
出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」
光源氏、名のみことことしう、言ひ消たれたまふ咎多かなるに、いとどかかるすきごとどもを末の世にも聞き伝へて、軽びたる名をや流さむと、忍びたまひける隠ろへごとをさへ語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ。さるは、いといたく世を憚り、まめだちたまひけるほど、なよびかにをかしきことはなくて、交野少将には笑はれたまひけむかし。
まだ中将などにものしたまひし時は、内裏にのみさぶらひようしたまひて、大殿には絶え絶えまかでたまふ。しのぶの乱れやと、疑ひきこゆることもありしかど、さしもあだめき目馴れたる、うちつけのすきずきしさなどはこのましからぬ御本上にて、まれには、あながちに引きたがへ、心づくしなることを御心に思しとどむる癖なむあやにくにて、さるまじき御ふるまひもうちまじりける。
長雨晴れ間なきころ、内裏の御物忌さし続きて、いとど長居さぶらひたまふを、大殿にはおぼつかなく、うらめしく思したれど、よろづの御よそひ何くれとめづらしきさまに調じ出でたまひつつ、御むすこの君たち、ただこの御宿直所の宮仕へを勤めたまふ。
宮腹の中将はなかに親しく馴れきこえたまひて、遊びたはぶれをも人よりは心安く、馴れ馴れしくふるまひたり。右大臣のいたはりかしづきたまふ住処は、この君もいともの憂くして、すきがましきあだ人なり。里にても、わが方のしつらひまばゆくして、君の出で入りしたまふにうち連れきこえたまひつつ、夜昼、学問をも遊びをももろともにして、をさをさ立ちおくれず、いづくにてもまつはれきこえたまふほどに、おのづからかしこまりもえおかず、心の内に思ふことをも隠しあへずなん睦れきこえたまひける。
つれづれと降り暮らして、しめやかなる宵の雨に、殿上にもをさをさ人少なに、御宿直所も例よりはのどやかなる心地するに、大殿油近くて文どもなど見たまふ。近き御厨子なる、いろいろの紙なる文どもを引き出でて、中将わりなくゆかしがれば、
「さりぬべき、すこしは見せむ。かたはなるべきもこそ」
と、ゆるしたまはねば、
「そのうちとけてかたはらいたし、と思されんこそゆかしけれ。おしなべたるおほかたのは、 数ならねど、ほどほどにつけて書きかはしつつも見はべりなん。おのがじし、うらめしき折々、待ち顔ならむ夕暮れなどのこそ、見所はあらめ」
と怨ずれば、やむごとなく、切に隠したまふべきなどはかやうにおほぞうなる御厨子などにうちおき散らしたまふべくもあらず、深く取りおきたまふべかめれば二の町の心安きなるべし。片端づつ見るに、
「よく、さまざまなるものどもこそはべりけれ」
とて、心あてに「それかかれか」など問ふ中に、言ひ当つるもあり、もて離れたることをも思ひ寄せて疑ふもをかしと思せど、言少なにてとかく紛らはしつつ、とり隠したまひつ。
「そこにこそ多く集へたまふらめ。すこし見ばや。さてなんこの厨子も心よくひらくべき」
とのたまへば、
「御覧じ所あらむこそ、かたくはべらめ」
など聞こえたまふついでに、
「女の、これはしもと、難つくまじきはかたくもあるかな、とやうやうなむ見たまへ知る。ただうはべばかりの情に手走り書き、をりふしのいらへ心得てうちしなどばかりは、随分によろしきも多かりと見たまふれど、そもまことにその方を取り出でん選びに、かならず漏るまじきはいとかたしや。わが心得たることばかりをおのがじし心をやりて、人をばおとしめなど、かたはらいたきこと多かり。親など立ち添ひもてあがめて、生ひ先こもれる窓のうちなるほどは、ただかたかどを聞き伝へて心を動かすこともあめり。かたちをかしくうちおほどき、若やかにて紛るることなきほど、はかなきすさびをも人まねに心を入るることもあるに、おのづからひとつゆゑづけてし出づることもあり。見る人、おくれたる方をば言ひ隠し、さてありぬべき方をばつくろひてまねび出だすに、それしかあらじと、そらにいかがはおしはかり思ひ朽たさむ。まことかと見もてゆくに、見おとりせぬやうはなくなんあるべき」
と、うめきたるけしきもはづかしげなれば、いとなべてはあらねど、我、思し合はすることやあらむ、 うちほほゑみて、
「そのかたかどもなき人はあらむや」
とのたまへば、
「いとさばかりならむあたりには誰かはすかされ寄りはべらむ。取る方なく口惜しき際と、優なりとおぼゆばかりすぐれたるとは、数ひとしくこそはべらめ。人の品高く生まれぬれば、人にもてかしづかれて、隠るること多く、自然にそのけはひこよなかるべし。中の品になん、人の心々、おのがじしの立てたるおもむきも見えて、分かるべきことかたがた多かるべき。下のきざみといふ際になれば、ことに耳立たずかし」
とて、いと隈なげなるけしきなるもゆかしくて、
「その品々やいかに。いづれを三つの品におきてか分くべき。もとの品高く生まれながら身は沈み、位みじかくて人げなき。また直人の上達部などまで成り上り、我は顔にて家の内を飾り、人におとらじと思へる。そのけぢめをばいかが分くべき」
と問ひたまふほどに、左馬頭、藤式部丞、「御物忌に籠らむ」とて参れり。世のすきものにてものよく言ひとほれるを、中将待ち取りて、この品々をわきまへ定めあらそふ。いと聞きにくきこと多かり。
「成り上れども、もとよりさるべき筋ならぬは、世人の思へることも、さは言へどなほことなり。また、もとはやんごとなき筋なれど、世に経るたづき少なく、時世に移ろひておぼえ衰へぬれば、心は心としてこと足らず、悪びたることども出でくるわざなめれば、取り取りにことわりて中の品にぞおくべき。受領と言ひて、人の国のことにかかづらひいとなみて、品定まりたる中にもまたきざみきざみありて、中の品のけしうはあらぬ、選り出でつべきころほひなり。なまなまの上達部よりも、非参議の四位どもの、世のおぼえ口惜しからず、もとの根ざしいやしからぬ、やすらかに身をもてなしふるまひたる、いとかわらかなりや。家のうちに足らぬことなど、はたなかめるままにはぶかず、まばゆきまでもてかしづける女などの、おとしめがたく生ひ出づるもあまたあるべし。宮仕へに出で立ちて、思ひかけぬさいはひ取り出づる例ども、多かりかし」
など言へば、
「すべて、にぎははしきによるべきななり」
とて笑ひたまふを、
「異人の言はむやうに、心得ず仰せらる」
と中将にくむ。
