寝られたまはぬままには、
「我は、かく人に憎まれてもならはぬを、今宵なむ初めて憂しと世を思ひ知りぬれば、恥づかしくてながらふまじうこそ、思ひなりぬれ」
などのたまへば、涙をさへこぼして臥したり。いとらうたしとおぼす。手さぐりの細く小さきほど、髪のいと長からざりしけはひのさま通ひたるも、思ひなしにや、あはれなり。あながちにかかづらひたどり寄らむも、人悪かるべく、まめやかにめざましとおぼし明かしつつ、例のやうにものたまひまつはさず、夜深う出でたまへば、この子はいといとほしく、さうざうしと思ふ。
女も並々ならずかたはらいたしと思ふに、御消息も絶えてなし。おぼし懲りにけると思ふにも、「やがてつれなくてやみたまひなましかば憂からまし。しひていとほしき御振る舞ひの絶えざらむもうたてあるべし。よきほどにかくて閉ぢめてん」と思ふものから、ただならずながめがちなり。
君は心づきなしとおぼしながら、かくてはえやむまじう御心にかかり、人悪く思ほしわびて、小君に、
「いとつらうもうれたうもおぼゆるに、しひて思ひ返せど、心にしもしたがはず苦しきを、さりぬべき折見て対面すべくたばかれ」
とのたまひわたれば、わづらはしけれど、かかる方にてものたまひまつはすは、うれしうおぼえけり。
幼き心地に、いかならむ折と待ちわたるに、紀伊の守国に下りなどして、女どちのどやかなる夕闇の道たどたどしげなる紛れに、わが車にて率てたてまつる。この子も幼きを、いかならむとおぼせど、さのみもえおぼしのどむまじければ、さりげなき姿にて、門など鎖さぬ先にと急ぎおはす。人見ぬ方より引き入れて、下ろしたてまつる。童なれば、宿直人などもことに見入れ追従せず、心やすし。
東の妻戸に立てたてまつりて、我は南の隅の間より、格子たたきののしりて入りぬ。御達、
「あらはなり」
と言ふなり。
「なぞ、かう暑きにこの格子は下ろされたる」
と問へば、
「昼より、西の御方の渡らせたまひて、碁打たせたまふ」
と言ふ。さて向かひゐたらむを見ばやと思ひて、やをら歩み出でて、簾のはさまに入りたまひぬ。この入りつる格子はまだ鎖さねば、隙見ゆるに寄りて西ざまに見通したまへば、この際に立てたる屏風、端の方おし畳まれたるに、紛るべき几帳なども、暑ければにや、うち掛けて、いとよく見入れらる。
火近う灯したり。母屋の中柱に側める人やわが心かくると、まづ目とどめたまへば、濃き綾の単襲なめり。何にかあらむ上に着て、頭つき細やかに小さき人の、ものげなき姿ぞしたる。顔などは差し向かひたらむ人などにも、わざと見ゆまじうもてなしたり。手つき痩せ痩せにて、いたう引き隠しためり。
いま一人は、東向きにて、残る所なく見ゆ。白き薄物の単襲、二藍の小袿だつもの、ないがしろに着なして、紅の腰引き結へる際まで胸あらはに、はうぞくなるもてなしなり。いと白うをかしげに、つぶつぶと肥えてそぞろかなる人の、頭つき額つきものあざやかに、まみ口つきいと愛敬づき、はなやかなる容貌なり。髪はいとふさやかにて、長くはあらねど、下がり端、肩のほどきよげに、すべていとねぢけたる所なく、をかしげなる人と見えたり。むべこそ親の世になくは思ふらめとをかしく見たまふ。心地ぞ、なほ静かなる気を添へばやとふと見ゆる。
かどなきにはあるまじ。碁打ち果てて、結さすわたり、心とげに見えてきはきはとさうどけば、奥の人はいと静かにのどめて、
「待ちたまへや。そこは持にこそあらめ。このわたりの劫をこそ」
など言へど、
「いで、このたびは負けにけり。隅の所、いでいで」
と指をかがめて、
「十、二十、三十、四十」
などかぞふるさま、伊予の湯桁もたどたどしかるまじう見ゆ。すこし品おくれたり。
たとしへなく口おほひてさやかにも見せねど、目をしつけたまへれば、おのづから側目も見ゆ。目すこし腫れたる心地して、鼻などもあざやかなるところなうねびれて、にほはしきところも見えず。言ひ立つれば悪きによれる容貌をいといたうもてつけて、このまされる人よりは心あらむと、目とどめつべきさましたり。
にぎははしう愛敬づきをかしげなるを、いよいよほこりかにうちとけて、笑ひなどそぼるれば、にほひ多く見えて、さる方にいとをかしき人ざまなり。あはつけしとはおぼしながら、まめならぬ御心はこれもえおぼし放つまじかりけり。
