第2帖「帚木」(9)この女のあるやう

国貞『源氏香の図』
典:国会図書館「NDLイメージバンク」

原文・語釈

この女のあるやう、もとより

 この女のあるやう、もとよりおもひいたらざりけることにも、いかでこの人のためにはと、なきだし、おくれたるすぢの心をもなほくちをしくはえじとおもひはげみつつ、とにかくにつけてものまめやかに後見うしろみ、つゆにても心にたがふことはなくもがなとおもへりしほどに、すすめるかたおもひしかど、とかくになびきてなよびゆき、みにくきかたちをもこの人にうとまれんとわりなくおもひつくろひ、うとき人にえば面伏おもてぶせにやおもはんとはばかりはぢて、みさをにもてつけて、みなるるままに心もけしうはあらずはべりしかど、ただこのにくきかたひとつなん心をさめずはべりし。

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  • おくる【後る・遅る】:(才能・性質・容貌が)劣る。乏しい。
  • くちをし【くちし】:つまらない。もの足りない。
  • ものまめやか:まじめなさま。誠実だ。
  • うしろみる【後ろる】:(日常的に)世話をする。
  • なくもがな【無くもがな】:ないといい。あってほしくない。
  • なびく【靡く】:従う。
  • なよぶ:しとやかに振る舞う。なよなよと柔和なようすである。
  • うとむ【うとむ】:いやだと思ってさける。きらってひや淡にする。
  • わりなし:むやみなさま。無理にするさま。
  • うとし【うとし】:親密でない。関係が薄い。(もの事を)よくらない。
  • おもてぶせ【面伏せ】:面目ないこと。不名誉。
  • はづ【づ】:遠慮する。気がねする。
  • みさを【操】:心を変えないこと。節操。貞節。
  • けしうはあらず【異しうはあらず】:そんなに悪くない。
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そのかみおもひはべりしやう

 そのかみおもひはべりしやう、かうあながちにしたがひおぢたる人なめり、いかでるばかりのわざしておどして、このかたもすこしよろしくもなり、さがなさもやめむ、とおもひて、まことにうしなどもおもひてえぬべきけしきならば、かばかりわれにしたがふ心ならばおもりなむ、とおもひたまひて、ことさらになさけなくつれなきさまをせて、れいはらはらゑんずるに、

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  • かみ【上】:当時。
  • あながち【つよち】:一方的なさま。ひたむきなようす。いちずなようす。
  • おづ【怖づ】:恐れる。こわがる。
  • さがなし:性質がよくなり。意地が悪い。口やかましい。
  • うし【うれし】:つれない。薄情だ。
  • れいの【例の】:いつものように。
  • ゑんず【怨ず】:不満を葉や態度で表す。恨みがましいことをう。
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かくおぞましくはいみじきちぎり深くとも

『かくおぞましくはいみじきちぎふかくともえてまたじ、かぎりとおもはばかくわりなきものうたがひはせよ、先長さきながえむとおもはば、つらきことありともねんじて、なのめにおもひなりて、かかる心だにせなばいとあはれとなんおもふべき、人なみなみにもなり、すこしおとなびんにへてもまたならぶ人なくあるべきやう』

 など、かしこくをしへつるかなとおもひたまひて、我たけくひしはべるに、すこしうちわらひて、

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  • おぞまし【悍まし】:気がつよい。つよ情だ。
  • なのめ【斜め】:ありふれたさま。ふつうだ。平凡だ。
  • ひとなみなみ【人並み並み】:一般の人と同ほど度である。世間並みである。
  • おとなぶ【おほ人ぶ】:成長しておほ人らしくなる。
  • たけし【猛し】:勢いが激しい。つよ気である。
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よろづにてなく

『よろづにみだてなく、ものげなきほどを見過みすぐして、人かずなるも世もやとつもかたは、いとのどかにおもひなされて心やましくもあらず。つらき心をしのしのびて、おもひなほらんをりつけんと、年月としつきかさねんあいなだのみはいとくるしくなんあるべければ、かたみそむきぬべききざみになむある』

 と、ねたげにふにはらはらたしくなりて、にくげなることどもをひはげましはべるに、女もえをさめぬすぢにて、およびひとつをせてひてはべりを、おどろおどろしくかこちて、

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  • みだてなし【て無し】:ばえがしない。
  • ものげなし【もの気無し】:たいしたものでない。一人前でない。
  • のどか【長閑】:気長く思うさま。
  • こころやまし【心疾し・心疚し】:(思いかよりにならずに)不満である。
  • つらし【辛し】:不人情でいやだ。思いやりがない。薄情だ。
  • あいなだのみ【あいな頼み】:あてにならない期待。
  • いひはげます【ひ励ます】:つよい口調ととので相手の気持ちを刺激する。
  • くふ【食ふ】:かみつく。
  • おどろおどろし:おほげさである。
  • かこつ【託つ】:かこつける。口実にする。
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かかるきずさへつきぬれば