「もとの品、時世のおぼえうちあひやむごとなきあたりの、うちうちのもてなしけはひおくれたらむはさらにも言はず。何をしてかく生ひ出でけむと、言ふかひなくおぼゆべし。うちあひてすぐれたらむもことわり、これこそはさるべきこととおぼえて、めづらかなることと心もおどろくまじ。なにがしがおよぶべきほどならねば、上が上はうちおきはべりぬ。さて、世にありと人に知られず、さびしく荒れたらむ葎の門に、思ひのほかにらうたげならん人の閉ぢられたらんこそ、限りなくめづらしくはおぼえめ。いかではたかかりけむと、思ふよりたがへることなんあやしく心とまるわざなる。父の年老い、ものむつかしげに太り過ぎ、せうとの顔にくげに、思ひやりことなることなき閨のうちに、いといたく思ひ上がり、はかなくし出でたることわざもゆゑなからず見えたらむ、片かどにてもいかが思ひのほかにをかしからざらむ。すぐれて疵なき方の選びにこそおよばざらめ、さる方にて捨てがたきものをば」
とて、式部を見やれば、わが妹どものよろしき聞こえあるを思ひてのたまふにや、とや心得らむ、ものも言はず。
「いでや、上の品と思ふにだにかたげなる世を」と、君は思すべし。白き御衣どものなよよかなるに、直衣ばかりをしどけなく着なしたまひて、紐などもうち捨てて、添ひ臥したまへる御火影いとめでたく、女にて見たてまつらまほし。この御ためには上が上を選り出でても、なほ飽くまじく見えたまふ。
さまざまの人の上どもを語りあはせつつ、
「おほかたの世につけて見るには咎なきも、わがものとうち頼むべきを選らんに、多かる中にもえなん思ひ定むまじかりける。男のおほやけに仕うまつり、はかばかしき世のかためとなるべきも、まことのうつはものとなるべきを取り出ださむにはかたかるべしかし。されど、かしこしとても、ひとりふたり世中をまつりごちしるべきならねば、上は下に助けられ、下は上になびきて、こと広きに譲ろふらん。狭き家のうちのあるじとすべき人ひとりを思ひめぐらすに、足らはで悪しかるべき大事どもなむかたがた多かる。とあればかかり、あふさきるさにて、なのめにさてもありぬべき人の少なきを、すきずきしき心のすさびにて、人のありさまをあまた見あはせむの好みならねど、ひとへに思ひ定むべき寄るべとすばかりに、同じくは、わが力入りをし、なほし引きつくろふべき所なく、心にかなふやうにもやと選り初めつる人の、定まりがたきなるべし。必ずしもわが思ふにかなはねど、見そめつる契りばかりを捨てがたく、思ひとまる人はものまめやかなりと見え、さて保たるる女のためも心にくくおしはからるるなり。されど、何か。世のありさまを見たまへ集むるままに、心におよばずいとゆかしきこともなしや。君達の上なき御選びには、ましていかばかりの人かはたぐひたまはん。かたちきたなげなく若やかなるほどの、おのがじしは塵もつかじと身をもてなし、文を書けどおほどかに言選りをし、墨つきほのかに心もとなく思はせつつ、またさやかにも見てしかなとすべなく待たせ、わづかなる声聞くばかり言ひ寄れど、息の下に引き入れ言少ななるが、いとよくもて隠すなりけり。なよびかに女しと見れば、あまり情に引きこめられて、取りなせばあだめく。これをはじめの難とすべし。ことがなかに、なのめなるまじき人の後見の方は、もののあはれ知り過ぐし、はかなきついでの情あり、をかしきにすすめる方なくてもよかるべしと見えたるに、また、まめまめしき筋を立てて、耳はさみがちにびさうなき家刀自の、ひとへにうちとけたる後見ばかりをして、朝夕の出で入りにつけても、公私の人のたたずまひ、よきあしきことの目にも耳にもとまるありさまを、疎き人にわざとうちまねばんやは、近くて見ん人の聞き分き思ひ知るべからむに、語りも合はせばやとうちも笑まれ、涙もさしぐみ、もしはあやなきおほやけ腹立たしく、心ひとつに思ひあまることなど多かるを、何にかは聞かせむと思へば、うち背かれて、人知れぬ思ひ出で笑ひもせられ、『あはれ』ともうちひとりごたるるに、『何ごとぞ』などあはつかにさし仰ぎゐたらむは、いかがはくちをしからぬ。ただひたふるに、子めきてやはらかならむ人をとかく引きつくろひては、などか見ざらん。心もとなくともなほしどころある心地すべし。げにさし向ひて見むほどは、さてもらうたき方に罪ゆるし見るべきを、立ち離れて、さるべきことをも言ひやり、をりふしにし出でむわざの、あだことにもまめごとにもわが心と思ひ得ることなく、深きいたりなからむは、いとくちをしく頼もしげなき咎やなほ苦しからむ。常はすこしそばそばしく心づきなき人の、をりふしにつけて出でばえするやうもありかし」
など、隈なきもの言ひも、定めかねていたくうち嘆く。
「いまはただ、品にもよらじ、かたちをばさらにも言はじ。いとくちをしくねぢけがましきおぼえだになくは、ただひとへに、ものまめやかに静かなる心のおもむきならむ寄るべをぞ、つひの頼み所には思ひおくべかりける。あまりゆゑよし、心ばせうち添へたらむをばよろこびに思ひ、すこしおくれたる方あらむをもあながちに求め加へじ。うしろやすくのどけき所だに強くは、うはべのなさけはおのづからもてつけつべきわざをや。艶にもの恥して、うらみ言ふべきことをも見知らぬさまに忍びて、上はつれなくみさをづくり、心ひとつに思ひあまる時は、言はん方なくすごき言の葉、あはれなる歌を詠みおき、しのばるべき形見をとどめて、深き山里、世離れたる海づらなどにはひ隠れぬるをりかし。童にはべりしとき、女房などの物語読みしを聞きて、いとあはれにかなしく心深きことかな、と涙をさへなん落としはべりし。いま思ふには、いと軽々しくことさらびたることなり。心ざし深からん男をおきて、見る目の前につらきことありとも、人の心を見知らぬやうに逃げ隠れて、人をまどはし心を見んとするほどに、長き世のもの思ひになる、いとあぢきなきことなり。『心深しや』、などほめたてられて、あはれすすみぬれば、やがて尼になりぬかし。思ひ立つほどはいと心澄めるやうにて、世にかへりみすべくも思へらず。『いで、あな悲し。かくはた、思しなりにけるよ』などやうに、あひ知れる人来とぶらひ、ひたすらに憂しとも思ひ離れぬ男聞きつけて涙落とせば、使ふ人、古御達など、『君の御心はあはれなりけるものを。あたら御身を』など言ふ。みづから額髪をかきさぐりて、あへなく心細ければ、うちひそみぬかし。忍ぶれど涙こぼれそめぬれば、折々ごとにえ念じ得ず、くやしきこと多かめるに、仏もなかなか心ぎたなしと見たまひつべし。濁りに染めるほどよりも、なま浮かびにてはかへりて悪しき道にもただよひぬべくおぼゆる。絶えぬ宿世浅からで、尼にもなさで尋ね取りたらんも、やがてその思ひ出でうらめしきふしあらざらんや。あしくもよくもあひ添ひて、とあらむ折も、かからんきざみをも見過ぐしたらん仲こそ、契り深くあはれならめ、われも人もうしろめたく心おかれじやは。また、なのめに移ろふ方あらむ人をうらみてけしきばみ背かんはた、をこがましかりなん。心は移ろふ方ありとも、見そめし心ざしいとほしく思はば、さる方のよすがに思ひてもありぬべきに、さやうならむたぢろきに絶えぬべきわざなり。すべて、よろづの事なだらかに、怨ずべきことをば見知れるさまにほのめかし、うらむべからむふしをもにくからずかすめなさば、それにつけてあはれもまさりぬべし。多くはわが心も見る人からをさまりもすべし。あまりむげにうちゆるへ見放ちたるも、心やすくらうたきやうなれど、おのづからかろき方にぞおぼえはべるかし。つながぬ舟の浮きたるためしもげにあやなし。さははべらぬか」
