【原文】第3帖「空蝉」(全文)

 られたまはぬままには、

「我は、かく人に憎まれてもならはぬを、今宵こよひなむ初めてうれしと世をおもりぬれば、づかしくてながらふまじうこそ、おもひなりぬれ」

 などのたまへば、涙をさへこぼしてしたり。いとらうたしとおぼす。手さぐりの細くちひさきほど、髪のいと長からざりしけはひのさまかよひたるも、おもひなしにや、あはれなり。あながちにかかづらひたどりらむも、人わろかるべく、まめやかにめざましとおぼし明かしつつ、れいのやうにものたまひまつはさず、夜ぶかでたまへば、この子はいといとほしく、さうざうしとおもふ。

 女も並々ならずかたはらいたしとおもふに、御消息せうそこも絶えてなし。おぼしりにけるとおもふにも、「やがてつれなくてやみたまひなましかばからまし。しひていとほしき御振る舞ひの絶えざらむもうたてあるべし。よきほどにかくてぢめてん」とおもふものから、ただならずながめがちなり。

 きみは心づきなしとおぼしながら、かくてはえやむまじう御こころにかかり、人わろおもほしわびて、小君こぎみに、

「いとつらうもうれたうもおぼゆるに、しひておもかへせど、心にしもしたがはず苦しきを、さりぬべきをり対面たいめむすべくたばかれ」

 とのたまひわたれば、わづらはしけれど、かかるかたにてものたまひまつはすは、うれしうおぼえけり。

 をさな心地ここちに、いかならむをりと待ちわたるに、紀伊守国かみくにくだりなどして、女どちのどやかなる夕闇ゆふやみの道たどたどしげなるまぎれに、わがくるまにててたてまつる。この子もをさなきを、いかならむとおぼせど、さのみもえおぼしのどむまじければ、さりげなき姿にて、かどなどさぬさきにと急ぎおはす。人かたよりき入れて、ろしたてまつる。わらはわらはなれば、宿直人とのゐびとなどもことに入れ追従ついせうせず、心やすし。

 ひむがし妻戸つまどてたてまつりて、我はみなみすみより、格子かうしたたきののしりてりぬ。御達ごたち

「あらはなり」

 とふなり。

「なぞ、かう暑きにこの格子かうしろされたる」

 と問へば、

「昼より、西にしの御かたの渡らせたまひて、碁打ごうたせたまふ」

 とふ。さて向かひゐたらむをばやとおもひて、やをらありあゆでて、すだれのはさまにりたまひぬ。このりつる格子かうしはまださねば、ひまひまゆるにりて西にしざまにかよとほしたまへば、このきはてたる屏風びやうぶはしかたおしたたまれたるに、まぎるべき几帳きちやうきちやうなども、暑ければにや、うち掛けて、いとよくみいれらる。

 火ちかう灯したり。母屋もや中柱なかばしらそばめる人やわが心かくると、まづ目とどめたまへば、濃きあや単襲ひとえがさねなめり。何にかあらむうへに着て、かしらつきほそやかにちひさき人の、ものげなき姿ぞしたる。かほなどは差し向かひたらむ人などにも、わざとゆまじうもてなしたり。手つき痩せ痩せにて、いたうき隠しためり。

 いま一人ひとりは、ひむがし向きにて、残る所なくゆ。白きものうすもの単襲ひとへがさね二藍ふたあゐ小袿こうちきこうちきだつもの、ないがしろに着なして、くれなゐくれなゐの腰へるきはまでむねあらはに、はうぞくなるもてなしなり。いとしろうをかしげに、つぶつぶとえてそぞろかなる人の、かしらつきひたひつきものあざやかに、まみくちつきいと愛敬あいぎやうあいぎやうづき、はなやかなる容貌かたちなり。髪はいとふさやかにて、長くはあらねど、がり、肩のほどきよげに、すべていとねぢけたる所なく、をかしげなる人とえたり。むべこそ親の世になくはおもふらめとをかしくたまふ。心地ここちぞ、なほしづかなるへばやとふとゆる。

 かどなきにはあるまじ。碁打ごうち果てて、けちさすわたり、心とげにえてきはきはとさうどけば、奥の人はいとしづかにのどめて、

「待ちたまへや。そこはにこそあらめ。このわたりのこふをこそ」

 などへど、

「いで、このたびはけにけり。すみの所、いでいで」

 とおよびをかがめて、

とを二十はた三十みそ四十よそ

 などかぞふるさま、伊予いよ湯桁ゆげたもたどたどしかるまじうゆ。すこししなおくれたり。

 たとしへなくくちおほひてさやかにもせねど、目をしつけたまへれば、おのづから側目そばめゆ。目すこし腫れたる心地ここちして、鼻などもあざやかなるところなうねびれて、にほはしきところもえず。つればわろきによれる容貌かたちをいといたうもてつけて、このまされる人よりは心あらむと、目とどめつべきさましたり。

