてその志遂げず、この思ひおきつる宿すくたがはば、うみりね』と、つねゆいごむしおきてはべるなる」

 とこゆれば、君もをかしときたまふ。人々、

うみ龍王かいりうわうきさきになるべきいつきむすめななり。心たかさ苦しや」

 とてふ。

 かくふははりかみの子の、蔵人より今年かうぶりたるなりけり。

「いと好きたる者なれば、かの入道のゆいごむ破りつべき心はあらんかし」

「さてたたずみるならむ」

 とひあへり。

「いで、さふとも、田舎ゐなかびたらむ。をさなくよりさる所にでて、ふるめいたるおやにのみ従ひたらむは」

「母こそゆゑあるべけれ。よき若人、わらはなど、都のやむごとなき所々より類にふれてたづねとりて、まばゆくこそもてなすなれ」

「情けなき人なりて行かば、さて心安くてしもえ置きたらじをや」

 などふもあり。君、

「何心ありて、うみそこまでふかう思ひるらむ。そこのみるめもものむつかしう」

 などのたまひて、ただならずおぼしたり。かやうにてもなべてならずもてひがみたる事好みたまふ御心なれば、御耳とどまらむをや、とたてまつる。

「暮れかかりぬれど、おこらせたまはずなりぬるにこそはあめれ。はやかへらせたまひなん」

 とあるを、大徳だいとこ

「御もののけなどくははれるさまにおはしましけるを、今宵こよひはなほしづかに加持かぢなどまゐりて、でさせたまへ」

 と申す。

「さもある事」

 とみな人申す。君も、かかるたびも慣らひたまはねば、さすがにをかしくて、

「さらばあかつきに」

 とのたまふ。

 人なくてつれづれなれば、夕暮れのいたうかすみみたるにまぎれて、かのしばがきのほどに立ちでたまふ。人々はかへしたまひて、惟光これみつ朝臣あそむとのぞきたまへば、ただこの西面にしも仏ゑたてまつりておこなふ、あまなりけり。すだれすこし上げて、花たてまつるめり。中の柱にりゐて、脇息けふそくの上に経を置きて、いとなやましげに読みゐたるあま君、ただ人とえず。四十余ばかりにて、いとしろうあてにせたれど、つらつきふくらかに、まみのほど、髪のうつくしげにそがれたるすゑも、なかなかながきよりもこよなう今めかしきものかな、とあはれにたまふ。

 きよげなる大人おとな二人ふたりばかり、さてはわらはべぞあそぶ。中に十ばかりやあらむとえて、しろき衣、やま吹などの萎えたる着て走り来たる女子、あまたえつる子どもにるべうもあらず、いみじくひさきえてうつくしげなるかたちなり。髪はあふぎを広げたるやうにゆらゆらとして、かほはいとあかくすりなして立てり。

「何事ぞや。わらはべと腹立ちたまへるか」

 とてあま君の上げたるに、すこしおぼえたるところあれば、子なめりとたまふ。

すずめの子をいぬきが逃がしつる。伏籠のうちにめたりつるものを」

 とて、いとくちし、と思へり。このゐたる大人おとな

「例の、心なしのかかるわざをしてさいなまるるこそ、いと心づきなけれ。いづかたへかまかりぬる。いとをかしうやうやうなりつるものを。からすなどもこそつくれ」

 とて立ちてゆく。髪ゆるるかにいとながく、めやすき人なめり。少納言の乳母めのととこそ人ふめるは、この子の後見うしろみなるべし。

 あま君、

「いで、あなをさなや。ふかひなうものしたまふかな。おのがかく今日けふ明日あすにおぼゆる命をば何ともおぼしたらで、すずめ慕したひたまふほどよ。罪ることぞと、つねこゆるを、心うれく」

 とて、

「こちや」

 とへば、ついゐたり。

 つらつきいとらうたげにて、まゆのわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたるひたひつき、髪ざし、いみじううつくし。ねびゆかむさまゆかしき人かな、と目とまりたまふ。さるは、かぎりなう心を尽くしきこゆる人にいとようたてまつれるが、まもらるるなりけり、と、思ふにも涙ぞ落つる。

 あま君、髪をかきでつつ、

けづけづることをうるさがりたまへど、をかしの御髪みぐしや。いとはかなうものしたまふこそ、あはれにうしろめたけれ。かばかりになれば、いとかからぬ人もあるものを。故姫君は十ばかりにて殿におくれたまひしほど、いみじうものは思ひりたまへりしぞかし。ただいまおのれてたてまつらば、いかで世におはせむとすらむ」

 とて、いみじく泣くをたまふも、すずろに悲し。をさな心地ここちにも、さすがにうちまもりて、伏目ふしめになりてうつぶしたるに、こぼれかかりたる髪つやつやとめでたうゆ。

  ひ立たむありかもらぬ若草をおくらす露ぞ消えん空なき

 またゐたる大人おとな

「げに」

 とうち泣きて、

  初草のひ行くすゑらぬまにいかでか露の消えんとすらむ

 とこゆるほどに、僧都そうづ、あなたより来て、

「こなたはあらはにやはべらむ。今日けふしも端におはしましけるかな。この上のひじりかたに、源氏の中将のわらはやみまじなひにものしたまひけるを、ただ今なむきつけはべる。いみじうしのびたまひければ、りはべらで、ここにはべりながら御とぶらひにもでざりける」

 とのたまへば、

「あないみじや。いとあやしきさまを人やつらむ」

 とて、すだれ下ろしつ。

「この世にののしりたまふ光源氏、かかるついでにたてまつりたまはむや。世をてたる法師ほふし心地ここちにも、いみじう世のうれわすれ、よはひ延ぶる人の御ありさまなり。いで、御消息せうそここえむ」

 とて立つ音すれば、かへりたまひぬ。

 あはれなる人をつるかな。かかれば、この好き者どもはかかる歩きをのみして、よくさるまじき人をもつくるなりけり。たまさかに立ちづるだに、かく思ひのほかなることをるよ、とをかしうおぼす。さても、いとうつくしかりつる児かな。何人ならむ、かの人の御代はりに、明け暮れの慰めにもばや、と思ふ心ふかう尽きぬ。

 うち臥したまへるに、僧都そうづの御弟子、惟光これみつを呼びでさす。ほどなき所なれば、君もやがてきたまふ。

ぎりおはしましけるよし、ただ今なむ人申すに、おどろきながらさぶらべきを、なにがしこの寺にもりはべりとはしろしめしながら、しのびさせたまへるを、うれはしく思ひたまへてなん。草の御むしろも、この坊にこそ設けはべるべけれ。いと本意ほいなきこと」

 と申したまへり。

「いぬる十余日のほどよりわらはやみにわづらひはべるを、たび重なりて耐へがたくはべれば、人の教へのまま、にはかにたづりはべりつれど、かやうなる人のしるしあらはさぬ時、はしたなかるべきも、 ただなるよりはいとほしう思ひたまへつつみてなむ、いたうしのびはべりつる。今、そなたにも」