と言へば、中将うなづく。
「さしあたりて、をかしともあはれとも心に入らむ人の、頼もしげなき疑ひあらむこそ大事なるべけれ。わが心あやまちなくて見過ぐさば、さしなほしてもなどか見ざらむとおぼえたれど、それさしもあらじ。ともかくも、たがふべきふしあらむを、のどやかに見忍ばむよりほかにますことあるまじけり」
と言ひて、わがいもうとの姫君はこの定めにかなひたまへりと思へば、君のうちねぶりて言葉まぜたまはぬを、さうざうしく心やましと思ふ。馬の頭、もの定めの博士になりてひひらきゐたり。中将はこのことわり聞き果てむと、心入れてあへしらひゐたまへり。
「よろづのことによそへておぼせ。木の道の匠の、よろづのものを心にまかせて作り出だすも、臨時のもて遊びものの、そのものと跡も定まらぬは、そばつきさればみたるも、げにかうもしつべかりけりと、時につけつつさまを変へて、いまめかしきに目移りてをかしきもあり。大事として、まことにうるはしき人の調度の、飾りとする定まれるやうあるものを難なくし出づることなん、なほまことのものの上手はさまことに見え分かれはべる。また、絵所に上手多かれど、墨書きに選ばれてつぎつぎに、さらにおとりまさるけぢめふとしも見え分かれず。かかれど、人の見およばぬ蓬莱の山、荒海の怒れる魚の姿、唐国のはげしきけだもののかたち、目に見えぬ鬼の顔などのおどろおどろしく作りたるものは、心にまかせて一際目おどろかして、実には似ざらめどさてありぬべし。世の常の山のたたずまひ、水の流れ、目に近き人の家居ありさま、げにと見え、なつかしくやはらいだるかたなどを静かにかきまぜて、すくよかならぬ山のけしき、木深く世離れてたたみなし、け近きまがきの内をば、その心しらひおきてなどをなん、上手はいといきほひことに、わろものはおよばぬ所多かめる。手を書きたるにも深きことはなくて、ここかしこの点長に走り書き、そこはかとなくけしきばめるは、うち見るにかどかどしくけしきだちたれど、なほまことの筋をこまやかに書き得たるは、うはべの筆消えて見ゆれど、いまひとたび取り並べて見ればなほ実になん寄りける。はかなきことだにかくこそはべれ。まして人の心の時にあたりてけしきばめらむ、見る目のなさけをばえ頼むまじく思ふたまへてはべる。そのはじめのこと、すきずきしくとも申しはべらむ」
とて近くゐ寄れば、君も目覚ましたまふ。中将いみじく信じて、つらつゑをつきて向かひゐたまへり。法の師の、世のことわり説き聞かせむ所の心地するもかつはをかしけれど、かかるついではおのおのむつ言もえ忍びとどめずなんありける。
「はやう、まだいと下臈にはべりし時、あはれと思ふ人はべりき。聞こえさせつるやうに、かたちなどいとまほにもはべらざりしかば、若きほどのすき心には、この人をとまりにとも思ひとどめはべらず、寄るべとは思ひながら、さうざうしくてとかく紛れはべりしを、もの怨じをいたくしはべりしかば、心づきなく、いとかからでおいらかならましかばと思ひつつ、あまりいとゆるしなく疑ひはべりしもうるさくて、かく数ならぬ身を見も放たでなどかくしも思ふらむ、と心ぐるしき折々もはべりて、自然に心をさめらるるやうになんはべりし。この女のあるやう、もとより思ひいたらざりけることにも、いかでこの人のためにはと、なき手を出だし、おくれたる筋の心をもなほくちをしくは見えじと思ひはげみつつ、とにかくにつけてものまめやかに後見、つゆにても心にたがふことはなくもがなと思へりしほどに、すすめる方と思ひしかど、とかくになびきてなよびゆき、みにくきかたちをもこの人に見や疎まれんとわりなく思ひつくろひ、疎き人に見えば面伏せにや思はんと憚りはぢて、みさをにもてつけて、見馴るるままに心もけしうはあらずはべりしかど、ただこのにくき方ひとつなん心をさめずはべりし。そのかみ思ひはべりしやう、かうあながちにしたがひおぢたる人なめり、いかで懲るばかりのわざしておどして、この方もすこしよろしくもなり、さがなさもやめむ、と思ひて、まことにうしなども思ひて絶えぬべきけしきならば、かばかりわれにしたがふ心ならば思ひ懲りなむ、と思ひたまひ得て、ことさらになさけなくつれなきさまを見せて、例の腹立ち怨ずるに、
『かくおぞましくはいみじき契り深くとも絶えてまた見じ、限りと思はばかくわりなきもの疑ひはせよ、行く先長く見えむと思はば、つらきことありとも念じて、なのめに思ひなりて、かかる心だに失せなばいとあはれとなん思ふべき、人なみなみにもなり、すこしおとなびんに添へてもまた並ぶ人なくあるべきやう』
など、かしこくをしへ立つるかなと思ひたまひて、我たけく言ひしはべるに、すこしうち笑ひて、
『よろづに見立てなく、ものげなきほどを見過ぐして、人数なるも世もやと待つも方は、いとのどかに思ひなされて心やましくもあらず。つらき心を忍びて、思ひなほらん折を見つけんと、年月を重ねんあいな頼みはいと苦しくなんあるべければ、互に背きぬべき刻みになむある』
と、妬げに言ふに腹立たしくなりて、にくげなることどもを言ひはげましはべるに、女もえをさめぬ筋にて、指ひとつを引き寄せて食ひてはべりを、おどろおどろしくかこちて、
『かかる疵さへつきぬれば、いよいよまじらひをすべきにもあらず。はづかしめたまふめる官位いとどしく、何につけてかは人めかん。世を背きぬべき身なり』
など言ひおどして、
『さらば、けふこそは限りなめれ』
と、この指をかがめてまかでぬ。
手を折りてあひ見しことを数ふればこれひとつやは君が憂きふし
など言ひしろひはべりしかど、まことには変はるべきこととも思ひたまへずながら、日ごろ経るまで消息も遣はさず、あくがれまかり歩くに、臨時の祭の調楽に、夜ふけていみじうみぞれ降る夜、これかれまかりあかるる所にて、思ひめぐらせばなほ家路と思はむ方はまたなかりけり、内裏わたりの旅寝すさまじかるべく、けしきばめるあたりはそぞろ寒くや、と思うたまへられしかば、いかが思へるとけしきも見がてら、雪をうち払いつつ、なま人わろく爪食はるれど、さりとも今宵日ごろのうらみはとけなむと思ひたまへしに、火ほのかに壁に背け、なえたる衣どもの厚肥えたる大いなる籠にうちかけて、引き上ぐべき、もののかたびらなどうち上げて、今宵ばかりやと待ちけるさまなり。さればよ、と心おごりするに、正身はなし。さるべき女房どもばかりとまりて、