 にぎははしう愛敬あいぎやうあいぎやうづきをかしげなるを、いよいよほこりかにうちとけて、ひなどそぼるれば、にほひおほえて、さるかたにいとをかしき人ざまなり。あはつけしとはおぼしながら、まめならぬ御心はこれもえおぼしはなつまじかりけり。

 たまふかぎりの人は、うちとけたる世なく、ひきつくろひそばめたるうはべをのみこそたまへ、かくうちとけたる人のありさまかいまなどは、まだしたまはざりつることなれば、なに心もなうさやかなるはいとほしながら、ひさしうたまはまほしきに、小君こぎみいで来る心地ここちすれば、やをらでたまひぬ。

 渡殿わたどの戸口とぐちりゐたまへり。いとかたじけなしとおもひて、

れいならぬ人はべりて、えちかうもりはべらず」

「さて、今宵こよひもやかへしてんとする。いとあさましう、からうこそあべけれ」

 とのたまへば、

「などてか。あなたにかへりはべりなば、たばかりはべりなむ」

 とこゆ。「さもさもなびかしつべき気色けしきにこそはあらめ。わらはわらはなれど、ものの心ばへ、人の気色けしきつべくしづまれるを」とおぼすなりけり。

 碁打ごうち果てつるにやあらむ、うちそよめく心地ここちして、人びとあかるるけはひなどすなり。

「若君はいづくにおはしますならむ。この御格子みかうししてん」

 とてらすなり。

しづまりぬなり。りて、さらばたばかれ」

 とのたまふ。この子も、いもうとの御心はたわむところなくまめだちたれば、ひ合はせむかたなくて、人ずくなならむに入れたてまつらんとおもふなりけり。

紀伊かみのいもうともこなたにあるか。我にかいませさせよ」

 とのたまへど、

「いかでか、さははべらん。格子かうしには几帳きちやうきちやうへてはべり」

 とこゆ。さかし、されどもとをかしく思せど、「つとはらせじ、いとほし」とおぼして、夜くることの心もとなさをのたまふ。

 こたみは妻戸つまどをたたきてる。みな人々しづまり寝にけり。

「この障子口さうじぐちにまろは寝たらむ。風きとほせ」

 とて、畳ひろげてす。御達ごたちひむがしひさしにいとあまた寝たるべし。戸放とはなちつるわらはわらはべもそなたにりてしぬれば、とばかりそら寝して、灯かきかた屏風びやうぶをひろげて、かげほのかなるに、やをられたてまつる。「いかにぞ、をこがましきこともこそ」とおぼすに、いとつつましけれど、みちびくままに、母屋もや几帳きちやうきちやうのかたびらき上げて、いとやをらりたまふとすれど、みなしづまれる夜の、おんぞのけはひやはらかなるしも、いとしるかりけり。

女は、さこそ忘れたまふをうれしきにおもひなせど、あやしく夢のやうなることを、心にはなるるをりなきころにて、心とけたるだにられずなむ、昼はながめ、夜は寝覚ねざめがちなれば、春ならぬも、いとなくなげかしきに、碁打ごうちつる君、「今宵こよひは、こなたに」と、いまめかしくうち語らひて、にけり。若き人は、何心なにごころなくいとようまどろみたるべし。

 かかるけはひの、いとかうばしくうちにほふに、かほをもたげたるに、ひとへうち掛けたる几帳きちやうきちやうひま間に、暗けれど、うちみじろきるけはひ、いとしるし。あさましくおぼえて、ともかくもおもかれず、やをら起きでて、生絹すずしなるひとへを一つ着て、すべりでにけり。

 君はりたまひて、ただひとりしたるを心やすくおぼす。床のしもに二人ばかりぞしたる。きぬを押しやりてりたまへるに、ありしけはひよりはものものしくおぼゆれど、おもほしうもらずかし。いぎたなきさまなどぞあやしくはりて、やうやうあらはしたまひて、あさましく心やましけれど、「たがひとたがへとたどりてえんもをこがましく、あやしとおもふべし、本意ほいの人をたづらむも、かばかりのがるる心あめれば、かひなうをこにこそおもはめ」とおぼす。かのをかしかりつる灯影ほかげならば、いかがはせむにおぼしなるも、わろき御心あささなめりかし。

 やうやう目覚めさめて、いとおぼえずあさましきに、あきれたる気色けしきにて、なにの心深くいとほしきよういもなし。世の中をまだおもらぬほどよりは、さればみたるかたにて、あえかにもおもひまどはず。我ともらせじとおぼせど、いかにしてかかることぞと、のちおもひめぐらさむも、わがためにはことにあらねど、あのつらき人の、あながちにをつつむも、さすがにいとほしければ、たびたびの御たがかたたがへにことつけたまひしさまを、いとようひなしたまふ。

 たどらむ人は心つべけれど、まだいと若き心地ここちに、さこそさしぎたるやうなれど、えしもおもかず。憎しとはなけれど、御心とまるべきゆゑもなき心地ここちして、なほかのうれたき人の心をいみじくおぼす。「いづくにはひまぎれて、かたくなしとおもひゐたらむ。かくしふねき人はありがたきものを」とおぼすしも、あやにくにまぎれがたうおもでられたまふ。この人のなま心なく、わかやかなるけはひもあはれなれば、さすがに情け情けしくちぎりおかせたまふ。