 とのたまへり。

 すなはち僧都そうづまゐりたまへり。法師ほふしなれどいと心恥づかしく、人柄もやむごとなく世に思はれたまへる人なれば、軽々しき御ありさまをはしたなうおぼす。かくもれるほどの御物語などこえたまひて、

「同じ柴のいほりなれど、すこし涼しき水の流れも御覧ぜさせむ」

 と、せちにこえたまへば、かの、まだぬ人々にことことしうかせつるをつつましうおぼせど、あはれなりつるありさまもいぶかしくて、おはしぬ。

 げに、いと心ことによしありて、同じ木草をも植ゑなしたまへり。月もなきころなれば、遣水やりみづ篝火かがりびともし、灯籠とうろなどもまゐりたり。南面みなみおもていときよげにしつらひたまへり。そらだきものいと心にくくかをりで、名香みやうがうの香などにほひ満ちたるに、君の御追風おひかぜいとことなれば、内の人々も心づかひすべかめり。

 僧都そうづ、世のつねなき御物語、後の世のことなどこえらせたまふ。我が罪のほどおそろしう、あぢきなきことに心をしめて、けるかぎりこれを思ひ悩むべきなめり。まして後の世のいみじかるべきおぼし続けて、かうやうなるまひもせまほしうおぼえたまふものから、昼の面影心にかかりて恋しければ、

「ここにものしたまふは、たれれにか。たづねきこえまほしき夢をたまへしかな。今日けふなむ思ひあはせつる」

 とこえたまへば、うちわらひて、

「うちつけなる御夢語りにぞはべるなる。たづねさせたまひても、御心おとりせさせたまひぬべし。故按察使大納言は世に亡くて久しくなりはべりぬれば、えしろしめさじかし。その北のかたなむなにがしが妹にはべる。かの按察かくれてのち、世を背きてはべるが、このごろわづらふ事はべるにより、かく京にもまかでねば、頼もし所に籠りてものしはべるなり」

 とこえたまふ。

「かの大納言の御女ものしたまふときたまへしは。好き好きしきかたにはあらで、まめやかにこゆるなり」

 と、おしあてにのたまへば、

「むすめただ一人はべりし。せてこの十余年にやなりはべりぬらん。故大納言、内裏にたてまつらむなどかしこういつきはべりしを、その本意ほいのごとくもものしはべらでぎはべりにしかば、ただこのあま君一人もてあつかひはべりしほどに、いかなる人のしわざにか、兵部卿の宮なむしのびて語らひつきたまへりけるを、もとの北のかたやむごとなくなどして、安からぬ事多くて、明け暮れ物を思ひてなん亡くなりはべりにし。もの思ひにやまひづくものと目に近くたまへし」

 など申したまふ。

 さらば、その子なりけり、と思しあはせつ。親王の御筋にて、かの人にも通ひきこえたるにや、といとどあはれにまほし。人のほどもあてにをかしう、なかなかのさかしら心なく、うち語らひて心のままに教へほし立ててばや、とおぼす。

「いとあはれにものしたまふ事かな。それはとどめたまふ形見もなきか」

 と、をさなかりつるゆくへの、なほ確かにらまほしくて問ひたまへば、

「亡くなりはべりしほどにこそはべりしか。それも女にてぞ。それにつけて、もの思ひのもよほしになむよはひすゑに思ひたまへ嘆きはべるめる」

 とこえたまふ。さればよ、とおぼさる。

「あやしきことなれど、をさなき御後見におぼすべくこえたまひてんや。思ふ心ありて、行きかかづらふかたもはべりながら、世に心の染まぬにやあらん、ひとりみにてのみなむ。まだげなきほどと、つねの人におぼしなずらへて、はしたなくや」

 などのたまへば、

「いとうれしかるべき仰せ言なるを、まだむげにいはきなきほどにはべるめれば、たはぶれにても御覧じがたくや。そもそも女人は人にもてなされて大人おとなにもなりたまふものなれば、詳しくはえとり申さず、かのおばに語らひはべりてこえさせむ」

 とすくよかにひて、ものごはきさましたまへれば、若き御心に恥づかしくて、えよくもこえたまはず。

「阿弥陀仏ものしたまふ堂にする事はべるころになむ。初夜いまだ勤めはべらず。ぐしてさぶらはむ」

 とて上りたまひぬ。

 君は心地ここちもいと悩ましきに、雨すこしうちそそき、やま風ひややかに吹きたるに、滝のよどみもまさりて音たかこゆ。すこしねぶたげなる読経の絶え絶えすごくこゆるなど、すずろなる人も所からものあはれなり。ましておぼしめぐらすこと多くて、まどろませたまはず。初夜とひしかども、夜もいたう更けにけり。内にも人の寝ぬけはひしるくて、いとしのびたれど、数珠の脇息けふそくに引き鳴らさるる音ほのこえ、なつかしううちそよめく音なひ、あてはかなりときたまひて、ほどもなく近ければ、に立てわたしたる屏風の中をすこし引き開けて、あふぎを鳴らしたまへば、おぼえなき心地ここちすべかめれど、らぬやうにやとてゐざりづる人あなり。すこし退きて、

「あやし、ひが耳にや」

 とたどるをきたまひて、

「仏の御しるべは暗きにりても、さらにたがふまじかなるものを」

 とのたまふ御声のいと若うあてなるに、うちでむ声づかひも恥づかしけれど、

「いかなるかたの御しるべにか。おぼつかなく」

 とこゆ。

「げに、うちつけなりとおぼめきたまはむもことわりなれど、

  初草の若葉の上をつるよりたびの袖も露ぞ乾かぬ

こえたまひてむや」

 とのたまふ。

「さらにかやうの御消息せうそこうけたまはり分くべき人もものしたまはぬさまは、しろしめしたりげなるを、たれれにかは」

 とこゆ。

「おのづから、さるやうありてこゆるならんと思ひなしたまへかし」

 とのたまへば、りてこゆ。

「あな、今めかし。この君や世づいたるほどにおはするとぞ、おぼすらん。さるにては、かの若草をいかでいたまへることぞ」

 と、さまざまあやしきに心乱れて、久しうなればなさけなしとて、

  枕結ふ今宵こよひばかりの露けさをふかやまの苔に比べざらなむ

「ひがたうはべるものを」

 とこえたまふ。

「かうやうのついでなる御消息せうそこはまださらにこえらず、ならはぬ事になむ。かたじけなくとも、かかるついでにまめまめしうこえさすべきことなむ」

 とこえたまへれば、あま君、

「ひが事きたまへるならむ。いとむつかしき御けはひに、何ごとをかは答へきこえむ」

 とのたまへば、

「はしたなうもこそおぼせ」と人々こゆ。

「げに、若やかなる人こそうたてもあらめ、まめやかにのたまふ、かたじけなし」

 とて、ゐざりりたまへり。

「うちつけに、あさはかなりと御覧ぜられぬべきついでなれど、心にはさもおぼえはべらねば。仏はおのづから」

 とて、おとなおとなしう恥づかしげなるにつつまれて、とみにもえうちでたまはず。

「げに思ひたまへりがたきついでに、かくまでのたまはせこえさするも、いかが」とのたまふ。

「あはれにうけたまはる御ありさまを、かのぎたまひにけむ御代はりにおぼしないてむや。ふかひなきほどのよはひにて、むつましかるべき人にも立ちおくれはべりにければ、あやしう浮きたるやうにて年月をこそ重ねはべれ。同じさまにものしたまふなるを、たぐひになさせたまへ、といとこえまほしきを、かかる折はべりがたくてなむおぼされんところをも憚らず、うちではべりぬる」