『親の家に、この夜さりなん渡りぬる』
と答へはべり。艶なる歌も詠まず、けしきばめる消息もせで、いとひたやごもりに情なかりしかば、あへなき心地して、さがなくゆるしなかりしも我を疎みねと思ふ方の心やありけむと、さしも見たまへざりしことなれど、心やましきままに思ひはべりしに、着るべきもの、常よりも心とどめたる色あひ、しざま、いとあらまほしくて、さすがにわが見捨てん後をさへなん思ひやり後見たりし。さりとも、絶えて思ひ放つやうはあらじと思うたまへて、とかく言ひはべりしを、背きもせずと、尋ねまどはさむとも隠れ忍びず、かかやかしからずいらへつつ、ただ、
『ありしながらはえなん見過ぐすまじき。改めてのどかに思ひならばなんあひ見るべき』
など言ひしを、さりともえ思ひ離れじと思ひたまへしかば、しばし懲らさむの心にて、「しか改めむ」とも言はず、いたく綱引きて見せしあひだに、いといたく思ひ嘆きてはかなくなりはべりにしかば、たはぶれにくくなむおぼえはべりし。ひとへにうち頼みたらむ方は、さばかりにてありぬべくなん思ひたまへ出でらるる。はかなきあだ事をも、まことの大事をも、言ひ合はせたるにかひなからず、竜田姫と言はむにもつきなからず、たなばたの手にもおとるまじくその方も具して、うるさくなんはべりし」
とて、いとあはれと思ひ出でたり。中将、
「そのたなばたの裁ち縫ふ方をのどめて、長き契りにぞあえまし。げにその竜田姫の錦にはまたしくものあらじ。はかなき花紅葉と言ふも、をりふしの色あひつきなくはかばかしからぬは、露のはえなく消えぬるわざなり。さあるにより、かたき世とは定めかねたるぞや」
と言ひはやしたまふ。
「さて、また同じころ、まかり通ひし所は、人も立ちまさり、心ばせまことにゆゑありと見えぬべく、うち詠み、走り書き、掻い弾く爪音、手つき、口つき、みなただたどしからず見聞きわたりはべりき。見る目もこともなくはべりしかば、このさがなものをうちとけたる方にて、ときどき隠ろへ見はべりしほどは、こよなく心とまりはべりき。この人亡せて後、いかがはせむ、あはれながらも過ぎぬるはかひなくて、しばしばまかり馴るるには少しまばゆく、艶にこのましき事は目につかぬ所あるに、うち頼むべくは見えず、かれがれにのみ見せはべる程に、忍びて心かはせる人ぞありけらし。神無月のころほひ、月おもしろかりし夜、内裏よりまかではべるに、ある上人来あひて、この車にあひ乗りてはべれば、大納言の家にまかりとまらむとするに、この人言ふやう、
『こよひ人待つらむ宿なんあやしく心苦しき』
とて、この女の家はた避きぬ道なりければ、荒れたるくづれより池の水影見えて、月だに宿る住みかを過ぎむもさすがにて、下りはべりぬかし。もとよりさる心をかはせるにやありけん、この男いたくすずろきて、門近き廊の簀子だつものに尻かけてとばかり月を見る。菊いとおもしろく移ろひわたり、風にきほへる紅葉の乱れなど、あはれとげに見えたり。懐なりける笛取り出でて吹き鳴らし、『影もよし』などつづしりうたふほどに、よく鳴る和琴を調べととのへたりける、うるはしく掻き合はせたりしほど、けしうはあらずかし。律の調べは、女のものやはらかに掻き鳴らして、簾の内より聞こえたるも、いまめきたるものの声なれば、きよく澄める月にをりつきなからず。男いたくめでて、簾のもとに歩み来て、
『庭の紅葉こそ踏み分けたる跡もなけれ』
などねたます。菊ををりて、
琴の音も月もえならぬ宿ながらつれなき人を引きやとめける
『わろかめり』
など言ひて、
『いま一声聞きはやすべき人のある時、手な残いたまひそ』
など、いたくあざれかかれば、女、声いたうつくろひて、
木枯らしに吹き合はすめる笛の音を引きとどむべきことの葉ぞなき
となまめきかはすに、にくくなるをも知らで、また箏の琴を盤渉調に調べていまめかしく掻ひ弾きたる爪音、かどなきにはあらねど、まばゆき心地なんしはべりし。ただ時々うち語らう宮仕へ人などの、飽くまでさればみすきたるは、さても見る限りはをかしくもありぬべし。時々にても、さる所にて忘れぬよすがと思うたまへんには頼もしげなく、さし過ぐいたりと心おかれて、その夜の事にことつけてこそまかり絶えにしか。
この二つのことを思うたまへ合はするに、若き時の心にだに、なほさやうにもて出でたることはいとあやしく頼もしげなくおぼえはべりき。いまよりのちはましてさのみなん思うたまへらるべき。御心のままに、をらば落ちぬべき萩の露、拾はば消えなんと見る玉笹の上のあられなどの、艶にあえかなるすきずきしさのみこそをかしくおぼえさるらめ。いま、さりとも七年あまりがほどにおぼし知りはべなん。なにがしがいやしき諌めにて、すきたわめらむ女に心おかせたまへ。あやまちして、見む人のかたくななる名をも立てつべきものなり」
と戒む。中将、例のうなづく。君すこし片笑みて、さる事とはおぼすべかめり。
「いづ方につけても人わるくはしたなかりける身物語りかな」
とてうち笑ひおはさうず。中将、
「なにがしは痴者の物語りをせむ」とて、
「いと忍びて見そめたりし人の、さても見つべかりしけはひなりしかば、ながらふべきものとしも思うたまへざりしかど、馴れゆくままにあはれとおぼえしかば、絶え絶え忘れぬものに思ひたまへしを、さばかりになればうち頼めるけしきも見えき。頼むにつけてはうらめしと思ふ事もあらむと、心ながらおぼゆるをりをりもはべりしを、見知らぬやうにて、久しきと絶えおをも、かうたまさかなる人とも思ひたらず、ただ朝夕にもてつけたらむありさまに見えて心ぐるしかりしかば、頼めわたる事などもありきかし。親もなく、いと心ぼそげにて、さらばこの人こそはとことにふれて思へるさまもらうたげなりき。かうのどけきにおだしくて、久しくまからざりしころ、この見たまふるわたりより、なさけなくうたてある事をなん、さるたよりありてかすめ言はせたりける、後にこそ聞きはべりしか。さるうき事やあらむとも知らず、心に忘れずながら、消息などもせで久しくはべりしに、むげに思ひしをれて、心細かりければ、をさなきものなどもありしに、思ひわづらひて、なでしこの花ををりておこせたりし」
とて涙ぐみたり。
「さてその文の言葉は」
と問ひたまへば、
「いさや、ことなる事もなかりきや。
山がつの垣穂荒るともをりをりにあはれはかけよなでしこの露
思ひ出でしままにまかりたりしかば、例のうらもなきものから、いともの思ひ顔にて、荒れたる家の露しげきをながめて虫の音に競へるけしき、昔物語めきておぼえはべりし。
咲きまじる色はいづれとわかねどもなほ常夏にしくものぞなき
やまとなでしこをばさしおきて、まづ塵をだになど親の心を取る。
