第1帖「桐壺」(4)御胸つとふたがりて

国貞『源氏香の図』
典:国会図書館「NDLイメージバンク」

原文・語釈

御胸つとふたがりて

 御むねつとふたがりて、つゆまどろまれず、明かしかねさせたまふ。御使つかひふほどもなきに、なほいぶせさをかぎりなくのたまはせつるを、

「夜中うちぐるほどになんてたまひぬる」

 とてきさわげば、御使つかひもいとあへなくてかへまゐりぬ。こしめす御心まどひ、何ごともおぼしめしかれず、こもりおはします。

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  • つと:ぴったりと。
  • ふたがる【蓋がる】:ふさがる。
  • まどろむ【微睡む】:うとうとする。ついちょっと寝る。
  • いぶせさ:心が晴れないこと。
  • あへなし【敢え無し】:どうしようもない。あっけない。
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御子みこはかくてもいと御覧ぜまほしけれど

 御子みこはかくてもいと御覧ぜまほしけれど、かかるほどにさぶらひたまふれいなきことなれば、まかでたまひなんとす。

 なにごとかあらむともおぼしたらず、さぶらふ人々のきまどひ、うへも御涙のひまなくながれおはしますを、あやしとたてまつりたまへるを、よろしきことにだにかかるわかれの悲しからぬはなきわざなるを、ましてあはれにふかひなし。

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  • かくても【斯くても】:こんな状態でも。
  • まかづ【罷づ】:「づ」の謙譲語。退する。
  • ひまなし【いとまなし】:絶える間がない。ひっきりなしである。
  • あやし【奇し・怪し】:不思議だ。異様だ。珍しい。
  • よろしきこと【宜しきこと】:普かよの場合。
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かぎりあれば、例の作法にをさめたてまつるを

 かぎりあれば、れいほふにをさめたてまつるを、母北のかた

おなけぶりにのぼりなん」

 ときこがれたまひて、御送りのにようばうの車にしたりたまひて、愛宕おたぎといふところにいといかめしうそのほふしたるにおはしきたるここ、いかばかりかはありけむ。

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  • かぎり【かぎり】:かぎ度。決まり。おきて。
  • さほふ【作法】:〘仏教語〙葬礼・授戒など仏事をとりおこなう法式、しきたり。(=火葬)
  • をさむ【収む・納む】:死者を葬る。埋葬する。
  • したふ【慕ふ】:あとを追う。
  • おたぎ【愛宕】:現在の京都市左京区北白川辺りか。古く葬送地だった。
  • いかめし【厳めし】:おごそかだ。
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むなしき御骸を

「むなしき御からる、なほおはするものとおもふがいとかひなければ、はひになりたまはんをたてまつりて、今はき人とひたぶるにおもひなりなむ」

 とさかしうのたまへれど、車よりも落ちぬべうまろびたまへば、

「さはおもひつかし」

 と、人々もてわづらひきこゆ。

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  • ひたぶる【頓・一向】:ひたすらするようす。
  • さかし【賢し】:しっかりしている。気がつよい。
  • まろぶ【転ぶ】:転がる。倒れる。
  • もてわづらふ【もて煩ふ】:扱いに困る。処置に悩む。
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内裏うちより御使あり

 内裏うちより御使つかひあり。三位みつくらゐおくりたまふよし、勅使ちよくしてその宣命せんみやうむなんかなしきことなりける。女御にようごとだにはせずなりぬる、かずくちしうおぼさるれば、いまひときざみのくらゐをだにとおくらせたまふなりけり。これにつけてもにくみたまふ人々おほかり。

 ものおもりたまふは、さま容貌かたちなどのめでたかりしこと、心ばせのなだらかにめやすくにくみがたかりしことなど、いまぞおぼづる。さまあしき御もてなしゆゑこそ、すげなうそねみたまひしか、人柄ひとがらのあはれになさけありし御心を、うへ女房にようばうなどもひしのびあへり。「なくてぞ」とはかかるをりにやとえたり。

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  • あかず【飽かず】:心残りである。
  • きざみ【刻み】:階級。
  • ものおもひしる【もの思いる】:ものの道理をわきまえる。
  • めでたし:素晴らしい。派だ。
  • こころばせ【心ばせ】:気だて。性格。
  • なだらか:(性格や態度が)穏やかなようす。
  • めやすし【目安し・目易し】:感じがよい。
  • さまあし【様悪し】:苦しい。
  • すげなし:相手を思いやる気持ちのないさま。ひや淡である。
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現代語訳

 帝は心をすっかり閉じられて、少しの間も眠ることができず、夜を明かせずにいます。お舞いに送った使いの者が、里を往復するだけの時間も経っていないのに、心がそわそわしてつか方がないと、ずっと話しておられました。

「夜中をぎた頃に、とうとう息をっておしまいになりました」

 更の里では、人々が声を荒げて泣いています。使いの者もすっかり気落ちしてしまい、帰るしかありませんでした。話をいた帝は気が動転してしまい、何ごとも正常な判断ができなくなり、お部屋にきこもってしまいました。

 帝はこのような時でも、御子みこを側に置いて御覧になっていたいのですが、母の喪中に御子みこが宮中にいるというのは先例のないことですので、御子みこを更の里へと退させました。

 御子みこは何が起きたのかおわかりにならず、おつかえする女房たちが泣いてみだし、帝まで涙を絶え間なく流しているのを、不思議そうにておられます。親子の別れというのはいつも悲しくてつか方がないのに、母の死を理解できない御子みこの様子は、哀れというほかありません。

 更との最後のお別れを惜しむにもかぎりがありますので、しきたりに従って火葬で送ることになりました。かよ例では親が子の火葬にまゐ列することはないのですが、母君の北の方は、

「娘と同じに煙になってち昇りたい」

 と泣き焦がれ、御葬送の女房の車のあとを追って乗り込んでしまいます。愛宕おたぎという葬送の地で、おほ変おごそかに執りおこなわれている葬儀の最中に到着された時のお気持ちは、どれほどであったでしょうか。

「魂の抜けた亡骸をよくよくては、なおも生きていらっしゃるものと思う自分が、どうにもやるせないのです。いっそ灰になってしまわれるのをとどけて、今は亡き人と、ひたすらに思い切りましょう」

 と気丈におっしゃいましたが、車から落ちようかというほどよろめいておられます。

「そうなるだろうと、思っていたかよりです」

 と、女房たちも扱いに困っていました。

 宮中から勅使がおえになりました。亡き更に三位の位を贈るため、勅使が宣命を読みあげるのが何とも悲しく感じられます。帝は女御とさえわせずじまいだったことが心残りでくちしくお思いになり、せめてもう一段上の位をと贈られたのです。このことでも更を憎む人々がおほくいました。

 そんな中でも良心がある人は、更の品格や容姿が派で美しかったことや、内面も穏やかで人当たりが良く、とても憎まれるような人ではなかったことなどを、今更のように思いしています。あまりに苦しい帝の御寵愛があったからこそひや淡に嫉んでいましたが、人柄がやさしくて思いやりのある心持ちを、帝のそばにつかえる女房たちも懐かし思い合っておられました。

「亡くてぞ人はしかりける」

 と古い歌にあるのは、このようなの心であろうよと思われます。