 とこえたまへば、

「いとうれしう思うたまへぬべき御ことながらも、こしめしひがめたることなどやはべらん、とつつましうなむ。あやしき身一つを頼もし人にする人なむはべれど、いとまだふかひなきほどにて、御覧じ許さるるかたもはべりがたげなれば、えなむうけたまはりとどめられざりける」

 とのたまふ。

「みなおぼつかなからずうけたまはるものを、所うおぼし憚らで、思ひたまへるさまことなる心のほどを御覧ぜよ」

 とこえたまへど、いとげなきことをさもらでのたまふ、とおぼして、心解けたる御答へもなし。僧都そうづおはしぬれば、

「よし、かうこえそめはべりぬれば、いと頼もしうなむ」

 とて、おし立てたまひつ。あかつきかたになりにければ、法華三昧行ふ堂の懺法の声、やまおろしにつきてこえくるいとたふとく、滝の音に響きあひたり。

  吹きまよふふかやまおろしに夢さめて涙もよほす滝の音かな

  さしぐみに袖ぬらしけるやま水に澄める心は騒ぎやはする

「耳馴れはべりにけりや」

 とこえたまふ。

 明けゆく空はいといたうかすみみて、やまの鳥どもそこはかとなうさへづりあひたり。名もらぬ木草の花ども色々に散りまじり、錦を敷けるとゆるに、鹿のたたずみ歩くもめづらしくたまふに、悩ましさもまぎれ果てぬ。ひじり、動きもえせねど、とかうして護身まゐらせたまふ。かれたる声のいといたうすきひがめるも、あはれに功づきて、陀羅尼誦みたり。

 御迎への人びとまゐりて、おこたりたまへる喜びこえ、内裏よりも御とぶらひあり。僧都そうづ、世にえぬさまの御くだもの、何くれと谷のそこまで堀りでいとなみきこえたまふ。

「今年ばかりの誓ひふかうはべりて、御送りにもえまゐりはべるまじきこと。なかなかにも思ひたまへらるべきかな」

 などこえたまひて、大御酒まゐりたまふ。

やま水に心とまりはべりぬれど、内裏よりもおぼつかながらせたまへるもかしこければなむ。今、この花の折ぐさずまゐり来む。

  宮人に行きて語らむやまさくら風よりさきに来てもるべく」

 とのたまふ御もてなし、声づかひさへ目もあやなるに、

 優曇華の花待ちたる心地ここちしてふかやまさくらに目こそ移らね

 とこえたまへば、ほほ笑みて、

「時ありて、一度開くなるは、かたかなるものを」

 とのたまふ。ひじり、御かわらけたまはりて、

  奥やまの松のとぼそをまれに開けてまだぬ花のかほるかな

 と、うち泣きてたてまつる。

 ひじり、御まもりに独鈷たてまつる。たまひて、僧都そうづ、聖徳太子の百済よりたまへりける金剛子の数珠の玉の装束したる、やがてそのくによりれたる箱の唐めいたるを、透きたる袋にれて、五葉の枝につけて、紺瑠璃の壺どもに御薬どもれて、藤、さくらなどにつけて、所につけたる御おくりものどもささげたてまつりたまふ。君、ひじりよりはじめ、読経しつる法師ほふしの布施ども、まうけの物ども、さまざまに取りに遣はしたりければ、そのわたりのやまがつまでさるべき物どもたまひ、御誦経などしてでたまふ。

 内に僧都そうづりたまひて、かのこえたまひしことまねびきこえたまへど、

「ともかくもただ今はこえむ方なし。もし、御心ざしあらば、いま四、五年をぐしてこそはともかくも」

 とのたまへば、さなむ、と同じさまにのみあるを、本意ほいなしと思す。御消息せうそこ僧都そうづのもとなる小さきわらはして、

  夕まぐれほのかに花の色をて今朝はかすみの立ちぞわづらふ」

 御返し、

  まことにや花のあたりは立ちうれきとかすみむる空のしきをも

 と、よしある手のいとあてなるを、うちて書いたまへり。

 御車にたてまつるほど、大殿より、

「いづちともなくて、おはしましにけること」

 とて、御迎への人々、君たちなどあまたまゐりたまへり。頭中将、左中弁、さらぬ君たちもしたひきこえて、

「かうやうの御ともには仕うまつりはべらむ、と思ひたまふるを、あさましくおくらさせたまへること」

 と恨みきこえて、

「いといみじき花の蔭に、しばしもやすらはず、立ちかへりはべらむは飽かぬわざかな」

 とのたまふ。岩隠れの苔の上に並みゐてかはらけまゐる。落ちくる水のさまなど、ゆゑある滝のもとなり。

 頭中将、懐なりける笛取りでて、吹きすましたり。弁の君、あふぎはかなう打ち鳴らして、

「豊浦の寺の西なるや」

 と歌ふ。人よりは異なる君たちを、源氏の君いといたううち悩みて、岩にりゐたまへるは、たぐひなくゆゆしき御ありさまにぞ何ごとにも目移るまじかりける。例の、篳篥吹く随身、 笙の笛持たせる好き者などあり。僧都そうづ、琴をみづから持てまゐりて、

「これ、ただ御手一つあそばして、同じうはやまの鳥もおどろかしはべらむ」

 と切にこえたまへば、

「乱り心地ここち、いと耐へがたきものを」

 とこえたまへど、けに憎からずかき鳴らしてみな立ちたまひぬ。

 飽かずくちし、とふかひなき法師ほふしわらはべも涙を落としあへり。まして、内には年いたるあま君たちなど、まださらにかかる人の御ありさまをざりつれば、

「この世のものともおぼえたまはず」

 とこえあへり。僧都そうづも、

「あはれ、何の契りにて、かかる御さまながら、いとむつかしき日本のすゑの世にまれたまへらむとるに、いとなむ悲しき」

 とて、目おしのごひたまふ。

 この若君、をさな心地ここちに、めでたき人かな、とたまひて、

「宮の御ありさまよりもまさりたまへるかな」

 などのたまふ。

「さらばかの人の御子になりておはしませよ」

 とこゆれば、うちうなづきて、いとようありなむ、とおぼしたり。ひいなあそびにも、描いたまふにも、源氏の君と作りでて、きよらなる衣着せかしづきたまふ。

 君はまづ内裏にまゐりたまひて、日ごろの御物語などこえたまふ。いといたう衰へにけりとて、ゆゆしとおぼししたり。ひじりたふとかりけることなど問はせたまふ。詳しく奏したまへば、