うちはらふ袖も露けき常夏にあらし吹きそふ秋も来にけり
とはかなげに言ひなして、まめまめしくうらみたるさまも見えず、涙を漏らし落としても、いとはづかしくつつましげに紛らはし隠して、つらきをも思ひ知りけりと見えむはわりなく苦しきものと思ひたりしかば、心やすくて、またと絶えおきはべりしほどに、跡もなくこそかき消ちて失せにしか。
まだ世にあらばはかなき世にぞさすらふらん。あはれと思ひしほどに、わづらはしげに思ひまつはすけしき見えしかば、かくもあくがらさざらまし。こよなきと絶えおかず、さるものにしなして、長く見るやうもはべりなまし。かのなでしこのらうたくはべりしかば、いかで尋ねむと思ひたまふるを、いまもえこそ聞きつけはべらね。これこそのたまへるはかなきためしなめれ。つれなくて、つらしと思ひけるも知らで、あはれ絶えざりしも、益なき片思ひなりけり。いまやうやう忘れゆく際に、かれはた、えしも思ひ離れず、をりをり人やりならぬ胸こがるる夕べもあらむとおぼえはべり。これなんえ保つまじく頼もしげなき方なりける」
「さればこのさがなものも、思ひ出である方に忘れがたけれど、さしあたりて見んにはわづらはしく、よくせずは飽きたきこともありなんや。琴の音すすめけんかどかどしさもすきたる罪重かるべし」
「この心もとなきも、疑ひ添ふべければ、いづれとつひに思ひ定めずなりぬるこそ」
「世中や、ただかくこそ。取り取りに比べ苦しかるべき。このさまざまのよき限りを取り具し難ずべきくさはひまぜぬ人はいづこにかはあらむ。吉祥天女を思ひかけむとすれば、ほふけづきくすしからむこそまたわびしかりぬべけれ」
とて、みな笑ひぬ。
「式部が所にぞけしきあることはあらむ。すこしづつ語り申せ」と責めらる。
「下が下のなかにはなでふことか聞こしめし所はべらむ」と言へど、頭の君、まめやかに、
「おそし」と責めたまへば、何事を取り申さんと思ひめぐらすに、
「まだ文章の生にはべりし時、かしこき女のためしをなん見たまへし。かの馬の頭の申したまへるやうに、公事をも言ひ合はせ、私ざまの世に住まふべき心おきてを思ひめぐらさむ方もいたり深く、才の際、なまなまの博士はづかしく、すべて口開かすべくなんはべらざりし。それは、ある博士のもとに、学問などしはべるとてまかり通ひしほどに、あるじむすめども多かりと聞きたまへて、はかなきついでに言ひ寄りてはべりしを、親聞きつけて、盃持て出でて、
『我が両つの途歌ふを聴け』
となん聞こえごちはべりしかど、をさをさうちとけてもまからず、かの親の心を憚りて、さすがにかかづらひはべりしほどに、いとあはれに思ひ後見、寝覚めの語らひにも身のざえつき、おほやけに仕うまつるべき道道しきことををしへて、いときよげに消息文にも仮名と言ふもの書きまぜず、むべむべしく言ひまはしはべるに、おのづからまかり絶えで、そのものを師としてなんわづかなる腰をれ文作ることなど習ひはべりしかば、いまにその恩は忘れはべらねど、なつかしき妻子とうち頼まむには、無才の人なまわろならむふるまひなど見えむに、はづかしくなん見えはべりし。まいて、君達の御ため、はかばかしくしたたかなる御後見は、何にかせさせたまはん。はかなし、くちをしとかつ見つつも、ただ我心につき、宿世の引く方はべめれば、男しもなん仔細なきものははべめる」
と申せば、残りを言はせむとて、
「さてさてをかしかりける女かな」
とすかいたまふうを、心は得ながら鼻のわたりをこづきて語りなす。
「さて、いと久しくまからざりしに、もののたよりに立ち寄りてはべれば、常のうちとけゐたる方にははべらで、心やましきもの物越しにてなん会ひてはべる。ふすぶるにやと、をこがましくも、またよき節なりとも思ひたまふるに、このさかし人はた、軽々しきもの怨じすべきにもあらず、世の道理を思ひ取りてうらみざりけり。声もはやりかにて言ふやう、
『月ごろ、風病重きに耐えかねて、極熱の草薬を服して、いと臭きによりなんえ対面たまはらぬ。目のあたりならずとも、さるべからん雑事らはうけたまはらむ』
と、いとあはれにむべむべしく言ひはべり。いらへに何とかは。ただ、
『うけたまはりぬ』
とて立ち出ではべるに、さうざうしくやおぼえけん、
『この香失せなん時に立ち寄りたまへ』
と高やかに言ふを、聞き過ぐさむもいとほし、しばしやすらふべきにはたはべらねば、げにそのにほひさへはなやかに立ち添へるもすべなくて、逃げ目を使ひて、
ささがにのふるまひしるき夕暮れにひるま過ぐせと言ふがあやなさ
『いかなることつけぞや』
と、言ひも果てず走り出ではべりぬるに、追ひて、
逢ふことの夜をし隔てぬ中ならばひるまも何かまばゆからまし
さすがに口疾くなどははべりき」
と、しづしづと申せば、君達、あさましと思ひて、
「そらごと」とて笑ひたまふ。
「いづこのさる女かあるべき。おいらかに鬼とこそ向かひゐたらめ。むくつけきこと」
と爪はじきをして、言はむ方なしと式部をあはめにくみて、
「すこしよろしからむことを申せ」と責めたまへど、
「これよりめづらしきことはさぶらひなんや」とてをり。
「すべて、男も女もわろものは、わづかに知れる方のことを残りなく見せ尽くさむと思へるこそ、いとほしけれ。三史五経、道々しき方を明らかに悟り明かさんこそ愛敬なからめ、などかは女と言はんからに、世にあることの公私につけて、むげに知らずいたらずしもあらむ。すこしもかどあらむ人の、耳にも目にもとまること、自然に多かるべし。さるままには真名を走り書きて、さるまじきどちの女文に半ば過ぎて書きすくめたる、あなうたて、この人のたをやかならましかば、と見えたり。心地にはさしも思はざらめど、おのづからこはごはしき声に読みなされなどしつつ、ことさらびたり。上﨟のなかにも多かることぞかし。歌詠むと思へる人の、やがて歌にまつはれ、をかしき古言をもはじめより取り込みつつ、すさまじきをりをり詠みかけたるこそものしき事なれ。返しせねばなさけなし、えせざらむ人ははしたなからん。さるべき節会など、五月の節に急ぎまゐる朝、何のあやめも思ひしづめられぬに、えならぬ根を引きかけ、九日の宴に、まづかたき詩の心を思ひめぐらし暇なきをりに、菊の露をかこち寄せなどやうの、つきなきいとなみに合はせ、さならでも、おのづから、げにのちに思へばをかしくもあはれにもあべかりける事の、そのをりにつきなく目にとまらぬなどを、おしはからず詠み出でたる、なかなか心おくれて見ゆ。よろづのことに、などかは、さても、とおぼゆるをりから、時々思ひ分かぬばかりの心にては、由ばみ情け立たざらむなんめやすかるべき。すべて、心に知れらむことをも知らず顔にもてなし、言はまほしからむことをも一つ二つのふしは過ぐすべくなんあべかりける」