見たまふ限りの人は、うちとけたる世なく、ひきつくろひ側めたるうはべをのみこそ見たまへ、かくうちとけたる人のありさまかいま見などは、まだしたまはざりつることなれば、何心もなうさやかなるはいとほしながら、久しう見たまはまほしきに、小君出で来る心地すれば、やをら出でたまひぬ。
渡殿の戸口に寄りゐたまへり。いとかたじけなしと思ひて、
「例ならぬ人はべりて、え近うも寄りはべらず」
「さて、今宵もや帰してんとする。いとあさましう、からうこそあべけれ」
とのたまへば、
「などてか。あなたに帰りはべりなば、たばかりはべりなむ」
と聞こゆ。「さもさもなびかしつべき気色にこそはあらめ。童なれど、ものの心ばへ、人の気色見つべく静まれるを」とおぼすなりけり。
碁打ち果てつるにやあらむ、うちそよめく心地して、人びとあかるるけはひなどすなり。
「若君はいづくにおはしますならむ。この御格子は鎖してん」
とて鳴らすなり。
「静まりぬなり。入りて、さらばたばかれ」
とのたまふ。この子も、いもうとの御心はたわむところなくまめだちたれば、言ひ合はせむ方なくて、人少なならむ折に入れたてまつらんと思ふなりけり。
「紀伊の守のいもうともこなたにあるか。我にかいま見せさせよ」
とのたまへど、
「いかでか、さははべらん。格子には几帳添へてはべり」
と聞こゆ。さかし、されどもとをかしく思せど、「見つとは知らせじ、いとほし」とおぼして、夜更くることの心もとなさをのたまふ。
こたみは妻戸をたたきて入る。みな人々静まり寝にけり。
「この障子口にまろは寝たらむ。風吹きとほせ」
とて、畳ひろげて臥す。御達、東の廂にいとあまた寝たるべし。戸放ちつる童もそなたに入りて臥しぬれば、とばかりそら寝して、灯明かき方に屏風をひろげて、影ほのかなるに、やをら入れたてまつる。「いかにぞ、をこがましきこともこそ」とおぼすに、いとつつましけれど、導くままに、母屋の几帳のかたびら引き上げて、いとやをら入りたまふとすれど、みな静まれる夜の、御衣のけはひやはらかなるしも、いとしるかりけり。
女は、さこそ忘れたまふをうれしきに思ひなせど、あやしく夢のやうなることを、心に離るる折なきころにて、心とけたる寝だに寝られずなむ、昼はながめ、夜は寝覚めがちなれば、春ならぬ木の芽も、いとなくなげかしきに、碁打ちつる君、「今宵は、こなたに」と、いまめかしくうち語らひて、寝にけり。若き人は、何心なくいとようまどろみたるべし。
かかるけはひの、いとかうばしくうちにほふに、顔をもたげたるに、単衣うち掛けたる几帳の隙間に、暗けれど、うちみじろき寄るけはひ、いとしるし。あさましくおぼえて、ともかくも思ひ分かれず、やをら起き出でて、生絹なる単衣を一つ着て、すべり出でにけり。
君は入りたまひて、ただひとり臥したるを心やすくおぼす。床の下に二人ばかりぞ臥したる。衣を押しやりて寄りたまへるに、ありしけはひよりはものものしくおぼゆれど、思ほしうも寄らずかし。いぎたなきさまなどぞあやしく変はりて、やうやう見あらはしたまひて、あさましく心やましけれど、「人違へとたどりて見えんもをこがましく、あやしと思ふべし、本意の人を尋ね寄らむも、かばかり逃るる心あめれば、かひなうをこにこそ思はめ」とおぼす。かのをかしかりつる灯影ならば、いかがはせむにおぼしなるも、悪き御心浅さなめりかし。
やうやう目覚めて、いとおぼえずあさましきに、あきれたる気色にて、何の心深くいとほしきよういもなし。世の中をまだ思ひ知らぬほどよりは、さればみたる方にて、あえかにも思ひまどはず。我とも知らせじとおぼせど、いかにしてかかることぞと、後に思ひめぐらさむも、わがためにはことにあらねど、あのつらき人の、あながちに名をつつむも、さすがにいとほしければ、たびたびの御方違へにことつけたまひしさまを、いとよう言ひなしたまふ。
たどらむ人は心得つべけれど、まだいと若き心地に、さこそさし過ぎたるやうなれど、えしも思ひ分かず。憎しとはなけれど、御心とまるべきゆゑもなき心地して、なほかのうれたき人の心をいみじくおぼす。「いづくにはひ紛れて、かたくなしと思ひゐたらむ。かくしふねき人はありがたきものを」とおぼすしも、あやにくに紛れがたう思ひ出でられたまふ。この人のなま心なく、若やかなるけはひもあはれなれば、さすがに情け情けしく契りおかせたまふ。