「阿闍梨などにもなるべき者にこそあなれ。おこなひの労は積もりて、おほやけにしろしめされざりけること」

 とらうたがりのたまはせけり。

 大殿まゐりあひたまひて、

「御迎へにもと思ひたまへつれど、しのびたる御歩きに、いかがと思ひ憚りてなむ。のどやかに一、二日うち休みたまへ」

 とて、

「やがて、御送り仕うまつらむ」

 と申したまへば、さしもおぼさねど、引かされてまかでたまふ。我が御車に乗せたてまつりたまうて、自らは引きりてたてまつれり。もてかしづききこえたまへる御心ばへのあはれなるをぞ、さすがに心苦しくおぼしける。

 殿にも、おはしますらむと心づかひしたまひて、久しくたまはぬほど、いとど玉の台に磨きしつらひ、よろづをととのへたまへり。女君例のはひ隠れて、とみにもでたまはぬを、大臣切にこえたまひて、からうして渡りたまへり。ただに描きたるものの姫君のやうにしゑられて、うちみじろきたまふこともかたく、うるはしうてものしたまへば、思ふこともうちかすめ、やま道の物語をもこえむ、ふかひありてをかしう答へたまはばこそあはれならめ、世には心も解けず、うとく恥づかしきものにおぼして、年のかさなるに添へて御心の隔てもまさるを、いと苦しく思はずに、

「時々は世のつねなる御しきばや。耐へがたうわづらひはべりしをも、いかがとだに、問ひたまはぬこそ、めづらしからぬ事なれどなほうらめしう」

 とこえたまふ。からうして、

「問はぬはつらきものにやあらん」

 と後目におこせたまへるまみいと恥づかしげに、気たかううつくしげなる御かたちなり。

「まれまれは、あさましの御ことや。問はぬ、などふ際は異にこそはべなれ。心くものたまひなすかな。世とともにはしたなき御もてなしを、もしおぼし直る折もやと、とさまかうざまに心みきこゆるほど、いとど思ほし疎むなめりかし。よしや、命だに」

 とて、夜の御座にりたまひぬ。女君、ふともりたまはず。こえわづらひたまひてうち嘆きて臥したまへるも、なま心づきなきにやあらむ、ねぶたげにもてなして、とかう世をおぼし乱るること多かり。

 この若草のでむほどのなほゆかしきを、げないほどと思へりしもことわりぞかし。りがたきことにもあるかな。いかにかまへて、ただ心やすく迎へ取りて明け暮れの慰めにむ。兵部卿の宮はいとあてになまめいたまへれど、にほひやかになどもあらぬを、いかでかの一族におぼえたまふらむ。ひとつきさき腹きさきばらなればにや、などおぼす。ゆかりいとむつましきに、いかでか、とふかうおぼゆ。

 またの日、御文たてまつれたまへり。僧都そうづにもほのめかしたまふべし。あま上には、

「もて離れたりし御しきのつつましさに、思ひたまふるさまをもえあらはし果てはべらずなりにしをなむ。かばかりこゆるにても、おしなべたらぬ志のほどを御覧じらば、いかにうれしう」

 などあり。中に、小さく引き結びて、

  面影は身をも離れずやまさくら心のかぎりとめて来しかど

 夜の間の風もうしろめたくなむ。

 とあり。御手などはさるものにて、ただはかなうおし包みたまへるさまも、さだすぎたる御目どもには、目もあやにこのましうゆ。あなかたはらいたや。いかがこえん、とおぼしわづらふ。

「ゆくての御ことはなほざりにも思ひたまへなされしを、ふりはへさせたまへるに、こえさせむかたなくなむ。まだ難波津をだにはかばかしう続けはべらざめれば、かひなくなむ。さても、

  嵐吹く尾の上のさくら散らぬ間を心とめけるほどのはかなさ

いとどうしろめたう」

 とあり。僧都そうづの御返りも同じさまなれば、くちしくて、二、三日ありて、惟光これみつをぞたてまつれたまふ。

「少納言の乳母めのとふ人あべし。たづねて詳しう語らへ」

 などのたまひらす。さもかからぬ隈なき御心かな。さばかりいはけなげなりしけはひをと、まほならねどもしほどを思ひやるもをかし。

 わざとかう御文あるを、僧都そうづもかしこまりこえたまふ。少納言に消息せうそこして会ひたり。詳しくおぼしのたまふさま、大方の御ありさまなど語る。葉多かる人にて、つきづきしうひ続くれど、いとわりなき御ほどを、いかにおぼすにか、とゆゆしうなむたれたれもおぼしける。御文にもいとねむごろに書いたまひて、例の、中に、

「かの御放ち書きなむ、なほたまへまほしき」

 とて、

  あさかやま浅くも人を思はぬになどやまの井のかけ離るらむ

 御返し、

  汲み初めてくやしときしやまの井の浅きながらや影をるべき

 惟光これみつも同じことをこゆ。

「このわづらひたまふことよろしくは、このごろぐして、京の殿に渡りたまひてなむ、こえさすべき」

 とあるを、心もとなうおぼす。

 藤壺ふぢつぼの宮、悩みたまふことありて、まかでたまへり。 上のおぼつかながり嘆ききこえたまふ御しきも、 いといとほしうたてまつりながら、かかる折だに、と心もあくがれ惑ひて、 何処にも何処にも参うでたまはず、内裏にてもさとにても、昼はつれづれとながめ暮らして、暮るれば、 王命婦を責め歩きたまふ。いかがたばかりけむ、いとわりなくてたてまつるほどさへ 現とはおぼえぬぞわびしきや。

 宮もあさましかりしをおぼしづるだに、 世とともの御もの思ひなるを、さてだにやみなむ、とふかうおぼしたるに、いと憂くて、いみじき御しきなるものから、なつかしうらうたげに、さりとてうちとけず心ふかう恥づかしげなる御もてなしなどのなほ人にさせたまはぬを、などかなのめなることだにうち交じりたまはざりけむ、とつらうさへぞおぼさるる。何事をかこえ尽くしたまはむ、くらぶのやまに宿りも取らまほしげなれど、あやにくなる短夜にて、あさましうなかなかなり。

  てもまた逢ふ夜まれなる夢のうちにやがてまぎるる我が身ともがな

 と、むせかへりたまふさまも、さすがにいみじければ、

  世語りに人や伝へむたぐひなく憂き身を覚めぬ夢になしても

おぼし乱れたるさまもいとことわりにかたじけなし。命婦の君ぞ御直衣などは、かき集め持て来たる。

 殿におはして、泣き寝に臥し暮らしたまひつ。御文なども例の御覧じれぬよしのみあれば、つねのことながらも、 つらういみじうおぼしほれて、内裏へもまゐらで二、三日もりおはすれば、またいかなるにかと御心動かせたまふべかめるも、恐ろしうのみおぼえたまふ。

 宮も、なほいと心憂き身なりけり、とおぼし嘆くに、悩ましさもまさりたまひて、とくまゐりたまふべき御使しきれど、おぼしも立たず。まことに御心地ここち、例のやうにもおはしまさぬは、いかなるにか、と人れずおぼすこともありければ、心憂くいかならむとのみおぼし乱る。暑きほどはいとど起きも上がりたまはず。三月になりたまへば、いとしるきほどにて、人びとたてまつりとがむるに、あさましき御宿すくのほど心憂し。人は思ひらぬことなれば、この月まで奏せさせたまはざりける事、と驚ききこゆ。我が御心一つには、しるうおぼし分く事もありけり。