と言ふにも、君は人ひとりの御ありさまを心の内に思ひつづけたまふ。これに足らず、また、さし過ぎたることなくものしたまひけるかなと、ありがたきにもいとど胸ふたがる。いづ方に寄り果つともなく、はてはてはあやしきことどもになりて明かしたまひつ。
からうして、今日は日のけしきもなほれり。かくのみ籠りさぶらひたまふも大殿の御心いとほしければ、まかでたまへり。大方のけしき、人のけはひもけざやかにけ高く、乱れたるところまじらず、なおこれこそはかの人々の捨てがたく取り出でしまめ人には頼まれぬべけれ、とおぼすものから、あまりうるはしき御ありさまのとけがたくはづかしげに思ひしづまりたまへるを、さうざうしくて、中納言の君、中務などやうのおしなべたらぬ若人どもにたはぶれごとなどのたまひつつ、暑さに乱れたまへる御ありさまを、見るかひありと思ひきこえたり。大臣も渡りたまひて、かくうちとけたまへれば、御几帳隔てておはしまして、御物語り聞こえたまふを、
「暑きに」と、苦みたまへば、人々笑うふ。
「あなかま」とて、脇息に寄りおはす。いとやすらかなる御ふるまひなりや。暗くなるほどに、
「今宵、中神、内裏よりはふたがりてはべりけり」と聞こゆ。
「さかし、例は忌みたまふ方なりけり。二条院にも同じ筋にて、いづくにか違へん。いとなやましきに」とて、大殿籠れり。
「いとあしきことなり」と、これかれ聞こゆ。
「紀伊の守にて親しく仕うまつる人の、中川のわたりなる家なん、このごろ水せき入れて涼しき陰にはべる」と聞こゆ。
「いとよかなり。なやましきに、牛ながら引き入れつべからむ所を」
とのたまふ。忍び忍びの御方違へ所はあまたありぬべけれど、久しくほど経て渡りたまへるに、方塞げて引き違へほかざまへとおぼさんは、いとほしきなるべし。
紀伊の守に仰せ言たまへば、うけたまはりながら退きて、
「伊予の守の朝臣の家につつしむことはべりて、女房なんまかり移れるころにて、狭き所にはべれば、なめげなることやはべらむ」と、下に嘆くを聞きたまひて、
「その人近からむなんうれしかるべき。女遠き旅寝はものおそろしき心地すべきを、ただその几帳のうしろに」とのたまへば、
「げによろしきおまし所にも」とて人走らせやる。いと忍びて、ことさらに、ことことしからぬ所をと、急ぎ出でたまへば、大臣にも聞こえたまはず、御供にもむつましき限りしておはしましぬ。
「にはかに」とわぶれど、人も聞き入れず。心殿の東面払ひ開けさせて、かりそめの御しつらひしたり。にも聞こえたまはず、御供にもむつましき限りしておはしましぬ。水の心ばへなどさる方にをかしくしなしたり。ゐなかいへだつ柴垣して、前栽など心とめて植ゑたり。風涼しくて、そこはかとなき虫の声々聞こえ、蛍しげく飛びまがひてをかしきほどなり。人々、渡殿より出でたる泉にのぞきゐて酒飲む。あるじも肴求むとこゆるぎのいそぎありくほど、君はのどやかにながめたまひて、かの中の品に取り出でて言ひし、このなみならむかし、とおぼし出づ。
思ひ上がれるけしきに聞きおきたまへるむすめなれば、ゆかしくて耳とどめたまへるに、この西面にぞ人のけはひする。衣のおとなひ、はらはらとして、若き声どもにくからず、さすがに忍びて笑ひなどするけはひ。ことさらびたり。格子を上げたりけれど、守、
「心なし」と、むつかりて下ろしつれば、火ともしたる透影、障子の上より漏りたるに、やをら寄りたまひて、見ゆやとおぼせど、隙もなければ、しばし聞きたまふに、この近き母屋に集ひゐたるなるべし、うちささめき言ふことどもを聞きたまへば、わが御上なるべし、
「いといたうまめだちて、まだきにやむごとなきよすが定まりたまへるこそさうざうしかむめれ」
「されど、さるべき隈にはよくこそ隠れありきたまふなれ」
など言ふにも、おぼすことのみ心にかかりたまへば、まづ胸つぶれて、かやうのついでにも人の言ひ漏らさむを聞きつけたらむときなどおぼえたまふ。ことなることなければ聞きさしたまひつ。式部卿の宮の姫君に朝顔たてまつりたまひし歌などをすこしほほゆがめて語るも聞こゆ。くつろぎがましく歌誦じがちにもあるかな、なほ見劣りはしなんかし、とおぼす。
守出で来て、灯籠掛け添へ、火明かくかかげなどして、御果物ばかりまゐれり。
「とばり帳もいかにぞは。さる方の心もなくてはめざましきあるじならむ」
とのたまへば、
「何よけむともえうけたまはらず」
とかしこまりてさぶらふ。端つ方のおましに、仮なるやうにて大殿籠れば、人々も静まりぬ。
あるじの子ども、をかしげにてあり。童なる、殿上のほどに御覧じ馴れたるもあり。伊予の介の子もあり。あまたあるなかに、いとけはひあてはかにて十二三ばかりなるもあり。
「いづれかいづれ」
など問ひたまふに、
「これは故衛門督の末の子にて、いとかなしくしはべりけるを、幼きほどにおくれはべりて、姉なる人のよすがにかくてはべるなり。才などもつきぬべく、けしうははべらぬを、殿上なども思うたまへかけながら、すがすがしうはえまじらひはべらざめる」
と申す。
「あはれのことや。この姉君やまうとの後の親」
「さなんはべる」
と申すに、
「似げなき親をもまうけたりけるかな。上にも聞こしめしおきて、
『宮仕えに出だし立てむと漏らし奏せし、いかになりけむ』
と、いつぞやものたまはせし。世こそ定めなきものなれ」
と、いとおよすげのたまふ。
「不意にかくてものしはべるなり。世の中というもの、さのみこそいまもむかしも定まりたることはべらね。中についても、女の宿世はいと浮かびたるなんあはれにはべる」
なんど聞こえさす。
「伊予の介かしづくや。君と思ふらむな」
「いかがは。私の主とこそは思ひてはべめるを、すきずきしきことと、なにがしよりはじめてうけひきはべらずなむ」
と申す。
「さりとも、まうとたちのつきづきしくいまめきたらむに下ろしたてんやは。かの介はいとよしありてけしきばめるをや」
などもの語りしたまひて、
「いづ方にぞ」
「みな下屋に下ろしはべりぬるを、えやまかり下りあへざらむ」
と聞こゆ。酔ひすすみて、みな人々簀子に臥しつつ静まりぬ。
君はとけても寝られたまはず、いたづら臥しとおぼさるるに御目さめて、この北の障子のあなたに人のけはひするを、こなたやかく言ふ人の隠れたる方ならむ、あはれや、と御心とどめて、やをら起きて立ち聞きたまへば、ありつる子の声にて、
「ものけたまはる。いづくにおはしますぞ」
と、かれたる声のをかしきにて言へば、
「ここにぞ臥したる。客人は寝たまひぬるか。いかに近からむと思ひつるを、されど、けどほかりけり」
と言ふ。寝たりける声のしどけなき、いとよく似通ひたれば、姉妹と聞きたまひつ。
「廂にぞ大殿籠りぬる。おとに聞きつる御ありさまを見たてまつりつる、げにこそめでたかりけれ」
