第1帖「桐壺」(10)風の音、虫の音につけて

国貞『源氏香の図』
典:国会図書館「NDLイメージバンク」

原文・語釈

風の音、虫の音につけて

 かぜおとむしにつけて、もののみ悲しうおぼさるるに、弘徽こき殿でんには、久しくうへの御つぼねにものぼりたまはず、月のおもしろきに、ふくるまであそびをぞしたまふなる、いとすさまじうものしとこしめす。

 このごろの御けしきをたてまつる上人うへびと、女房などは、かたはらいたしときけり。いとおしちかどかどしき所ものしたまふ御方にて、ことにもあらずおぼし消ちてもてなしたまふなるべし。

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  • すさまじ【凄まじ】:その場にそぐわず興ざめだ。
  • ものし【ものし】:気にくわない。不快だ。
  • かたはらいたし【傍ら痛し】:そばでいたりたりしているのもにがにがし、いたたまれない、みっともない。
  • おしたつ【押しつ】:つよに振る舞う。我を張る。
  • かどかどし【才才し】:とげとげしい。角がおほい。
  • ことにもあらず【事にもあらず】:たいしたことではない。
  • おぼしけつ【思し消つ】。無理にお忘れになる。無視なさる。
  • もてなす【もて成す】:振る舞う。ふりをする。
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月も入りぬ

 月も入りぬ。

  雲のうへも涙にるる秋の月いかで住むらむ浅茅生あさぢふの宿

 おぼしめしやりつつ、灯火ともしをかかげ尽くして起きおはします。

 右近のつかさ宿直とのゐまうしのこゑこゆるは、うしになりぬるなるべし。人目をおぼして、よる御殿おとどらせたまひても、まどろませたまふことかたし。

 あしたに起きさせたまふとても、「くるもらで」とおぼづるにも、なほあさまつりごとはおこらせたまひぬべかめり。

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  • ともし・ともしび【灯火】:明かり。
  • かかぐ【掲ぐ】:灯火をかきてて明るくする。
  • うこん【右近】:右近衛府の略。宮中の警備にあたる役所。
  • とのゐまうし【宿直申し・宿直そうし】:宮中に宿直した者が、定刻に点呼に応じて自分の姓名を名乗ること。
  • うし【丑】:午前2時頃。
  • よるのおとど【夜の御殿】:清涼殿にある天皇の御寝所。
  • まどろむ【微睡む】:うとうとする。ついちょっと寝る。
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ものなどもこしめさず

 ものなどもこしめさず、朝餉あさがれひのけしきばかり触れさせたまひて、大床子だいしやうじものなどはいとはるかにおぼしめしたれば、陪膳はいぜんにさぶらふかぎりは心ぐるしき御けしきをたてまつりなげく。すべて、ちかうさぶらふかぎりは、をとこをんな

「いとわりなきわざかな」

ひ合はせつつなげく。

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  • もの【もの】:食事。
  • きこしめす【こしす】:し上がる。
  • あさがれひ【朝餉】:朝餉のまで天皇がし上がる略式の食事。
  • けしきばかり【気色ばかり】:少しだけ。形だけ。ほんの少し。
  • ふる【触る】:少し食べる。箸をつける。
  • だいしゃうじ【おほ床子】:天皇が食事などの時に腰掛ける台。
  • だいしゃうじのおもの【おほ床子のもの】:天皇の正式の食事。
  • はるか【遥か】:気が進まないようす。
  • はいぜん【陪膳】:宮中で天皇が食事の時、給つかを勤めること。
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さるべきちぎりこそはおはしけめ

「さるべきちぎりこそはおはしけめ。そこらの人のそしり、うらみをもはばからせたまはず、この御ことに触れたることをばだうをも失はせたまひ、いまはた、かく世中よのなかのことをもおもほし捨てたるやうになりゆくは、いとたいだいしきわざなり」

 と、人のみかどのためしまでで、ささめきなげきけり。

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  • ことにふれ【事に触れ】:何かにつけて。ものごとに関して。
  • いまはた【今将】:今となってまた。今はもう。
  • たいだいし【怠怠し】:不都合である。もってのほかだ。
  • ささめく:ささやく。小声でひそひそ話す。
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現代語訳

桐の花

 風の音、虫の音につけても、帝はただただ悲しい音と思われるのに、弘徽こき殿でんの女御に至っては、久しく清涼殿の御局にもまゐ上されません。月の美しい情緒ある夜に、遅くまで管絃のお遊びにほうけていらっしゃるのを、帝は月夜にそぐわない不愉快な音とおきになります。

 この頃の帝の御様子を拝している殿上人や女房などは、そばでいているだけで苦々しい思いでした。非常に我がつよく、角のつ所のおほい方でしたので、更の死などたいした問題ではないと軽視して、そんな振る舞いをしておられたのでしょう。

 月は山の端に入りました。

  雲のうへも涙にるる秋の月いかで住むらむ浅茅生あさぢふの宿

 と、母君と若宮が住む家を思いやりながら、灯火をかきて尽くして起きていらっしゃいます。

 宮中に宿直する右近衛府の士官が点呼をする声がこえるのは、午前2時頃になったのでしょう。人目を気にされて御寝所にお入りになっても、うとうととお眠りになることも難しい。朝になってお目覚めになっても、「明けるのもらないで」と、更と日が高くなるまで共にしていた日々を思いしては、今でもなお、朝の政務を怠ることがあるようでした。

 お食事などもし上がらず、略式の食事は形ばかり箸をつけるだけで、正式な食事などはとても箸が進まないとお思いになっているので、配膳係の者は皆、帝の心苦しい御様子を拝して嘆きいています。すべて、帝の側におつかえする者はをとこも女も、

「まったくどうしようもないことですね」

 とい合いながら嘆くのでした。

「こうなるべき前世の約束がきっとあったのでしょう。そこら中の人々の嫉妬、恨みをもお気になさらず、この更に触れることにはいつも道理をも失われ、今となってはもう、このように世の中のことをもお捨てになるありさまになっていくのは、まことに困ったことです」

 と、異国の帝の例までき合いにして、ひそひそと嘆いていました。