 御湯殿などにもおやしう仕うまつりて、何事の御しきをもしるくたてまつりれる御乳母めのと子の弁、命婦などぞあやしと思へど、かたみにひ合はすべきにあらねば、なほ逃れがたかりける御宿すくをぞ命婦はあさましと思ふ。内裏には、御物の怪のまぎれにてとみにしきなうおはしましけるやうにぞ奏しけむかし。る人もさのみ思ひけり。いとどあはれにかぎりなうおぼされて、御使などのひまなきも空恐ろしう、ものをおぼす事ひまなし。

 中将の君もおどろおどろしうさま異なる夢をたまひて、合はする者をして問はせたまへば、及びなうおぼしもかけぬ筋のことを合はせけり。

「その中に違ひ目ありてつつしませたまふべきことなむはべる」

 とふに、わづらはしくおぼえて、

「みづからの夢にはあらず。人の御事を語るなり。この夢合ふまでまた人にまねぶな」

 とのたまひて、心のうちにはいかなる事ならむとおぼしわたるに、この女宮の御事きたまひて、もしさるやうもやとおぼし合はせたまふに、いとどしくいみじき言の葉尽くしきこえたまへど、命婦も思ふに、いとむくつけうわづらはしさまさりて、さらにたばかるべき方なし。はかなき一くだりの御返りのたまさかなりしも絶え果てにたり。

 七月になりてぞまゐりたまひける。めづらしうあはれにて、いとどしき御思ひのほどかぎりなし。すこしふくらかになりたまひて、うちなやみ面せたまへるはた、げにるものなくめでたし。例の、明け暮れこなたにのみおはしまして、御あそびもやうやうをかしき空なれば、源氏の君も暇なくしまつはしつつ、御琴、笛などさまざまに仕うまつらせたまふ。いみじうつつみたまへど、しのびがたきしきの漏りづる折々、宮もさすがなる事どもを多くおぼし続けけり。

 かのやま寺の人はよろしくなりてでたまひにけり。京の御住みかたづねて、時々の御消息せうそこなどあり。同じさまにのみあるもことわりなるうちに、この月ごろはありしにまさる物思ひに、ことごとなくてぎゆく。

 秋のすゑかた、いともの心細くて嘆きたまふ。月のをかしき夜、しのびたる所にからうして思ひ立ちたまへるを、時雨めいてうちそそく。おはする所は六条京極わたりにて、内裏よりなれば、すこしほど遠き心地ここちするに、荒れたるいへ木立こだちいともの古りて木暗くえたるあり。例の御ともに離れぬ惟光これみつなむ、

「故按察の大納いへにはべりて、もののたよりにとぶらひてはべりしかば、かのあま上いたう弱りたまひにたれば何事もおぼえず、となむ申してはべりし」

 とこゆれば、

「あはれの事や。とぶらふべかりけるを。などかさなむとものせざりし。りて消息せうそこせよ」

 とのたまへば、人れて案内せさす。わざとかう立ちりたまへる事とはせたれば、りて、

「かく御とぶらひになむおはしましたる」

 とふに、おどろきて、

「いとかたはらいたき事かな。この日ごろ、むげにいと頼もしげなくならせたまひにたれば、御対面などもあるまじ」

 とへども、かへしたてまつらむはかしこし、とて南の廂ひきつくろひてれたてまつる。

「いとむつかしげにはべれど、かしこまりをだにとて。ゆくりなう、ものふかき御座所になむ」

 とこゆ。げにかかる所は例にたがひておぼさる。

つねに思ひたまへ立ちながら、かひなきさまにのみもてなさせたまふにつつまれはべりてなむ。悩ませたまふこと重く、ともうけたまはらざりけるおぼつかなさ」

 などこえたまふ。

「乱り心地ここちはいつともなくのみはべるが、 かぎりのさまになりはべりて、いとかたじけなく立ちらせたまへるに、みづからこえさせぬこと。のたまはすることの筋たまさかにもおぼしし変はらぬやうはべらば、かくわりなきよはひぎはべりて、かならず数まへさせたまへ。いみじう心細げにたまへおくなん、願ひはべる道のほだしに思ひたまへられぬべき」

 などこえたまへり。

 いと近ければ、心細げなる御声絶え絶えこえて、

「いとかたじけなきわざにもはべるかな。この君だにかしこまりもこえたまつべきほどならましかば」

 とのたまふ。あはれにきたまひて、

「何か、浅う思ひたまへむ事ゆゑ、かう好き好きしきさまをえたてまつらむ。いかなる契りにか、たてまつりそめしよりあはれに思ひきこゆるも、あやしきまでこの世の事にはおぼえはべらぬ」

 などのたまひて、

「かひなき心地ここちのみしはべるを、かのいはけなうものしたまふ御一声いかで」

 とのたまへば、

「いでや、よろづおぼしらぬさまに大殿もりりて」

 などこゆる折しも、あなたより来る音して、

「上こそ、この寺にありし源氏の君こそおはしたなれ。などたまはぬ」

 とのたまふを、人びと、いとかたはらいたしと思ひて、

「あなかま」

 とこゆ。

「いさ、『しかば心地ここちの悪しさ慰みき』とのたまひしかばぞかし」

 と、かしこきことこえたり、とおぼしてのたまふ。いとをかしといたまへど、人びとの苦しと思ひたればかぬやうにて、まめやかなる御とぶらひをこえおきたまひてかへりたまひぬ。げにふかひなのけはひや、さりともいとよう教へてむ、とおぼす。

 またの日も、いとまめやかにとぶらひきこえたまふ。例の小さくて、

  いはけなき鶴の一声きしより葦間になづむ舟ぞえならぬ

「同じ人にや」

 と、ことさらをさなく書きなしたまへるも、いみじうをかしげなれば、

「やがて御手本に」

 と人々こゆ。少納言ぞきこえたる。

「問はせたまへるは、今日けふをもぐしがたげなるさまにて、やま寺にまかりわたるほどにて。かう問はせたまへるかしこまりは、この世ならでもこえさせむ」

 とあり。いとあはれとおぼす。

 秋の夕べはまして心のいとまなく、おぼし乱るる人の御あたりに心をかけて、あながちなる、ゆかりもたづねまほしき心もまさりたまふなるべし。「消えむ空なき」とありし夕べおぼしでられて、恋しくも、またば劣りやせむ、とさすがにあやふし。

  手に摘みていつしかもむ紫の根にかよひける野辺の若草

 十月に朱雀院の行幸あるべし。舞人などやむごとなきいへの子ども、上達部、殿上人どもなども、そのかたにつきづきしきはみな選らせたまへれば、親王達、大臣よりはじめてとりどりの才ども習ひたまふ、いとまなし。