と、みそかに言ふ。
「昼ならましかば、のぞきて見たてまつりてまし」
と、ねたげに言ひて顔引き入れつる声す。ねたう、心とどめても問ひ聞けかし、とあぢきなくおぼす。
「まろは端に寝はべらん。あな暗」
とて、火かかげなどすべし。女君はただこの障子口、筋かひたるほどにぞ臥したるべき。
「中将の君はいづくにぞ。人げとほき心地して、ものおそろし」
と言ふなれば、長押の下に人々臥していらへすなり。
「下に湯に下りて、ただいままゐらむとはべり」
と言ふ。
みな静まりたるけはひなれば、掛金を心みに引き上げたまへれば、あなたよりは鎖さざりけり。几帳を障子口には立てて、火はほの暗きに見たまへば、唐櫃だつものどもをおきたれば、乱りがはしきなかを分け入りたまへれば、けはひしつる所に入りたまへれば、ただひとりいとささやかにて臥したり。なまわづらはしけれど、上なる衣おしやるまで、求めつる人と思へり。
「中将召しつればなん。人知れぬ思ひのしるしある心地して」
とのはまふを、ともかくも思ひ分かれず、ものにおそはる心地して、
「や」
と、おびゆれど、顔に衣のさはりておとにも立てず。
「うちつけに、深からぬ心のほどと見たまふらん、ことわりなれど、年ごろ思ひわたる心のうちも聞こえ知らせむとてなん。かかるをりを待ち出でたるもさらに浅くはあらじと思ひなしたまへ」
と、いとやはらかにのたまひて、鬼神も荒だつまじきけはひなれば、はしたなく、ここに人、ともえののしらず。心地はた、わびしくあるまじきことと思へば、あさましく、
「人違へにこそはべめれ」
と言ふも息の下なり。消えまどへるけしきいと心ぐるしく、らうたげなれば、をかしと見たまひて、
「違ふべくもあらぬ心のしるべを、思はずにもおぼめいたまふかな。すきがましきさまにはよに見えたてまつらじ。思ふこと少し聞こゆべきぞ」
とて、いとちひさやかなればかき抱きて障子のもと出でたまふにぞ、求めつる中将だつ人来あひたる。
「やや」
とのたまふにあやしくて、探り寄りたるにぞいみじくにほひ満ちて、顔にもくゆりかかる心地するに、思ひ寄りぬ。あさましう、こはいかなることぞと思ひまどはるれど、聞こえん方なし。なみなみの人ならばこそ荒らかにも引きかなぐらめ、それだに人のあまた知らむはいかがあらん、心もさわぎて慕ひ来たれど、動もなくて奥なるおましに入りたまひぬ。障子を引き立てて、
「あかつきに御迎へにものせよ」
とのたまへば、女は、この人の思ふらむことさへ死ぬばかりわりなきに、流るるまで汗になりて、いと悩ましげなり。いとほしけれど、例のいづこより取う出たまふ言の葉にかあらむ、あはれ知るばかりなさけさけしくのたまひ尽くすべかめれど、なほいとあさましきに、
「うつつともおぼえずこそ。数ならむ身ながらも、おぼし朽たしける御心ばへのほどもいかが浅くは思うたまへざらむ。いとかやうなる際は際とこそはべなれ」
とて、かくおし立ちたまへるを深くなさけなくうしと思ひ入りたるさまも、げにいとほしく心はづかしきけはひなれば、
「その際々をまだ知らぬうひことぞや。なかなかおしなべたるつらに思ひなしたまへるなんうたてありける、おのづから聞きたまふやうもあらむ。あながちなるすき心はさらにならはぬを、さるべきにや、げにかくあはめられたてまつるもことわりなる心まどひを、みづからもあやしきまでなん」
などまめだちてよろづにのたまへど、いとたぐひなき御ありさまの、いよいようちとけきこえんことわびしければ、すくよかに心づきなしとは見えたてまつるとも、さる方の言ふかひなきにて過ぐしてむ、と思ひて、つれなくのみもてなしたり。
人柄のたをやぎるに、強き心をしひて加へたれば、なよ竹の心地して、さすがにをるべくもあらず。まことに心やましくて、あながちなる御心ばへを言ふ方なしと思ひて泣くさまなど、いとあはれなり。心ぐるしくはあれど、見ざらましかばくちをしからましとおぼす。慰めがたくうしと思へれば、
「などかくうとましきものにしもおぼすべき。おぼえなきさまなるしもこそ契りあるとは思ひたまはめ。むげに世を思ひ知らぬやうにおぼされたまふなんいとつらき」
とうらみられて、
「いとかくうき身のほどの定まらぬ、ありしながらの身にて、かかる御心ばへを見ましかば、あるまじきわが頼みにて、見なほしたまふ後瀬をも思ひたまへ慰めましを、いとかう仮なる浮き寝のほどを思ひはべるに、たぐひなく思うたまへまどはるるなり。よし、今は見きとなかけそ」
とて、思へるさまげにいとことわりなり。おろかならず契り慰めたまふこと多かるべし。鳥も鳴きぬ。人々起き出でて、
「いといぎたなかりける夜かな。御車引き出でよ」
など言ふなり。守も出で来て、女などの、
「御方違えこそ。夜深く急がせたまふべきかは」
など言ふもあり。君は、またかやうのついであらむこともいとかたく、さしはへてはいかでか、御文なども通はんことのいとわりなきをおぼすに、いと胸いたし。奥の中将も出でていと苦しがれば、ゆるしたまひても、また引きとどめたまひつつ、
「いかでか、聞こゆべき。 世に知らぬ御心のつらさも、あはれも、浅からぬ夜の思ひ出では、さまざまめづらかなるべき例かな」
とて、うち泣きたまふ気色、いとなまめきたり。鳥もしばしば鳴くに、心あわたたしくて、
つれなきを恨みも果てぬしののめにとりあへぬまでおどろかすらむ
女、身のありさまを思ふに、いとつきなくまばゆき心地して、めでたき御もてなしも、何ともおぼえず、常はいとすくすくしく心づきなしと思ひあなづる伊予の方の思ひやられて、 夢にや見ゆらむとそらおそろしくつつまし。
身の憂さを嘆くにあかで明くる夜はとり重ねてぞ音もなかれける
ことと明かくなれば、障子口まで送りたまふ。内も外も人騒がしければ、引き立てて、別れたまふほど、心細く隔つる関と見えたり。
御直衣など着たまひて、南の高欄にしばしうちながめたまふ。西面の格子そそき上げて、人びとのぞくべかめる。簀子の中のほどに立てたる小障子の上よりほのかに見えたまへる御ありさまを、身に染むばかり思へるすき心どもあめり。
月は有明にて、光をさまれるものから、影けざやかに見えて、なかなかをかしき曙なり。何心なき空のけしきも、ただ見る人から、艶にもすごくも見ゆるなりけり。人知れぬ御心にはいと胸いたく、言伝てやらんよすがだになきを、と返り見がちにて出でたまひぬ。
殿に帰りたまひても、とみにもまどろまれたまはず。また逢ひ見るべき方なきを、まして、かの人の思ふらむ心の中、いかならむと、心苦しく思ひやりたまふ。すぐれたることはなけれど、めやすくもてつけてもありつる中の品かな。隈なく見集めたる人の言ひしことはげに、とおぼし合はせられけり。