『かかるきずさへつきぬれば、いよいよまじらひをすべきにもあらず。はづかしめたまふめるつかさくらゐいとどしく、なににつけてかは人めかん。世をそむきぬべき身なり』

 などひおどして、

『さらば、けふこそはかぎりなめれ』

 とこのおよびをかがめてまかでぬ。

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  • まじらひ【交じらひ】:交際。つきあい。宮つかえ。
  • いとどし:ますます激しい。いよいよはなはだしい。
  • ひとめく【人めく】:一人前のひとらしくえる。
  • かがむ【屈む】:曲げる。
  • まかづ【罷づ】:退する。
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手ををりてあひしことを

  りてあひしことをかぞふればこれひとつやは君がきふし

 えうらみじ、などひはべれば、さすがにうちきて、

  きふしを心ひとつにかぞへきてこや君がわかるべきをり

 などひしろひはべりしかど、まことにははるべきことともおもひたまへずながら、ごろるまで消息せうそこつかはさず、あくがれまかりありありくに、

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  • てををる【手をる】:指をって数える。
  • うきふし【うれき節】:いやな点。つらい来事。
  • てをわかる【手を別る】:関係を絶つ。手を切る。
  • いひしろふ【ひしろふ】:互いにい合う。い争う。口論する。
  • ひごろ【日頃】:数日間。何日もの間。
  • あくがる【憧る】:浮かれありく。さまよう。
  • まかりありく【罷りありく】:「ありく」の謙譲または丁寧語。ありく。
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現代語訳

帚木(ハハキギ・コキア)

 この女のありようといったら、はなから頭が追いつかないようなことでも「この人のためなら何とかしたい」とない恵を絞りして、苦手なことを苦手だと思われないように努力するし、とにかく何でもきちんと世話をして、少しでもをとこの期待に反することがあってはいけないって感じやったんですよ。気のつよい人だと思ってたんですけど、なんでも自分のうことをいてくれるし、おしとやかな感じになっていって。醜い顔も、をとこられて嫌われはしないかと無理な化粧をして、無な人だと思われたらをとこの面目がないと、一ありいて上品に振る舞って、なれてしまえばそんなに悪くないなって思えたんですけどね、ただこの憎たらしい嫉妬心、これだけは直らんかったんですわ。

 それで当時思いましたのは、こうも一途にうこといて怖気づいている女なんだから、どうにかしてりするようなドッキリでおどかせば、嫉妬も少しは減ってキャンキャンうるさいのもやむんじゃないかって。リアルに嫌いになったふりをして別れたいオーラをせば、これほど自分に従順な心ならばりるだろう、と思いつきまして、ことさらに薄情でつれない態度をせてやりました。

 そしたらいつものように怒って、ギャーギャーわめくもんですから、

『こんなつよ情な態度じゃ、どんなに縁が深かったとしても無理だわ、もう会いたくもない。これで終わりだと思うなら、そうやって理不尽に疑えばいい。でもこの先も長く一緒にいたいと思うんだったら、辛いことがあっても我慢して、いい加減よくあることだって思えよ。こういう独占欲さえなくなれば、なんてかわいいんだろうって俺も思うだろうよ。人並みに世して、ちょっと人より上の身分になれば、そのうちお前と肩を並べる女もおらんくなるやろ』

 とかっちゃったんですよ。うまいこといくるめたかなと思って、調ととの子こいてまくしててたら、女は少しあざって、

『何にもどころがなく、しょうもないあなたの下積み時代をやりごして、いつになったら芽がるのかしらと待つ私の方は、それはもう気長に構えておりますので不満なんてありません。あなたの思いやりのない心を堪えしのんで、変わってくれるチャンスをつけようと年月を重ねるだけの期待はむなしく、ひどく苦しいでしょうから、お互いに別れるべき時が来たのでしょう』

 と、皮肉たっぷりにってくるからはらたしくなって、えげつない葉をとことん浴びせてやったら、女もあとにけない性格なもんで、私の指を一本たぐりせて噛みついてきたんですよ。私はここぞとばかりにかこつけて、

『こんな傷までついてしまったら、いよいよ宮中に向くことすらできんやんけ。お前がおほしたことないと馬鹿にする官位もこれで終わり。もう何をどうやったって世は無理。家した方がいいレベルだわ』

 とかって責めたら、

『そうおっしゃるならば、今日けふこそがかぎりのようですね』

 と、この指を曲げたままていきました。

りてあひしことをかぞふればこれひとつやは君がきふし

指をってあなたと共にした来事を数えれば、この指一本だけがあなたを嫌になる節目でしょうか。

 捨てられても恨めないだろ、などといましたら、さすがに泣き始めて、

きふしを心ひとつにかぞへきてこや君がわかるべきをり

あなたのひどいつか打ちを心ひとつに数えて耐えてきて、この一件こそがあなたと別れるべきなのでしょうか。

 などとい争いましたけど、自分は本気で別れようとは思ってなかったものの、何日も連絡もしないで遊びありいていました。