 やまさと人にも久しく訪れたまはざりけるをおぼしでて、ふりはへつかはしたりければ、僧都そうづの返り事のみあり。

「立ちぬる月の廿日のほどになむつひにむなしくたまへなして、世間の道理なれど、悲しび思ひたまふる」

 などあるをたまふに、世の中のはかなさもあはれに、うしろめたげに思へりし人もいかならむ。をさなきほどに恋ひやすらむ。故御息所に後れたてまつりしなど、はかばかしからねど思ひでて、浅からずとぶらひたまへり。少納言、ゆゑなからず御返りなどこえたり。

 忌などぎて京の殿に、などきたまへば、ほど経てみづからのどかなる夜おはしたり。いとすごげに荒れたる所の、人少ななるに、いかにをさなき人恐ろしからむとゆ。例の所にれたてまつりて、少納言、御ありさまなどうち泣きつつこえ続くるに、あいなう御袖もただならず。

「宮に渡したてまつらむとはべめるを、故姫君のいと情けなく憂きものに思ひきこえたまへりしに、いとむげに児ならぬよはひの、またはかばかしう人のおもむけをもりたまはず、 なかぞらなる御ほどにて、あまたものしたまふなる中の、 あなづらはしき人にてや交じりたまはん、などぎたまひぬるも世とともにおぼし嘆きつること。しるきこと多くはべるに、かくかたじけなきなげの御言の葉は、のちの御心もたどりきこえさせず、いとうれしう思ひたまへられぬべき折節にはべりながら、すこしもなぞらひなるさまにもものしたまはず、御年よりも若びてならひたまへれば、いとかたはらいたくはべる」

 とこゆ。

「何か、かう繰り返しこえらする心のほどをつつみたまふらむ。そのふかひなき御心のありさまの、あはれにゆかしうおぼえたまふも、契りことになむ心ながら思ひられける。なほ人伝てならでこえらせばや。

  あしわかの浦にみるめはかたくともこは立ちながらかへる波かは

めざましからむ」

 とのたまへば、

「げにこそ、いとかしこけれ」

 とて、

  る波の心もらでわかの浦に玉藻なびかむほどぞ浮きたる

「わりなきこと」

 とこゆるさまの馴れたるに、すこし罪ゆるされたまふ。

「なぞ越えざらん」

 とうち誦じたまへるを、身にしみて若き人々思へり。

君は、上を恋ひきこえたまひて泣き臥したまへるに、御あそびがたきどもの、

「直衣着たる人のおはする、宮のおはしますなめり」

 とこゆれば、起きでたまひて、

「少納言よ。直衣着たりつらむは、いづら。宮のおはするか」

 とてりおはしたる御声、いとらうたし。

「宮にはあらねど、またおぼし放つべうもあらず。こち」

 とのたまふを、恥づかしかりし人とさすがにきなして、悪しうひてけり、とおぼして、乳母めのとにさしりて、

「いざかし、ねぶたきに」

 とのたまへば、

「今さらに、などしのびたまふらむ。この膝の上に大殿もれよ。今すこしりたまへ」

 とのたまへば、乳母めのとの、

「さればこそ。かう世づかぬ御ほどにてなむ」

 とて押しせたてまつりたれば、何心もなくゐたまへるに、手をさしれて探りたまへれば、なよらかなる御衣に髪はつやつやとかかりて、すゑのふさやかに探りつけられたる、いとうつくしう思ひやらる。手をとらへたまへれば、うたて例ならぬ人のかく近づきたまへるは恐ろしうて、

「寝なむとふものを」

 と強ひて引きりたまふにつきてすべりりて、

「今は、まろぞ思ふべき人。な疎みたまひそ」

 とのたまふ。乳母めのと

「いで、あなうたてや。ゆゆしうもはべるかな。こえさせらせたまふとも、さらに何のしるしもはべらじものを」

 とて苦しげに思ひたれば、

「さりとも、かかる御ほどをいかがはあらん。なほただ世にらぬ心ざしのほどを果てたまへ」

 とのたまふ。

 霰降り荒れてすごき夜のさまなり。

「いかで、かう人少なに心細うて、ぐしたまふらむ」

 と、うち泣いたまひて、いと棄てがたきほどなれば、

「御格子まゐりね。もの恐ろしき夜のさまなめるを、宿直人にてはべらむ。人々、近うさぶらはれよかし」

とて、いと馴れかほに御帳の内にりたまへば、あやしう思ひのほかにも、とあきれてたれたれもゐたり。乳母めのとは、うしろめたなうわりなし、と思へど、荒ましうこえ騒ぐべきならねば、うち嘆きつつゐたり。若君は、いと恐ろしう、いかならむとわななかれて、いとうつくしき御肌つきもそぞろ寒げにおぼしたるを、らうたくおぼえて、単衣ばかりを押しくくみて、わが御心地ここちもかつはうたておぼえたまへど、あはれにうち語らひたまひて、

「いざ、たまへよ。をかしきなど多く、雛あそびなどする所に」

 と、心につくべきことをのたまふけはひのいとなつかしきを、をさな心地ここちにもいといたう怖ぢず、さすがにむつかしう寝もらずおぼえて身じろき臥したまへり。

 夜一夜、風吹き荒るるに、

「げに、かうおはせざらましかば、いかに心細からまし」

「同じくはよろしきほどにおはしまさましかば」

 とささめきあへり。乳母めのとはうしろめたさにいと近うさぶらふ。風すこし吹きやみたるに、夜ふかでたまふもことありかほなりや。

「いとあはれにたてまつる御ありさまを、今はまして片時の間もおぼつかなかるべし。明け暮れ眺めはべる所に渡したてまつらむ。かくてのみはいかが。もの怖ぢしたまはざりけり」

 とのたまへば、

「宮も御迎へになどこえのたまふめれど、この御四十九日ぐしてや、など思うたまふる」

 とこゆれば、

「頼もしき筋ながらも、よそよそにてならひたまへるは、同じうこそ疎うおぼえたまはめ。今よりたてまつれど、浅からぬ心ざしはまさりぬべくなむ」

 とて、かいでつつ返り見がちにてでたまひぬ。

 いみじう霧りわたれる空もただならぬに、霜はいとしろうおきて、まことの懸想もをかしかりぬべきに、さうざうしう思ひおはす。いとしのびて通ひたまふ所の道なりけるをおぼしでて、門うちたたかせたまへど、きつくる人なし。かひなくて、御ともに声ある人してうたはせたまふ。

  朝ぼらけ霧立つ空のまよひにも行きぎがたき妹が門かな

 と、二返りばかりうたひたるに、よしある下仕ひをだして、

  立ちとまり霧のまがきのぎうくは草のとざしにさはりしもせじ

 とひかけて、りぬ。また人もで来ねば、かへるも情けなけれど、明けゆく空もはしたなくて殿へおはしぬ。

 をかしかりつる人のなごり恋しく、独りみしつつ臥したまへり。日たかう大殿もり起きて、文やりたまふに、書くべき言葉も例ならねば、筆うちおきつつすさびゐたまへり。をかしきなどをやりたまふ。

 かしこには、今日けふしも宮わたりたまへり。年ごろよりもこよなう荒れまさり、広うもの古りたる所の、いとど人少なに久しければ、わたしたまひて、

「かかる所にはいかでかしばしもをさなき人のぐしたまはむ。なほかしこに渡したてまつりてむ。何の所きほどにもあらず。乳母めのとは、曹司などしてさぶらひなむ。君は若き人々あればもろともにあそびていとようものしたまひなむ」