このほどは大殿にのみおはします。なほいとかき絶えて、思ふらむことのいとほしく御心にかかりて、苦しくおぼしわびて、紀伊の守を召したり。
「かの、ありし中納言の子は得させてんや。らうたげに見えしを、身近く使ふ人にせむ。上にも我たてまつらむ」とのたまへば、
「いとかしこき仰せ言にはべるなり。姉なる人にのたまひみん」
と申すも、胸つぶれておぼせど、
「その姉君は、朝臣の弟や持たる」
「さもはべらず。この二年ばかりぞかくてものしはべれど、親のおきてに違へりと思ひ嘆きて、心ゆかぬやうになん聞きたまふる」
「あはれのことや。よろしく聞こえし人ぞかし。まことによしや」とのたまへば、
「けしうははべらざるべし。もて離れてうとうとしくはべれば、世のたとひにて睦びはべらず」と申す。
さて、五六日ありて、この子率て参れり。こまやかにをかしとはなけれど、なまめきたるさましてあて人と見えたり。召し入れていとなつかしく語らひたまふ。童心地にいとめでたくうれしと思ふ。 いもうとの君のことも詳しく問ひたまふ。さるべきことは答聞こえなどして、恥づかしげに静まりたれば、うち出でにくし。されど、いとよく言ひ知らせたまふ。かかることこそはと、ほの心得るも思ひのほかなれど、幼心地に深くしもたどらず。
御文を持て来たれば、女、あさましきに涙も出で来ぬ。この子の思ふらむこともはしたなくて、さすがに御文を面隠しに広げたり。いと多くて、
見し夢を逢ふ夜ありやと嘆くまに目さへ合はでぞころも経にける
「寝る夜なければ」
など、目も及ばぬ御書きざまも、霧り塞がりて、心得ぬ宿世うち添へりける身を思ひ続けて臥したまへり。
またの日、小君召したれば、参るとて御返り乞ふ。
「かかる御文見るべき人もなし、と聞こえよ」
とのたまへば、うち笑みて、
「違ふべくものたまはざりしものを。いかがさは申さむ」
と言ふに、心やましく、残りなくのたまはせ、知らせてけると思ふに、つらきこと限りなし。
「いで、およすげたることは言はぬぞよき。さは、な参りたまひそ」とむつかられて、
「召すにはいかでか」とて参りぬ。
紀伊の守、すき心にこのまま母のありさまをあたらしきものに思ひて追従しありけば、この子をもてかしづきて率てありく。君、召し寄せて、
「昨日待ち暮らししを。なほあひ思ふまじきなめり」
と怨じたまへば、顔うち赤めてゐたり。
「いづら」とのたまふに、しかしかと申すに、
「言ふかひなのことや。あさまし」とて、またもたまへり。
「あこは知らじな。その伊予の翁よりは先に見し人ぞ。されど頼もしげなく頚細しとて、ふつつかなる後見まうけて、かくあなづりたまふなめり。さりとも、あこはわが子にてをあれよ。この頼もし人は行く先短かりなむ」
とのたまへば、さもやありけん、いみじかりけることかなと思へる、をかしとおぼす。この子をまつはしたまひて、内裏にも率て参りなどしたまふ。わが御匣殿にのたまひて、装束などもせさせ、まことに親めきてあつかひたまふ。
御文は常にあり。されど、この子もいと幼し、心よりほかに散りもせば軽々しき名さへ取り添へん身のおぼえをいとつきなかるべく思へば、めでたきこともわが身からこそと思ひて、うちとけたる御答も聞こえず。ほのかなりし御けはひありさまは、げになべてにやはと思ひ出できこえぬにはあらねど、をかしきさまを見えたてまつりても、何にかはなるべき、など思ひ返すなりけり。
君はおぼしおこたる時の間もなく、心苦しくも恋しくもおぼし出づ。思へりしけしきなどのいとほしさも、晴るけん方なくおぼしわたる。軽々しくはひ紛れ立ち寄りたまはんも、人目しげからむ所に便なきふるまひやあらはれんと、人のためもいとほしくとおぼしわづらふ。
例の、内裏に日数経たまふころ、さるべき方の忌み待ち出でたまふ。にはかにまかでたまふまねして、道のほどよりおはしましたり。紀伊の守おどろきて、遣水の面目とかしこまり喜ぶ。小君には、昼より、
「かくなむ思ひ寄れる」
とのたまひ契れり。明け暮れまつはしならはしたまひければ、今宵もまづ召し出でたり。女もさる御消息ありけるに、おぼしたばかりつらむほどは、浅くしも思ひなされねど、さりとてうちとけ 人げなきありさまを見えたてまつりても、あぢきなく夢のやうにて過ぎにし嘆きをまたや加へん、と思ひ乱れて、なほさて待ちつけきこえさせんことのまばゆければ、小君が出でて去ぬるほどに、
「いとけ近ければかたはらいたし。なやましければ、忍びてうちたたかせなどせむに、ほど離れてを」
とて、渡殿に中将といひしが局したる隠れに移ろひぬ。
さる心して、人とく静めて、御消息あれど、小君は尋ね合はず。よろづの所求め歩きて、渡殿に分け入りて、からうしてたどり来たり。いとあさましくつらしと思ひて、
「いかにかひなしとおぼさむ」
と、泣きぬばかり言へば、
「かくけしからぬ心ばへは使ふものか。幼き人のかかること言ひ伝ふるは、いみじく忌むなるものを」と言ひおどして、
「『心地悩ましければ、人々避けずおさへさせてなむ』と聞こえさせよ。あやしと誰も誰も見るらむ」
と言ひ放ちて、心のうちには、いとかく品定まりぬる身のおぼえならで、過ぎにし親の御けはひとまれる古里ながら、たまさかにも待ちつけたてまつらば、をかしうもやあらまし。しひて思ひ知らぬ顔に見消つも、いかにほど知らぬやうにおぼすらむ、と心ながらも胸いたく、さすがに思ひ乱る。とてもかくても、今は言ふかひなき宿世なりければ、無心に心づきなくてやみなむ、と思ひ果てたり。
君は、いかにたばかりなさむと、まだ幼きをうしろめたく待ち臥したまへるに、 不用なるよしを聞こゆれば、あさましくめづらかなりける心のほどを、
「身もいと恥づかしくこそなりぬれ」
と、いといとほしき御けしきなり。とばかりものものたまはず、いたくうめきて憂しとおぼしたり。
帚木の心を知らで園原の道にあやなくまどひぬるかな
「聞こえむ方こそなけれ」
とのたまへり。女も、さすがにまどろまざりければ、
数ならぬ伏屋に生ふる名の憂さにあるにもあらず消ゆる帚木
と聞こえたり。小君、いといとほしさに眠たくもあらでまどひ歩くを、人あやしと見るらんとわびたまふ。
例の、人々はいぎたなきに、一所すずろにすさまじくおぼし続けらるれど、人に似ぬ心ざまのなほ消えず立ち上れりける、とねたく、かかるにつけてこそ心もとまれとかつはおぼしながら、めざましくつらければ、さはれとおぼせども、さもおぼし果つまじく、
「隠れたらむ所になほ率て行け」とのたまへど、
「いとむつかしげにさし籠められて、人あまたはべるめれば、かしこげに」
と聞こゆ。いとほしと思へり。
「よし、あこだにな捨てそ」
とのたまひて、御かたはらに臥せたまへり。若くなつかしき御ありさまを、うれしくめでたしと思ひたれば、つれなき人よりはなかなかあはれにおぼさるとぞ。