「人知りたることよりも、かやうなるは、あはれも添ふこととなむ、昔人も言ひける。あひ思ひたまへよ。つつむことなきにしもあらねば、身ながら心にもえまかすまじくなんありける。また、さるべき人々もゆるされじかしと、かねて胸いたくなむ。忘れで待ちたまへよ」
など、なほなほしく語らひたまふ。
「人の思ひはべらんことの恥づかしきになん、え聞こえさすまじき」
とうらもなく言ふ。
「なべて人に知らせばこそあらめ、この小さき上人に伝へて聞こえむ。気色なくもてなしたまへ」
など言ひおきて、かの脱ぎすべしたると見ゆる薄衣を取りて出でたまひぬ。
小君、近う臥したるを起こしたまへば、うしろめたう思ひつつ寝ければ、ふとおどろきぬ。戸をやをら押し開くるに、老いたる御達の声にて、
「あれは誰そ」
とおどろおどろしく問ふ。わづらはしくて、
「まろぞ」
と答ふ。
「夜中に、こはなぞ外歩かせたまふ」
とさかしがりて、外ざまへ来。いと憎くて、
「あらず。ここもとへ出づるぞ」
とて、君を押し出でたてまつるに、暁近き月、隈なくさし出でて、ふと人の影見えければ、
「またおはするは誰そ」
と問ふ。
「民部のおもとなめり。けしうはあらぬおもとの丈だちかな」
と言ふ。丈高き人の常に笑はるるを言ふなりけり。老い人、これを連ねて歩きけると思ひて、
「今、ただ今立ちならびたまひなむ」
と言ふ言ふ、我もこの戸より出でて来。わびしければ、えはた押し返さで、渡殿の口にかい添ひて隠れ立ちたまへれば、このおもとさし寄りて、
「おもとは、今宵は上にやさぶらひたまひつる。おととひより腹を病みて、いとわりなければ下にはべりつるを、人少ななりとて召ししかば、よべ参う上りしかど、なほえ耐ふまじくなむ」
と憂ふ。答へも聞かで、
「あな腹々。今聞こえん」
とて過ぎぬるに、からうして出でたまふ。なほかかる歩きは軽々しくあやしかりけりと、いよいよおぼし懲りぬべし。
小君、御車のしりにて、二条院におはしましぬ。ありさまのたまひて、
「幼かりけり」
とあはめたまひて、かの人の心を爪はじきをしつつうらみたまふ。いとほしうてものもえ聞こえず。
「いと深う憎みたまふべかめれば、身も憂く思ひ果てぬ。などかよそにてもなつかしき答へばかりはしたまふまじき。伊予の介に劣りける身こそ」
など、心づきなしと思ひてのたまふ。ありつる小袿を、さすがに御衣の下に引き入れて、大殿籠もれり。小君を御前に臥せて、よろづに恨み、かつは語らひたまふ。
「あこはらうたけれど、つらきゆかりにこそ、え思ひ果つまじけれ」
とまめやかにのたまふを、いとわびしと思ひたり。
しばしうち休みたまへど、寝られたまはず。御硯急ぎ召して、さしはへたる御文にはあらで、畳紙に手習のやうに書きすさびたまふ。
空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな
と書きたまへるを、懐に引き入れて持たり。かの人もいかに思ふらんといとほしけれど、かたがた思ほしかへして、御ことつけもなし。かの薄衣は小袿のいとなつかしき人香に染めるを、身近くならして見ゐたまへり。
小君、かしこに行きたれば、姉君待ちつけていみじくのたまふ。
「あさましかりしに、とかう紛らはしても、人の思ひけむこと避り所なきに、いとなむわりなき。いとかう心幼きを、かつはいかに思ほすらん」
とて恥づかしめたまふ。左右に苦しう思へど、かの御手習取り出でたり。さすがに取りて見たまふ。かのもぬけを、いかに伊勢をの海人のしほなれてや、など思ふもただならず。いとよろづに乱れて、西の君ももの恥づかしき心地して渡りたまひにけり。また知る人もなきことなれば、人知れずうちながめてゐたり。小君の渡り歩くにつけても、胸のみ塞がれど、御消息もなし。あさましと思ひ得る方もなくて、されたる心にものあはれなるべし。
つれなき人も、さこそ静むれ、いとあさはかにもあらぬ御気色を、ありしながらのわが身ならばと、取り返すものならねど、忍びがたければ、この御畳紙の片つ方に、
空蝉の羽におく露の木隠れて忍び忍びに濡るる袖かな」