 などのたまふ。

 近う呼びせたてまつりたまへるに、かの御移り香の、いみじう艶に染みかへらせたまへれば、をかしの御匂ひや。御衣はいと萎えて、と心苦しげに思いたり。

「年ごろもあづしくさだぎたまへる人に添ひたまへるよ、かしこにわたりてならしたまへなど、ものせしを、あやしう疎みたまひて、人も心置くめりしを、かかる折にしもものしたまはむも、心苦しう」

 などのたまへば、

「何かは。心細くとも、しばしはかくておはしましなむ。すこしものの心思しりなむにわたらせたまはむこそ、よくははべるべけれ」

 とこゆ。

「夜昼恋ひきこえたまふに、はかなきものもきこしめさず」

 とて、げにいといたう面せたまへれど、いとあてにうつくしくなかなかえたまふ。

「何か、さしもおぼす。今は世に亡き人の御事はかひなし。おのれあれば」

 など語らひきこえたまひて、暮るればかへらせたまふを、いと心細しとおぼいて泣いたまへば、宮うち泣きたまひて、

「いとかう思ひなりたまひそ。今日けふ明日あす、渡したてまつらむ」

 など、返す返すこしらへおきてでたまひぬ。なごりも慰めがたう泣きゐたまへり。

 行く先の身のあらむ事などまでもおぼしらず、ただ年ごろ立ち離るる折なうまつはしならひて、今は亡き人となりたまひにける、とおぼすがいみじきに、をさなき御心地ここちなれど、胸つとふたがりて、例のやうにもあそびたまはず、昼はさてもまぎらはしたまふを、夕暮となればいみじく屈くしたまへば、かくてはいかでかごしたまはむ、と慰めわびて乳母めのとも泣きあへり。

 君の御もとよりは惟光これみつをたてまつれたまへり。

まゐり来べきを、内裏よりあればなむ。心苦しうたてまつりしも静心なく」

 とて、宿直人たてまつれたまへり。

「あぢきなうもあるかな。戯れにてももののはじめにこの御事よ。宮こししつけば、さぶらふ人々のおろかなるにぞさいなまむ。あなかしこ、もののついでにいはけなくうちできこえさせたまふな」

 などふも、それをば何ともおぼしたらぬぞあさましきや。

 少納言は惟光これみつにあはれなる物語どもして、

「あり経てのちやさるべき御宿すく、逃れきこえたまはぬやうもあらむ。ただ今はかけてもいとげなき御事とたてまつるを、あやしうおぼしのたまはするも、いかなる御心にか、思ひる方なう乱れはべる。今日けふも宮渡らせたまひて、『うしろやすく仕うまつれ。心をさなくもてなしきこゆな』とのたまはせつるも、いとわづらはしう、ただなるよりはかかる御好き事も思ひでられはべりつる」

 などひて「この人も事ありかほにや思はむなどあいなければ、いたう嘆かしげにもひなさず。大夫もいかなることにかあらむ、と心がたう思ふ。

 まゐりてありさまなどこえければ、あはれにおぼししやらるれど、さて通ひたまはむもさすがにすずろなる心地ここちして、軽々しうもてひがめたると人もや漏りかむ、などつつましければ、ただ迎へてむ、とおぼす。御文はたびたびたてまつれたまふ。暮るれば例の大夫をぞたてまつれたまふ。

「障はる事どものありて、えまゐり来ぬを、おろかにや」

 などあり。

「宮より、明日あすにはかに御迎へにとのたまはせたりつれば、心あわたたしくてなむ。年ごろの蓬生を離れなむもさすがに心細く、さぶらふ人々も思ひ乱れて」

 と、言少なにひて、をさをさあへしらはず、もの縫ひいとなむけはひなどしるければ、まゐりぬ。

 君は大殿におはしけるに、例の、女君とみにも対面したまはず。ものむつかしくおぼえたまひて、あづまをすが掻きて、「常陸には田をこそ作れ」といふ歌を、声はいとなまめきてすさびゐたまへり。まゐりたれば、せてありさま問ひたまふ。しかしかなどこゆれば、くちしうおぼして、かの宮に渡りなばわざと迎へでむも好き好きしかるべし。をさなき人を盗みでたりともどき負ひなむ。そのさきに、しばし人にも口固めて渡してむ、とおぼして、

あかつきかしこにものせむ。車の装束さながら随身一人二人ふたり仰せおきたれ」

 とのたまふ。うけたまはりて立ちぬ。

 君、いかにせまし、こえありて好きがましきやうなるべきこと、人のほどだにものを思ひり、女の心かはしける事とおしはかられぬべくは世のつねなり。父宮のたづでたまへらむもはしたなうすずろなるべきを、とおぼし乱るれど、さてはづしてむはいとくちしかべければ、まだ夜ふかでたまふ。女君、例のしぶしぶに心もとけずものしたまふ。

「かしこにいとせちにるべき事のはべるを思ひたまへでて、立ち返すりまゐり来なむ」

 とてでたまへば、さぶらふ人々もらざりけり。わが御かたにて、御直衣などはたてまつる。惟光これみつばかりを馬に乗せておはしぬ。

 門うちたたかせたまへば、心らぬ者の開けたるに、御車をやをら引きれさせて、大夫、妻戸を鳴らしてしはぶけば、少納言りてで来たり。

「ここにおはします」

 とへば、

をさなき人は御殿もりてなむ。などかいと夜ふかうはでさせたまへる」

 と、もののたよりと思ひてふ。

「宮へ渡らせたまふべかなるを、そのさきにこえおかむとてなむ」

 とのたまへば、

「何事にかはべらむ。いかにはかばかしき御答へこえさせたまはむ」

 とて、うちひてゐたり。

 君、りたまへば、いとかたはらいたく、

「うちとけて、あやしきふる人どものはべるに」

 とこえさす。

「まだおどろいたまはじな。いで、御目覚ましきこえむ。かかる朝霧をらでは寝るものか」

 とてりたまへば、や、ともえこえず。君は何心もなく寝たまへるを、抱きおどろかしたまふに、おどろきて、宮の御迎へにおはしたると寝おびれておぼしたり。

御髪みぐしかき繕ひなどしたまひて、

「いざたまへ。宮の御使にてまゐり来つるぞ」

 とのたまふに、あらざりけり、とあきれて、恐ろし、と思ひたれば、

「あな心う。まろも同じ人ぞ」

 とてかき抱きてでたまへば、大夫、少納言など、

「こはいかに」

 とこゆ。

「ここには、つねにもえまゐらぬがおぼつかなければ、心やすき所にとこえしを、心憂く渡りたまへるなれば、ましてこえがたかべければ。人一人まゐれられよかし」

 とのたまへば、心あわたたしくて、

今日けふはいと便なくなむはべるべき。宮の渡らせたまはんにはいかさまにかこえやらん。おのづからほど経てさるべきにおはしまさば、ともかうもはべりなむを、いと思ひやりなきほどのことにはべれば、さぶらふ人々苦しうはべるべし」