「人りたることよりも、かやうなるは、あはれもふこととなむ、昔人むかしびとひける。あひおもひたまへよ。つつむことなきにしもあらねば、ながら心にもえまかすまじくなんありける。また、さるべき人々もゆるされじかしと、かねて胸いたくなむ。忘れで待ちたまへよ」

 など、なほなほしく語らひたまふ。

「人のおもひはべらんことのづかしきになん、えこえさすまじき」

 とうらもなくふ。

「なべて人にらせばこそあらめ、このちひさき上人うへびとに伝へてこえむ。気色けしきなくもてなしたまへ」

 などひおきて、かのぎすべしたるとゆるうすごろもりてでたまひぬ。

 小君こぎみちかしたるを起こしたまへば、うしろめたうおもひつつければ、ふとおどろきぬ。をやをら押しくるに、いたる御達ごたちこゑにて、

「あれはそ」

 とおどろおどろしく問ふ。わづらはしくて、

「まろぞ」

 といらふ。

「夜中に、こはなぞありとありかせたまふ」

とさかしがりて、ざまへ。いと憎くて、

「あらず。ここもとへづるぞ」

 とて、君を押しでたてまつるに、あかつき近き月、くまなくさしでて、ふと人の影えければ、

「またおはするはそ」

 と問ふ。

民部みんぶのおもとなめり。けしうはあらぬおもとのたけだちかな」

 とふ。丈高たけたかき人のつねはるるをふなりけり。びと、これをつらねてありありきけるとおもひて、

「今、ただ今ちならびたまひなむ」

 とふ、我もこのよりでて。わびしければ、えはた押しかへさで、渡殿わたどのくちにかいひて隠れちたまへれば、このおもとさしりて、

「おもとは、今宵こよひうへにやさぶらひたまひつる。おととひよりはらみて、いとわりなければしもにはべりつるを、人ずくななりとてししかば、よべのぼりしかど、なほえ耐ふまじくなむ」

 とうれふ。いらへもかで、

「あなはらはらはら。今こえん」

 とてぎぬるに、からうしてでたまふ。なほかかるありありきは軽々かろがろしくあやしかりけりと、いよいよおぼしりぬべし。

 小君こぎみ、御くるまのしりにて、二条院にでうのゐんにでうのゐんにおはしましぬ。ありさまのたまひて、

をさなかりけり」

 とあはめたまひて、かの人の心をつまはじきをしつつうらみたまふ。いとほしうてものもえこえず。

「いとふかう憎みたまふべかめれば、身もおもひ果てぬ。などかよそにてもなつかしきいらへばかりはしたまふまじき。伊予いよすけに劣りける身こそ」

 など、心づきなしとおもひてのたまふ。ありつる小袿こうちきこうちきを、さすがにおんぞしたき入れて、大殿籠おほとのごももれり。小君こぎみまへおまへせて、よろづに恨み、かつは語らひたまふ。

「あこはらうたけれど、つらきゆかりにこそ、えおもひ果つまじけれ」

 とまめやかにのたまふを、いとわびしとおもひたり。

 しばしうち休みたまへど、寝られたまはず。御すずり急ぎして、さしはへたる御ふみにはあらで、畳紙たたうがみならてならひのやうに書きすさびたまふ。

  空蝉うつせみの身をかへてけるのもとになほ人がらのなつかしきかな

 と書きたまへるを、ふところき入れて持たり。かの人もいかにおもふらんといとほしけれど、かたがたおもほしかへして、御ことつけもなし。かの薄小袿こうちきこうちきのいとなつかしき人香ひとがめるを、身近くならしてゐたまへり。

 小君こぎみ、かしこにきたれば、姉君あねぎみ待ちつけていみじくのたまふ。

「あさましかりしに、とかうまぎらはしても、人のおもひけむことり所なきに、いとなむわりなき。いとかう心をさなきを、かつはいかにおもほすらん」

 とてづかしめたまふ。左右ひだりみぎひだりみぎに苦しうおもへど、かの御ならてならひでたり。さすがにりてたまふ。かのもぬけを、いかに伊勢をの海人あまのしほなれてや、などおもふもただならず。いとよろづにみだれて、西の君もものづかしき心地ここちして渡りたまひにけり。またる人もなきことなれば、人れずうちながめてゐたり。小君こぎみの渡りありありくにつけても、胸のみふたがれど、御消息せうそこもなし。あさましとおもかたもなくて、されたる心にものあはれなるべし。

 つれなき人も、さこそしづむれ、いとあさはかにもあらぬ御気色けしきを、ありしながらのわが身ならばと、り返すものならねど、しのびがたければ、この御畳紙たたうがみかたかたに、

  空蝉うつせみにおく露の木隠こがくれてしのしのびにるるそでかな」