 とこゆれば、

「よし、のちにも人はまゐりなむ」

 とて御車せさせたまへば、あさましう、いかさまに、と思ひあへり。若君もあやしとおぼして泣いたまふ。少納言、とどめきこえむ方なければ、よべ縫ひし御衣ども引きさげて自らもよろしき衣着替へて乗りぬ。

 二条院は近ければ、まだ明かうもならぬほどにおはして、西の対に御車せて下りたまふ。若君をばいと軽らかにかき抱きて下ろしたまふ。少納言、

「なほいと夢の心地ここちしはべるを、いかにしはべるべき事にか」

 とやすらへば、

「そは心ななり。御自ら渡したてまつりつれば、かへりなむとあらば送りせむかし」

 とのたまふに、笑ひて下りぬ。にはかに、あさましう、胸もしづかならず。宮のおぼしのたまはむこと、いかになり果てたまふべき御ありさまにか、とてもかくても頼もしき人々におくれたまへるがいみじさ、と思ふに涙の止まらぬを、さすがにゆゆしければ念じゐたり。

 こなたはみたまはぬ対なれば、御帳などもなかりけり。惟光これみつして、御帳、御屏風などあたりあたり仕立てさせたまふ。御几帳の帷子引き下ろし、御座などただひき繕ふばかりにてあれば、東の対に御宿直物しにつかはして、大殿もりぬ。若君はいとむくつけく、いかにする事ならむ、とふるはれたまへど、さすがに声立ててもえ泣きたまはず。

「少納言がもとに寝む」

 とのたまふ声、いと若し。

「今はさは大殿もるまじきぞよ」

 と教へきこえたまへば、いとわびしくて泣き臥したまへり。乳母めのとはうちも臥されず、ものもおぼえず起きゐたり。

 明けゆくままにわたせば、御殿の造りざま、しつらひざまさらにもはず、庭の砂子も玉を重ねたらむやうにえて、かかやく心地ここちするに、はしたなく思ひゐたれど、こなたには女などもさぶらはざりけり。け疎き客人などのまゐる折節のかたなりければ、男どもぞ御すだれの外にありける、かく人迎へたまへりとく人、

「たれならむ。おぼろけにはあらじ」

 とささめく。御手水、御粥など、こなたにまゐる。日たかう寝起きたまひて、

「人なくて悪しかめるを、さるべき人々、夕づけてこそは迎へさせたまはめ」

 とのたまひて、対にわらはしにつかはす。

「小さきかぎり、ことさらにまゐれ」

 とありければ、いとをかしげにて四人まゐりたり。君は御衣にまとはれて臥したまへるを、せめて起こして、

「かう心うくなおはせそ。すずろなる人はかうはありなむや。女は心柔らかなるなむよき」

 など今より教へきこえたまふ。御かたちはさし離れてしよりもきよらにて、なつかしううち語らひつつ、をかしきあそびものども取りにつかはして、せたてまつり、御心につくことどもをしたまふ。やうやう起きゐてたまふに、鈍色のこまやかなるがうち萎えたるどもを着て、何心なくうちみなどしてゐたまへるがいとうつくしきに、我もうちまれてたまふ。

 東の対に渡りたまへるに、立ちでて、庭の木立こだち、池のかたなどのぞきたまへば、霜枯れの前栽、に描けるやうにおもしろくて、らぬ四位、五位こきまぜに、隙なうりつつ、げにをかしき所かな、とおぼす。御屏風どもなどいとをかしきつつ、慰めておはするもはかなしや。

 君は、二、三日、内裏へもまゐりたまはで、この人をなつけ語らひきこえたまふ。やがて本にとおぼすにや、手習、などさまざまに書きつつ、せたてまつりたまふ。いみじうをかしげに書き集めたまへり。

「武蔵野とへばかこたれぬ」

 と、紫の紙に書いたまへる墨つきの、いとことなるを取りてゐたまへり。すこし小さくて、

  ねはねどあはれとぞ思ふ武蔵野の露分けわぶる草のゆかりを

 とあり。

「いで、君も書いたまへ」

 とあれば、

「まだ、ようは書かず」

 とて上げたまへるが、何心なくうつくしげなれば、うちほほみて、

「よからねど、むげに書かぬこそ悪ろけれ。教へきこえむかし」

 とのたまへば、うちそばみて書いたまふ手つき、筆とりたまへるさまのをさなげなるも、らうたうのみおぼゆれば、心ながらあやしと思す。

「書きそこなひつ」

 と恥ぢて隠したまふを、せめてたまへば、

  かこつべきゆゑをらねばおぼつかないかなる草のゆかりなるらん

 と、いと若けれどひ先えて、ふくよかに書いたまへり。故あま君のにぞたりける。今めかしき手本習はば、いとよう書いたまひてむ、とたまふ。ひひななどわざと屋ども作り続けて、もろともにあそびつつ、こよなきもの思ひのまぎらはしなり。

 かのとまりにし人々、宮渡りたまひてたづねきこえたまひけるに、こえやるかたなくてぞわびあへりける。

「しばし人にらせじ」

 と君ものたまふ、少納言も思ふ事なれば、せちに口固めやりたり。ただ、

「ゆくへもらず、少納言が率て隠しきこえたる」

 とのみこえさするに、宮もふかひなうおぼして、故あま君もかしこに渡りたまはむことをいとものしとおぼしたりし事なれば、乳母めのとのいとさしぐしたる心ばせのあまり、おいらかに渡さむを便なしなどははで、心にまかせ率てはふらかしつるなめり、と泣く泣くかへりたまひぬ。

「もしでたてまつらば、告げよ」

 とのたまふもわづらはしく、僧都そうづの御もとにもたづねきこえたまへど、あとはかなくて、あたらしかりし御かたちなど恋しく悲しとおぼす。北のかたも、母君を憎しと思ひきこえたまひける心も失せて、わが心にまかせつべうおぼしけるにたがひぬるはくちしうおぼしけり。

 やうやう人まゐり集まりぬ。御あそびがたきのわらは女、児ども、いとめづらかに今めかしき御ありさまどもなれば、思ふことなくてあそびあへり。君は、男君のおはせずなどしてさうざうしき夕暮れなどばかりぞあま君を恋ひきこえたまひて、うち泣きなどしたまへど、宮をばことに思ひできこえたまはず。もとよりならひきこえたまはでならひたまへれば、今はただこの後のおやを、いみじうむつびまつはしきこえたまふ。 ものよりおはすればまづでむかひて、あはれにうち語らひ、御懐にりゐて、いささか疎く恥づかしとも思ひたらず。 さる方にいみじうらうたきわざなりけり。

 さかしら心あり、何くれとむつかしき筋になりぬれば、わが心地ここちもすこしたがふふしもで来やと心おかれ、人も恨みがちに、思ひのほかの事、おのづからで来るを、いとをかしきもてあそびなり。むすめなどはた、かばかりになれば、心やすくうちふるまひ、隔てなきさまに臥し起きなどは、えしもすまじきを、これはいとさま変はりたるかしづき種なりと、思ほいためり。